拡張

 

 

 

何故、比べられるのが嫌のだろうと職場のトイレでふと思う。低く見られる分にはまぁ良いのだろう。ただ、自他を卑下するために僕を引き合いに出されるのはとても宜しくない。引っ張られてしまう。比較で見るのはとても分かり易いが、比較がデータベース依拠ならまだしも結局天秤は主観なのだから、比較はそんなに信頼をおける指標ではない。信頼をどこに置くのか。

 

さておき。

 

出勤すると、上司がストーカー規制法の法改正の動画を眺めていて、法改正を全然追っていないのは法学徒としてはよろしくないなと思う。そうこうして、ネットのニュースの表題に同性婚を認めていないのは違憲憲法違反)というのが載っていたため、少しだけ追った。判決文が読めていないからあんまり分からないが、細かく考えてみるか。

 

ざっとニュースを追った限り、婚姻届を受理されなかったことをもって国家賠償法に基づく損害賠償請求をしたらしい。何が「損害」なのかと見たら、精神的苦痛とかなんとか。あと、訴訟戦略的に全国的に展開されている模様。

 

何故憲法違反かという法律構成としては、法の下の平等憲法14条1項)に反するということらしい。この条項は法律によって扱いを変えるのは、合理的な理由が必要だというもの。であれば、どう不合理なのかを主張する必要があるのだが、憲法22条1項の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、」というフレーズをもってきた。この「両性」の意味はもともとの婚姻制度が戸主の同意で成立するとしていた婚姻を、そうではなく男性と女性の合意で成立するものだとしたものだが、今はさらに進んで、男性同士あるいは女性同士でも「両性」だろうという主張。

 

たしかに、もともとの「両性」がこういった事態を想定していなかったとしても、意味は時代により遷移するから、特に不自然な主張ではないように思う。国側の反論として、婚姻制度は子を生み育てるものだから云々があったようだが、とても苦しい。子をなさない、あるいはなせない夫婦でも婚姻は認められる訳で。

 

まぁ、まだ地裁だから国は控訴するだろうし、高裁がどう判断するかだし、最高裁まで行って初めて司法の最終判断みたいなところはあるから、今国がどう判断したかみたいなことは決められない。訴えられているの国で判断しているのも国な訳だが、これは社会科の話。三権分立の、立法(あるいは行政)と司法の対立。

 

ここからは法学徒ではなく一般人としての見解。夫婦別姓が合憲だと判断されたことはジェンダー云々を追っている人であれば記憶に新しいはず。夫婦別姓同性婚の違いを素朴に考えると、今構築されているそれぞれのシステムに対する影響値だと想像する。

 

夫婦別姓って、戸籍制度をどうするかに結構な影響値があるはず。例えば子供が生まれた時どちらの姓にするのか。現行だと出生届だけで済むが、悪い想像をすれば子供の姓をどちらにするのかで紛争が起こるかもしれないし、それを判断するために家庭裁判所がでしゃばらないといけないというコストが生まれるかもしれないとか、色々波及しそう。

 

翻って、同性婚は異性婚の制度に影響をそれほど与えないのではないか。もちろんもともとは子をなす単位としての夫婦みたいな部分はあるにしろ、税制での優遇ってユニットで捉えられることで国のコストが減るという文脈もあると思うから、世帯としてのユニットで捉えらるなら、中身がどの性であるかはあまり問題にならないような。パートナー云々はあくまで主観的な領域であってどういう形態であっても良い訳だが、国もとい社会からのお墨付きは同性パートナーでも当然あって良いような。この見地に至ったのはつい最近。

 

この流れで、不貞行為による損害賠償で、嫁が他の女性とまぐわったことに対して賠償責任を認めた裁判があった。貞操義務ってよくよく考えるとよく分からないのだが、ヴェニスの商人でも操がどうのとか言っているし、やはり原始宗教由来の観念なのだろうな。

 

もっと考えていくと脱線していくのだが、そもそもなんで1対1がユニットになっているのかって自然の観念ではないよなとか、この観念って所有価値が前提とされているのだろうなと思うわけで。ちなみに僕はパートナーとまぐわっている(だろう)人を一方的に好きなのだが、まぁ一方的である限り問題ないだろうなと思う。僕が相手を好きであることと、相手の現実はあんまり関係ない。ただ、それを表して受け入れられているのは全く意味不明。

 

僕がまぐわいを相手との距離が近いとしていないからかもしれない。

 

真面目な話も書けるのですとするつもりが、最後の方がやや怪しい。性自認で少数とされている人を承認することと、社会のシステムにおいてどこまで汲み取るかは別問題だから。正味、性自認ってちゃんと分けられるものでもなく、濃淡の話だと思うし。であれば、生物学的分類で分けるのは合理性があるとは認めざるを得ない。後は程度の話になってくる。

 

 

引き続き、メディアの話。

 

どうやら「術」という技術は、人が自分を伝えるということではなく、人を拡張するという意味だったらしい。だいたい同じことだとは思うが。

 

自分が拡がった気になれる道具としてのメディア論。移動手段だと分かり易いし、外部媒体としてのパソコンとかスマホとか。自分の存在が外に拡がっていると思える。馴染み過ぎていてあえて分けることなんてもはやできないだろうが、自分の存在が曖昧になるものだろうな。

 

人間論で、プラトンから現代まで、人間は生物として欠陥品だから、言葉と技術という補償があったということらしい。武器もないし裸だから外界に対する適応能力もなく、せめてという神様の慈悲。個としては生き抜く術がないから、言葉を高度にして群れが細やかになったというストーリーは物語としてはとても分かり易い。あと、メッセージはマッサージで、外部のメディアによって人間が作りかわるというのも、素朴な自分だと思っている自分が、メディアから作られているものと気付けないことを表している。外から全く無関係の自分を想定できる人って存在するのだろうか。

 

新刊枠で、「生まれたあとのことで、人生をむなしく感じないといけないなんておかしい」みたいなフレーズがあり、たしかになと思った。僕の人生は空虚だが、それと楽しんでいるのは別の事。

 

こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。