個人

 

 

 

夜の間に降った雨は朝には上がっていた。通勤途中の田の水量が増えていることに安心し、濡れた地面に雨を想う。昼休憩時には湿ったベンチの上にビニール袋を敷いてその上に座って食べる。半分の目玉焼きの半分を地面に落としてしまい、回収する前にはとぽっぽが群がり跡形もなくなった。相変わらず花束があり、そろそろドライフラワーになるに違いない。

 

帰り道もぽつぽつとしか降っていない。2回カラスに襲撃された公園を横切りながら今度は迎撃すると殺気を散らす。なんとか大丈夫だった。

 

それにしても、雨。そんなに気遣ってくれなくても。ずぶずぶに濡らしてくれて良いのに。

 

 

さておき。

 

月初めはとても忙しいお仕事。しかしながら、仕事はきちんとこなしながら僕の心は仕事にはなかった。秘密の満足は私信に書くとして、未来がなんとなくカタチになりつつある。

 

巨木はどこにでもあるから行き当たりばったりで良いとして、滋賀の映画館と動物園を調べ、なかなか良さげなルートが構築された。この予定だと仕事の日より早く起きるようになるのだが、その時間に自分がそこに行ける可能性と、誰かをその時間にそこに居させる可能性のどちらが高いかというと圧倒的に前者なのは明らかだからおそらく問題ない。

 

どうでも良いが、○○しなきゃと考える心が言語化する時点で遅いというか、その隙間に怠惰とか二度寝が入り込んでくるんよな。未来の予定を言語化しておくのは準備だが、今からすることに対して言語化するのは無駄な習慣である。特にいやいやする時とか、いやいやの感情だけが募る。

 

動物園枠は、ちゃんとした動物園ではなく何かの牧場っぽいものが見つかった。無料はどうでも良いが、ふれあいゾーンがあるのが良き。牧歌的な動物のエネルギー。動物の触り方で言うと、幼少期に飼っていた猫とか、初めての恋人さん(こら←)とか変に触り過ぎていたように思う。当然に尊重した触り方がある。

 

だいたいここまでが昼過ぎまでに終わる予定で、あとは心赴くままに琵琶湖を眺めながら御神木に向かう。北の端くらいに面白そうなのがある予感。温泉には入れるのか、とか、だいたい何かトラブルが起こるだろうなとか、予定通りにいかないであろうことも楽しみ。予定があまり好きではなかったのは、かっちりしているところだったのかも知れない。未来はもっと緩く捉えていて良い。

 

現実では他に、きゅうりが安かった、浅漬けうめぇの話とか、歩き回りの準備のために日焼け止めを購入したが、帽子を買うのはあまりに似合いそうになく断念した話とか、周りにいる人皆すげぇなの話とかあるが、まぁ良いか。

 

生活において、踊りながら料理を作っているというのは書いているが、「舞踊」という芸術のカテゴリーがもともと身体性と精神性の齟齬を埋めるためにあるとのことからすると、こういう日常の踊りは、体と精神の一致の確認ではある。傍目で眺めて、いかにも重たそうに動いている人って居るし、足音がどたどたしてそうな歩き方とかあると思う。僕はこういう意味でも軽やかに動いていたいような感じ。日常における体の重さって、重力だけではなく、自分で自分の体を上手く動かせないというところにありそうな感じ。細やかな器用さではなく、体を動かせないものは何なのかということ。

 

1例として、先輩男子が、昼ご飯を食べるときに某飲食チェーン店は遠いからコンビニにしたという発言をしていたこと。確かに物理的に遠いとは思うが、この距離って50メートルくらいしかない。本気で。可動的な範囲での距離と、一般的指標としての距離は全然連動してない。僕はご飯に関してはもっとそもそもで並ぶ時間が嫌だから昼ご飯を他者に依存させてないのだが、これはまた別の話。

 

おそらく、移動はしていても体で移動していないと、人は自己の体を意識と同化させるのだろうなという感じ。だから同化を他者とか世界に求める。田舎だったら大丈夫かというとそんなことは全くなく、田舎は車があるから自分で移動しなくて良い。

 

