異分子

 

 

 

上限いっぱいの言葉を人に送るのは慣れないが、たぶんここを逃すともうそんな人は存在しないような気もする。ただ、良いことなのか悪いことかというと判断がつかない。

 

ともあれ。

 

夢を見た。1つ目。昨日書いたからか、部活が舞台っぽい感じ。自分の体をどう動かせば効率的にテニスボールに力を乗せられるのか、みたいな。今思うと普通にやっていたような気がする。集中はできていなかったが、練習時のボレーでボールが積んである的に当てるのは結構得意だった。ラケット面の角度と力加減とタイミング。そういや大学時代にやっていたダーツもそんなところあるな。メインは1日後の自分に起こる現象が分かるという予知能力というか予言能力を得た話。使えないなと思った。それくらい予知能力なくてもだいたい予測付くわって。自分の体をどう動かしたらどうなるか、みたいな意味では通じているのか。

 

2つ目。中学校くらいが舞台で、大量の人物がエスカレーター(階段?)で体育館のようなところに集まっている。で前の女の子の露出度が高くてぎょっとして、集まってみると男も皆水着だった。僕だけ短パンTシャツの服を着ている。何か社会的な流行りで、これから男陣が水着で踊るのだろうなということは分かる。だいぶ古いがウォーターボーイズみたいなイメージ。で、僕はこの空気をぶっ壊して、「これから何をするかは分かっているけど、一応言っておきます、僕は踊るのは嫌です」と言った。ブーイングの中、1人の男の子が、「いや、でもその服装で踊るの、ださくね?」と言ってくる。この中学の同級生に対して、「〇〇〇〇は話が通じないから嫌いだ」って返して、殴られたところで起きた。この人の名前の語感は好きなんだけどな。勇が輝く。

 

目が覚めた後に、なんで僕は話が通じないと評したのだと分析した。直感は言語化できてなんぼである。僕が踊るのが嫌だと言ったことに対して、この「ださい」は踊ることを前提としていて、噛み合っていないことに対しての反応なのだなと。僕が基本的に人と噛み合わない人だからなのかもしれないが、こういうのを求めて話している人あんまり見受けられない。自分の世界に在る程度一致するか一致しないことを諦めているか。

 

夢と現実は個人的な世界における限り、だいたい通じている。

 

 

さておき。

 

仕事の話は特にない。人の発話って面白いなとは思う。自分の発話ももう少しコントールできるはず。結局のところ、中身を外に顕せるかどうかって技術の問題で、好印象を受けるように話すというのも特に人格の話ではない。ここで鍛えておけばほんとに出したくなった時にも滞りないかもなとは思うが。

 

職場の駅ビルにあるリブロの、「このご時世」コーナーは確実に1冊読書に入っている。「サピエンス全史」を昨日読み終えた。この本は無茶苦茶面白くて、ヒトの全体的な傾向史がすっきりする。なんとか主義がどういう成果をもたらしたのかとか、幸福とはなんぞやとか、最終的にはSFみたいな話になり、ニーチェがいう「超人」ではないサイボーグ的な「超人」が顕れるだろうみたいな予言書的でもある。

 

幸福といえば、行動経済学。主観的幸福度を傾向的に探るみたいな話になっている。理解はできるが、さっぱり感覚には引っかからない。所得とか結婚とか何かイベントごとが主観的な幸福度に影響するのかという話で、サンプルはアンケートでしかない。アンケートが正直に回答されるものなのかという素朴な疑問とは別に、幸福かどうかってそもそも段階評価できるのかと思う。僕がこのアンケート用紙を書くことになったら、全部10にする。これってたぶん、変に基準を作ってその基準を満たしているとか満たないが幸福度なのだろうが、これを決めることで何か効用があるのかと思う。そんなことより、ちゃんと自分であった方が良いのでは。

 

