文字の効用

 

 

「人は信じたいものを信じる。」では、信じたくないのに信じざるをえない存在を目の当たりにしたときはどう扱えば良いのだろう。

 

土曜日という区切りにあまり意味も持たせない。早朝から包丁を握って玉ねぎをみじん切りしてキャベツをちぎり、ほんだしと砂糖と生姜と塩昆布で味付けをした雑炊を作る。また漫画を一気読みしたり、最新刊で最終巻も読んだり。どんな物語も最後はあっけない。あっけなく終わらせたいのに、全然終わらせてくれない物語もあるが。

 

本日はまどろこっしいことは書かない。文章の扱いがおかしいことを「人類と哲学」から発見している。ずっとあった非言語的感覚が、可視化されてきているという意味。

 

もともと学校の時、ノートを取るのが苦手過ぎた。ノートとかメモって自分の考えをまとめるというより、板書を写すとか、情報を外で整理するということであって、自分の中に置かなくて良い参照できるデータとして持ち物にすること。個人的な解釈として、僕が自分のノートとしての文字を読み返すのが嫌だったのは「字が汚いから」だったのだが、そうでないみたい。なにせ、誰が書いても同じカタチの文字でも読み返す気にならないし。

 

プラトンの文字にまつわる概念に、「記憶」と「想起」という概念があるらしい。昨日の日記の続きみたいな話。音声言語でやり取りしていく中で現われる「あの日」は良い記憶で、文字言語は記憶を想起するきっかけに過ぎないらしい。全面的に賛同できないが、一般的には分かる。人と話していて何かを思い出すということはままあること。ただ、この思い出したことって、留められない。たまたま無意識が波打って現れたものでしかなく自分にそういうものがあるという影みたいな印象だけ残る。こういう意味で、文字メディアの永続性を利用したものが、「記録」という外在化だろう。記録したものは、自分のもの=自分の存在の拡張メディアになる。それを中で再現できるかどうかを問わず。そうして、これがノートの価値にもなる。

 

こういう外在化というスタンスだから、人は自分のことを文章で書くのが苦手というかエネルギーを使うものだとしている。書いたものは自分であって永続性が保たれるものだからちゃんと整えなきゃって、余所行きで高尚な自分のものになっていない言葉を使ったり、本心でないことを書いたりして、虚飾してしまう。まぁ文章は芸術の一種みたいなところがあるからこれはこれで美味しい。

 

ただ、何かの話題に対する反応というか、評価としての自分の文章を公衆メディアにするのはどうなのだろうな。確かにとてもお手軽というか、音声メディアを公衆メディアに還元できて、自分が拡がった気分は味わえるのだろうが、プラトンの「ほんとの関心事は言語化できない」という概念を持ってくると、どれだけ悲しんだり憤ったり同調しているように書かれていてもどうも安っぽく読めてしまう。

 

また、別の本なのだが、「脳は人ではない」(2周目)で、「意識で捉えた現象は共有されないと本当かどうか分からない」という観念をさも自明としている。分かる。確かに、最初の意識は真似びで創られるだろうし。ただ、自分の意識が他人に共有されないと存在しないみたいな曖昧にまどろんだまま一生を過ごして良いのかという話。

 

フィクションと読まれても問題ないが、僕は自分の意識をだいたい16時間体制でモニタリングしている。社会でも他人でもなく、自分が自分を監視しているということへの移行だが、僕は自分を評価していない。ただ見ているということ。ただ見続ける存在というのはとても在りえなくて良い。人がそういうのを求める気持ちはとても分かる。モニタリングしてみて自分の意識は別に誰に共有されなくても在るし、自分にとっては触れなくても自明である。無駄に人に迷惑をかける衝動を持ち合わせてなくて良かった。

 

で、プラトンに戻ってくる。文字メディアの続き。いやプラトンが書いていたことではなかったかも。僕にとっては誰が言ったかなんて関係ないからどうでも良いが。

 

文字の効用は、同一化ではなく思考化みたいなところとのこと。物語の登場人物と同一化するのではんなく、その人について考えるようになる。自分の世界観の中で都合が良い同情ではなく、世界観の外のことを考える。

 

僕が同情的な言葉が嫌いなのはこういうこと。職場の雑談グループの人と話していて、僕が実家に何年も帰ってないことに対して、このご時世を言い訳にして言ったら、「それは寂しいことだ」と評される。こういうのが同一化のスタンスだと思われる。他人の事情なんてどうでも良く、自分の世界観で人を捉えること。こういう人に、僕の中身を開示する意義を感じない。

 

いや、これは圧倒的大多数派の捉え方だとは知っているから、合わせて開示情報を調整するしかない。料理がしんどいものだとしている当たり前の世界観に僕は異分子だし。

 

要は、考えるという概念は、自分が受け入れらない当たり前ではない外に対するものであって、内側で理由を繕うためのものではない。これを屁理屈という。音声メディアの一種だと思われる、自分が現実化してしまったものは理由を言語するしないの話ではない。

 

ここ3日くらいメディア論の帰趨について考えていた。メディアではないものってなんなんだと。最も広い意味の「人を作り変える表象」からすれば、人がメディアではないものになるのだが、もうちょっと細かく書かないと意味不明だと思う。

 

自分と世界をちゃんと峻別できない人には難しくなってくるが、変な話、自分の肉体の経年推移もメディアの一部だし、この一部に気付ければ、世界がそれほど固定された客観的なものではないということに至れる。至るかどうかなんて知ったことではないが。最終的には、メディアではない存在って、メディアを対象にできる自分ということに至るのだが、ここまで主観的であることってとても難しい。

 

この文脈で宗教が公衆メディアであるということもとても分かる。

キリスト教が爆発したのは、きっと当時の社会的な規範が窮屈だったから。当時の人の語彙で分かるような言葉だったと想像できる。

 

人は自分の世界観を自分で判断できない。何故なら、判断できる対象としていないから。

宗教も社会も常識もほぼ変わらない。今の人は識字率も文字も書けるけど、だから自分について考えなくても良くなっているのだろうな。個人的な持論だが、自分の事を突き詰めてない人が他人のことを大事にできることなんてない。現実的にはできるだろうが。

 

世界が客観的だと思える人って、原始宗教よりもっと宗教的な世界観で生きている気がする。自分はどこにいったんですかって聞きたいけど、聞く気もない。

 

ではおやすみなさい。