人は贅沢に馴れる動物であるというフレーズは会計学の本で出てきた。債権者として会計情報は細かく開示されると贅沢という文脈だったが、おそらく一般化できる概念。もちろん贅沢とか省エネを求めるという習性によってこんなに便利な社会になっている訳で、それ自体はきっと良いことではある。でも、自分の体とちゃんと対話しないで、一般的な健康法とか運動とか食事とかやるのはなにか空虚な感じがしないでもない。

 

まぁ内外体に酷使させている僕が言うことでもないが、少なくともストレスフリーではある。今のところ体調不良になる気がしない。

 

 

 

閑話休題

 

記憶の発掘。「夏への扉」の映画を見る前に原作読み返そうとか思ってみたのだが、これから読んでも間に合わないから断片だけ再生させておく。この話でいうタイムマシンはコールドスリープで時間を飛び越える話だったはず。猫が重要な登場キャラだったが、どういう意味で重要だったのだっけ。妹も出てきたか。言語化できる水準まで持ってこられる断片はほとんどなかった。断念。

 

やはりもう一回今の状態で読まないといけないな。

 

さて。

 

書けることはいっぱいあるのだが、何にしよう。

 

そういえば、スピリチュアルというか高次元世界のところの人がマイミク申請してくれたのだった。僕は割とこういう水準の言葉、嫌いではないのだが、その声を聞いた当人はどう解釈しているのかが見えないから、あんまり個人とできないんだよな。

 

これを想像してみたとき、たしかに高次元からメッセージを受けて発信する機関でしかないということはありうる。ただ、それを聞いた当人も写経しているうちに何か思うところができるはず。そういうのがないと個人としての興味が芽生えない。

 

クラシックコーチングという本を見つけて、ざっと目次を流したとき(目次を流すって情報本においてかなり大事なこと)、「事実は1つだが、解釈は無限」という項目があり、あぁ普通にやっているとなり読まなかった。こんな感じ。

 

原始仏典でもこういう意味で気になる叙述があった。自己として生きるのだ、はまだ良い。ただ、この自己が、人としての理に適ったルール(理法という)に従うことになっていることに対して疑問符。この人としての理って全然普遍でも不変なことでもない。

 

何の機械もない時代のブッダさんに苦言を呈しても仕方ないが、そもそも人とは何ぞやの定義が揺らいでいるのが現在なもので。「AIは人を憎まない」の人と同等な人工知能とは何かという定義論はとても面白き。チェスで人に勝てるとかではなく、壁を挟んだところで2人と会話してどちかがAIだとして、人がどちらも人だと認識できる水準の受け答えができた場合、人とはなんぞやみたいな。

 

「もの」は今僕が読んでいる本の中でもっとも高度で、ほとんど分からない。哲学記号が多用されているし、単語の定義も全然わからん。ただ、存在の本質は言葉の定義ではなく、「そのものがなんであるか」を顕せるかどうか、これはそもそも言語に馴染むのかみたいな試みは僕も想っていることだから共鳴はできる。

 

芸術学でも、芸術はそもそも定義されうる概念なのかということを書いていて、こ著者さんは諦めたらしい。まぁ言葉で決められるものなぞ、そんなにないのは確か。この学問における研究領域を定義しないことにするというのは、社会科学ではまぁまぁ普通のことだと思う。法学の分化の定義もかなりざっくりしていて、その定義を知ったことでその領域が把握できるものではない。むしろ中身を知ったあとであえて言葉で分けるのであればという感じ。

 

あと、取りとめない話としては、もろもろのコンテンツのコメント欄で書くという快感みたいなところ。漫画アプリって今やほとんど読者のコメント欄がある。僕はコメントを入れたことがないのだが、これって、コンテンツとユーザーの距離が近くなるのが良いのだろうな。ユーザーは自分の感想がコンテンツに影響を与えると思えるし。これがほんとうに相互なのかはともかく。

 

僕は色んな人が居るなぁと読む。その場で書ける文体を持ち合わせてない。

 

SNSでは、個人がコンテンツだし、コンテンツによってはコメントが励みになるということもあるのも分かるが、なんか個人的には変な相互性だと思う。愛はあんまりなさそう。

 

言葉には愛は込められないというか、言葉は所詮言葉でしかないというか。

 

僕の日記がちゃんと生活として読めるのであれば、ちゃんとそれをやっているからであって、言葉だけの空中戦をやっていないからだと思う。

 