主観の根拠は自分だが、自分ってそんなに自明なものなのかというのが僕の説。説と書いているのは、僕は自分のものさしを確固としておらず、どれだけ見解を積み上げても自分でご破算にしてもう1回創り直しても良いと思えるから。こんな不確かな世界で依拠できるものがあるというのは素晴らしいが、あんまり他人を巻き込むのもどうなのだろう。

 

ヴェニスの商人も終わってしまった。もっとあるかと思ったら解説だった。結局何だったのだろう。弱みを握って手綱も握るという女心だったのか。時代を想像するに、女性にもそういう強かなところがあるのだということなの、か? 考える鍋に入れておく。マクベスロミオとジュリエットハムレットは読んだから、次は何だろう。リア王か?

 

そろそろ本題。

 

サピエンス全史は外国の学者さんが著者だったのだが、今度はそれを踏まえて書いている日本の文学者さんの本。「哲学と人類」。プロフィールを見たら叔父が勤めている大学の名誉教授だった。

 

まだ冒頭辺りなのだが、このご時世と、ミッシェルフーコーの監視できる収容施設の話を繋げている。この時代は人が人を監視するという世界だったが、今はAIが人のデジタルでの挙動を収集してデータベース化している管理社会だという話。素朴な物理的世界から逃避して自由になったと思ったらデジタル的にどう挙動したかによってデジタル的な人格が収集されているから、監視の次元が変わっただけ。

 

この話読んでいて、ふと、ヒトってそれほど完全に自由になることなんて求めてないから、それで良いではと思った。何かに監視されることで自分を規律することができると思えるのは原始宗教由来。神様が見ているか、社会が見ているか、AIが見ているかという違いでしかない。でも、炎上ばかり起こる某SNSを見るにつけ、一方的に監視することができる神様気分の人は多いのかもしれないな。自分が世間だみたいなものさし。もう少ししたら規制の対象にはなると思う。法律は基本的に腰が重い。動いたら世界を動かしてしまうから。

 

こういう意味では人はいつまでたっても自律できないというのも分からんでもない。大の社会人がお小遣い制とか良く分からないし。自分を管理してくれる存在を求めている感じ。

 

僕はこういう文脈で不自由性は特に感じない。そもそも物理的な死すべき物体という規制があるし、その中でどう過ごすかだけだし。

 

もっと面白いなと思ったのが、メディア=媒体の話。きっとこの本でのメインテーマだからもっと面白くなる。

 

媒体がなんぞやというとなかなか難しいのだが、ざっくり情報を伝える術ということで良い、はず。

 

歴史の時系列で言うと、自分を伝える術は文字しかなかった。この本では感覚をということらしい。それが今や、技術の発展により感覚を感覚のまま伝える術ができたのとのこと。自分が見たものをそのまま写しとった画像を呈示できるし、聴覚もそうだろうし、そのうち触覚もある。個人的には、誰か書いている言葉をコピペできるようになったのも含めたい。

 

たしかに分かるのだが、僕はこういう文脈で貼られた情報って全然美味しくないんだよな。視覚情報を芸術に昇華した写真展は凄かったが、ただ、流れる視覚情報のどこかの1シーンとか知らん。こういう情報って受け手としてもテレビで流れていく映像と同じで、ただ通り過ぎていくものでしかない。

 

僕が発話的言葉よりも文字化した言語を大事にするのは、この媒体でしか描写できない感覚があるから。単なる外界からの印象ではなく、印象を一回頭に通して再構築することに意味がある。当然、そうやって再構築されたものに味がある。確かに手法としてはだいぶ古いから現代的ではないが、人は考える葦であるという観念は忘れたくない。

 

感覚を感覚のまま発信するのであれば、たんなる受容体でしかない気がするんよな。

もっと自分を突き詰めて欲しいところ。

 

あとは、僕に何ができるかという話になってくるのか。

したいことがないならできることを考えないといけない。

 

そもそも僕の日記面白いんかなという疑問。

 

 

おしまい。