表し方

 

 

 

何かイライラしていた一日。当然このイライラは自分に向いているから色々と考えていた。というか、ここ1年くらいになるか、ほぼ寝る時以外は何かを考えている。意識を意識しているというか。

 

「考え」は「感情」を矯正するのかということを考えていた。「感情」と「感じ=印象」も違う。でも、もはやこの言葉の分け方は一般的ではないのな。

 

自分が弱いのか、強いのか。

 

さておき。

 

夢で学校が舞台なのが多いのは最初の監獄だったからだろうなと思う。まさか夢でさえ会えないと思っていた人がたくさん登場してくれている。凄い存在感だ。

 

監獄という概念は、フーコーから持ってきたけど、別に閉じ込められた不自由な世界という意味だけのものではない。「規律=常識」の学習装置という意味がある。社会の作法と感情の扱い方を学ぶところ。僕は不自由性を感じていたが、まともな人はとても馴染めるはず。馴染んでしまえば、あとはそこでできあがった「自分」で生きれば良い。今でもよく夢に見るというのは、再構築というか再整頓みたいなことなのかもしれない。こういう何も意志を必要としない関係というのがどうも馴染まないから、世界観を創り直している。

 

ともあれ、頭の中の世界で引きこもって嫌だ嫌だとなっている訳でもなく。自分がここまで怠け者ではななかったのかと、ある意味観劇(これは誤字ではない)。なんだったのだろうな、あのまとわりつくような行動に起こせない重み。感情に引き直すとやる気が起きないだったか。また事務処理。課税証明書が要るが、平日休みがないしソーシャルディスタンスだしで、郵送で請求することにし、昼休みに定額小為替と返信用切手を買い、申請書はネットワークプリントからコンビニで印刷し、ついでに免許証もコピー。帰ってからすぐ洗濯機を回しつつ(週末雨という噂を聞いたため)、書類は15分くらいで終わらせ、後は本を読んだりもぞもぞしたりで、平常のお弁当を作り、読書をし、今の時間。

 

頭の中の世界と現実にはあまりズレがなくなってきた。やる気の概念が完全に排除されるまではもう少しかかりそうだが、やっぱり一般の語用というか概念には不要なものがいっぱいあるみたい。皆必要としてそうだからやってみたが、合わなかった。

 

やれやれ。

 

冒頭に戻ってきて。「考え」と「感情」と「感じ」の話。自分の感情は正しいものだとしている、というか、「自分そのもの」に近いものだとしている人は多いだろうが、たぶんそういう人でも他人の感情を忖度するということはあまりしていないように思う。確かに、感情を言語にすれば共有できるものになるし、なんとなく繋がるが、あくまでなんとなくでしかなく、もともとの感情はとても主観的で個別的なものでしかない。よくもまぁ。

 

公園でお弁当を食べていると、小さい子供が遊んでいて、よく転んで泣いている。それそれはよく転ぶ。これは頭の体の重さの比率が歪だからバランス取れてないのだろうなというのはともかく、観察していると、とてもわざと泣いているなと読める。この「わざと」は悪い意味ではなく、自分が泣くことの効用を認識した上のことだということ。感情の最初はこういうことだとすると、感情は当人の主観というより、社会的な共有のための学習みたいなところがあるような。自分が嬉しそうにしていれば周りも嬉しくなってくれるのであれば、そういう感情が発達するし、それが自分になるだろうし、逆もしかり。自己省察。僕が人と関係していて感情的態度を取っていたのは、相手に対する反応みたいな意味合いでしかなく、素朴な自分というよりは関係上の自分という気がする。

 

これって、大人が自分として依拠できる程のものなのかという疑問。

 

僕は共有されない時の方がよく泣けるし、儀式で泣けてくる(結婚式とか)のも分かるが、なんともしっくりこない。

 

感情をストレートに表現できることを人間なのだとすると、感情表現がうまく見せられない人(僕もこっち側)は人間味に欠けるということになるが、僕からみれば感情に依拠して生きるのは人間味がないような感じ。

 

「感情」は社会的なものだから仲間外れにして、「考え」と「感じ」は相関がある。知らないものは見えないのは当たり前だが、情報は「考え」を経ないと世界にならなくて、世界に対する反応が「感じ」だから。

 

この話はあくまで僕の中の概念だから、他の人にとっては違う言葉が当てられているのかもしれない。「考え」には経験も含まれるが、経験だけでもない。能動的に意識するとか、自分とは離れたことを意識的に想うとか。ただ、自分が行動したことに理由をつけるということとか、自分の中身を都合の良いように言語化することは含まれない。これだと世界はなんにも明らかにならない。

 

そうやって、「考え」たことが世界の景色に還元され、その見えたことが「感じ」になる。それは違うっていうメンターが居ないから、頭打ちになるまでは継続するつもり。感じが間違っていることは当然あるが、別に照らし合わせるものでもない。

 

本の話。

 

リア王からオフィーリアが勘当された意味は良く分からないが、自分が当たり前だと思っている価値観は排除したいってことなのだろうな。夏目漱石の「こころ」にもでてきたやつ。全然昔のことではない。誰だって自分の当たり前の世界観を壊す存在は排除したいし今も皆やっている。

 

音声言語と書き言葉の違い。

 

人類と哲学で、言葉の起源になっていて、滅茶苦茶美味しい。

 

音声言語は、昨日も書いた、人が弱い存在だから連結するために作られたのではないかという説。自分の中の物語を共有して仲間を増やすみたいな。職場で尽きない雑談を積み重ねているのを聞いているとなんとなく分かる。話すことで自分が在ると思い込む。あんまり関わりたくないグループなので、あんまり自分の情報は開示しない。

 

ただ、発話言語の最初は、みんな人に自分の中を話すし、聞く側も真剣に聞いていたのだろうなと想像すると楽しい。環境としてのメディアに人の言葉が採り入れられた当時は興味津々だったろうなと。

 

書き言葉の方は、会計学みたいなところからではという説があるらしい。客観情報を誰にでも分かるようにするための発明。起源が全然違うという説はとてもしっくりくる。

 

日本語は言文一致政策で発話と書き言葉が同じになった。でも、僕の中では完全に別物になっている。話すようには書けないし、書くように話せない。何が違うかというと曖昧なところがあるが、発話は肉体に連動しているが、書き言葉は精神に連動しているという感じ。どちらも世界への挙動という意味では変わらない。発した時点で中身からは離れる。

 

この違いは、僕の中ではとても大事なこと。

 

では、おしまい。

 

おやすみなさい。