人の言葉があんまり信用ならないのはこういうところで、自分の言葉をどういう風に用いているかってあんまり自覚されてない。僕は別に当人の語彙も楽しむから良いが、当人の語彙が一般化できるものだとしている人は、無言。

 

だから、むしろ言語外の所作に当人を感じる。

 

という意味不明な感じでおしまい。

 

良い夢を。

 

おやすみなさい。

 

ショートカット

 

 

気になるは氣になるということらしい。ということは氣になる木。

 

帰っていると雨が降ってきて、田んぼに水が潤うとほっこりしながら折りたたみ傘を差した。急に降りだしたために傘を持ってなさげな人もいる。ここで、天気予報をどこまで信仰するかということを考えた。

 

僕は天気予報信者ではないから、折り畳み傘は常にカバンに入れているし天気予報でどうこうなる生活はしておらず、天気予報も基本見ない。今日はたまたま洗濯物を部屋に入れておいた方が良いかという目的で見たが、傘を持っていくかどうかって何パーセントで決めるのだろう。僕が毎日にしたのはいちいち見て考える煩わしさと、毎日持って行く重さと外れた時に持ってない不便を天秤にかけてどちらが重いかという無意識的な判断があった。

 

別に何パーセントだったら持って行くのかという統計的傾向はどうでも良いが、よくそこまで信仰できるなという気はする。ここでいう信仰の定義はそれに基づいて行動するだから天気予報が100%正しいと「思っている」という内心とは関係ない。

 

学校でいう置き傘みたいな意味で、社会においても公共施設にそういう制度を作ったら良いのではという発想をちょっと前(1月くらい)に読んだ本で見かけた。傘バンク。で、この発想を見た時に同じようなことが書かれているのをずっと前に読んだなと思ったら、たしかパイロットフィッシュというタイトルだったはず、読んだのは何年前か分からない。ちなみに人が管であるという発想もここにあった。割と男女の生生しい話だから省略。

 

この制度、とても良いと思うのだが現実化しないのは既得権益と、傘は個人の財産であるという観念よな。使い捨て傘業界が黙っていないというのと、学校だったらだいたい知った顔だからなんとかなっても例えば駅を利用している人なんてほとんど得たいがしれないから共用なぞできない。車の自動運転が捗らないのもこの辺りにありそう。メタ思考の本からの採り入れ。

 

前置き終わり。

 

朝に戻って、古木巡りの準備のため朝の一服タイムに、「古木 関西」で検索したところ全然ヒットしない。そこで御神木に書き換えて検索したところ、滅茶苦茶出てきた。

 

日本には八百万の御神木がある。思ったより東京が多かったが、東京ってそういう呪術的な立地の要素もあるというのを何処かで読んだことを想い出した。呪術的と書くと仰々しいが、風水的と書けばやんわりするはず。

 

さらに潜っていくと、世の中には御神木の専門家が居るということも分かる。御神木の触り方とか、感じ方とか書かれていた。なんとなく分かる。僕は木の触り方の作法はたぶん大丈夫。根を踏まないようにするという注意事項があったが、そんなこと気にするような存在なんかなという疑問符。まぁ尊重するのであればという感じか。他人の足は踏まないだろうという擬人化。

 

ともあれ、御神木の画像見てすげーなーとは思うのだが、別に僕は有名なパワースポットに行きたい訳ではなく、単に古い木ところに挨拶に行きたいだけだから、どこでも良いような感じ。御神木で言えば、神社がない街はないだろうし、木がない街もないし、そこまで特別視してないというか。パワースポットで言えば、この前行った岡山の日記で貼ったあの沢というか池はとても良く、名前があるとかないとかは関係ない。

 

という意味では熊野古道の名も知らない巨木にご挨拶というはとても良い。有名どころでは、北海道の銀杏(巨木の黄色の画像って滝みたいに見える)、やはり縄文杉、あと、沖縄のガジュマルが気になる。

 

あと、熱海が出てきて、熱海は良いけどある意味悲しい思い出込みだからなーとなった。この神社も行ったような気がする。悲しさは、一番長く過ごした恋人さんとの最後の旅みたいな場所であるところ。トリックアートの亀と接吻しているのもこの辺りのことで街の像も、バブル時代に栄えていたが今は廃れているとう哀愁漂う地だった。ただ、もう一回時間が戻ったとしても僕はこの人と関係が継続されるようには努力しない。気持ちと一緒に供養しておきたい場だから、行くとしたら挨拶ではなく巡礼になってしまう。

 

 

そうして、どれにしようかと考えているとき、最適解はどれかという方向ではないということに気付く。本当に行くところであれば今回行かなくてもいつかは行くだろうし、要は順番をどう決めるかというところでしかない。当日の自分の気持ちに任せてええわという自己愛。だって、どこに行っても楽しむし。

 

御神木はどこにでもあるとして、なんとなく滋賀県と石川県が気になっている。どちらかというと琵琶湖に挨拶行きたいなという感。俗っぽいところで言えば、動物園と映画館もあれば良いな。動物園は好きな人が行きたいと呟いていて僕も行きたくなってしまったがデートは起こらないからさっさと1人で行こうというもので、映画館は「夏への扉」。原作読んだのいつだったか忘れたが、どうやら原作依拠というより現代日本にアレンジしたものらしい。藤木さんは僕の顔が全盛期だった頃、似ていると評されたことがありなんとなく親近感あるし(余計な情報)。

 

さておき。

 

景色として書を見るというのは効用がある気がする。引っ張りだせる情報の水準を下げるというか、なんとなく見たことがあることも一般語用における記憶になるというか。

 

メタ思考トレーニングの本は終えた。最後らへんは流したが、具体的な生活的な思考の次元を上げると、いろんな共通点があるし仕事でも使えるという感じ。たしかにその通りだとは思うが、これって、自分も抽象化される諸刃の刃ではある。そういう風に考えるためにはまず自分が基準を恣意的においてないかということが問われる。僕の母親だったら今のところ無理だろうし、自分の恣意的な基準をアイデンティティだとしている人にとっては自分を壊すことだから大変だと思う。

 

ただ、ちょっと疑義もあって。無知の知と知的好奇心が同じようなものとして書かれているところ。これって別に連動してないよな。自分が知らないと知っていることと、新たな知を欲するかって全然別だと思う。知らないと知っていながら知ることを欲さないという人格は当然あるし、知ろうとしているからとて知的好奇心がある訳ではない。

 

僕は自分を省みて、別に知的好奇心はないよなって思う。知的好奇心って知らないことを知ることに対する快感ということだと想像する。子供の価値観。僕は快楽としてではなく、生活としてやっている。あんまり言語化がうまくいかないので省略。

 

最後。芸術学を読んでいると、「ありのままの自分」ということに対する施策が浮かぶ。

 

「ありのままの自分」って操作がない自分ってことなのだろうが、この自分って、土台は自然だったかもしれないが、その後の自己観に至るまでにはせっせと意識無意識の自分が作り込んだ建築物みたいなものだろうなって。

 

建築物と自分が自分であることの共通性は、簡単には改変できないこと。

改変できない部分を関係している相手に丸投げするのも同じかもしれない。建築物は建っているから、それを前提に人は動くしかない。ありのままの自分を受け入れるのが愛だと思っている人はそれに応じた相手の動きを当然とする。

 

僕は自分が自分であることという存在が、砂上の楼閣に過ぎなかったと気付いたから一回水に流したのだろう。これが最近。今や自分が自分であることは建築物ではない。

 

建築物が美しいのは、ちゃんと意志が通っていて目的があること。

勝手に出来上がった人格を自分とするのは何か違う。

 

自分を建造物とするのであれば、ちゃんと細部に意志を通わせないといけないと思われる。

これをしようと思ったら膨大な材料が必要になるからきっと誰もやらないだろうが。

 

もちろん僕の話。

 

本を、誰かを真剣に読むって今の自分が崩壊されうる覚悟をもって接することだよな。

積み直しができないようにされているのが今の社会。

 

どうでも良いが、現実生活で人の意識の導線みたいなものが感じられる。昼休憩の時に公園に行ったとき、この人はあのベンチを狙っているのだろうなというのは歩きぶりで分かるし、エレベータとかスーパーでの人の意志的動きは分かりやすい。分かり易くない?

 

人の歩き方とか行動指針とか発言の変化とかって観測していると面白い。

これは当然自分のそれも鏡になる。

 

僕が本を読むのは、僕が認識できなかった日常を鮮明化させるくらいの意味。

日常で見えてないことってほぼ無限にあるからな。

 

では、ミクロなのかマクロなのか分からないところでおしまい。

 

おやすみさない。

 

良い夢を。

 

 

 

 

メタ愛

 

 

通勤時初めて見つけた印象に残った人が、帰り道でも向こうから歩いて来た。当たり前だが、同じ時間で働いているのだな。今週のシフトは公務員のような勤務帯だから何人か知った顔が居る。向こうにとっては目に留まらない景色だが、僕にとっては人。

 

田んぼも当然観察したのだが、ピロピロ泳ぐ個体がやたらと増えている。これって生態系崩壊かと思い、帰り道では少し立ち止まって見た。あ、このピロピロはヤゴの足ではなく、オタマジャクシに生えてきた足だわ。雨があまり降らず田んぼの端の方の水がなくっているから、もっと干からびてしまう前に、水が追加されるか、両生類になっていれば良いと思う。

 

 

さておき。

 

昨日の自分の日記を読み返して我ながらなるほど、となる。読んでの通り僕はまとまった思考を言語化しているのではなく、心に移りゆくよしなしごとをとりとめなく書きつくっているだけ。あんまり覚えていないのである。

 

愛の結論が2つの要素というのは雑だ。僕の感じではもっと日常にありふれているものなのではということだったから、もっとうまくまとめることができたはず。ただ、具体的に人に遣うのはなにやらはばかられる。実際私信で遣ってみたのだが、なにやら恥ずかしくなった。

 

愛の本質は「与ふ」というのが一般的な語用だと思われる。だから目的や結果や関係が問題になる。僕としては「分かろうとすること」というのが本質で、これは理解しようとするという意味もあるが、それに隠れた本当の本質は「分かつ」の方よな。ダブルミーニング

 

簡単に言えばアンパンマンのような行為で、与えるとしても、それは何なのかという話。自分の中で余っているものを与えるのではなく、分かたれた自分を与える。こういう意味では自己開示とかも十分愛っぽい。与える方から見ると分かりにくいが、与えられた側も含めると、愛とは「存在を分かち合う行為」になる。与えられたものが当人の存在に含まれるようになるという同一化。

 

これが特定の関係、特定の対象になると別物のように感じるが、僕にとっては同じこと。もともと対価は問題にはならず、特定のという枕詞が付いているからそういうものだとされている。「分かつ」には時間をつかうということもあるが、自分と切り離した対象そのものを考えるために時間を使うことも無償の愛ということにならないか。何の対価もないのだから。愛の対価性はあくまでオプション的な概念な気がしてならない。

 

楓の幹に触る行為が愛だというお言葉を頂いた。たしかに、僕は自然を尊重はしている。でもそれだけではないのだよな。波長が合うというのもあったが、こっちの方が僕の感じには近い。何かのエネルギーが充電される。尊重と充電の分かち合いなのかと中身を書いてみると変なことになるが、こういう一見、というか常識的には循環されない何かが循環するのが愛よなという感じ。

 

好きな人に対してもこういう何かを感じる。

全然パートナーでもなんでもないのにこの言葉を表明するのはいかがなものかという常識的はばかられ。

 

 

古木巡りしたくなってくる。日本の最高峰が屋久杉だとして、神社の御神木もなかなか凄そう。というのも僕がこういう感じを認識できていなかった時代でも色んな神社には行ったとき、御神木の近くに居るとなんだかざわざわした感じはあった。伊勢だったか出雲だったかの猿田彦神社と、ここの近所の名前は忘れた神社の御神木はなんとなく覚えている。どうでも良いが猿田彦、手塚さんのせいで鼻が大きいキャラクターとして擬人化されている。京都御所が好きなのも木が守られているからかも知れないな。空間としての神宮も好き。

 

と分かってくると生活で目に留まる街路樹にも親しみが沸いてくる。

別にそんなに触らなくてもええかなという感じ。

 

もう少し愛について。

具体化すればもうその人のものだからカタチは無限にあるのだろうが、行為とする以上、技術的な要素も含むよな。芸術学の本で、芸術の語源の中に、テクネ―というテクニックの語源になった言葉があって、なんとなくそういうことを想う。

 

エーリッヒフロムの「愛するということ」を知ったのはずっと前の100分名著なのだが、なんだか今目に入る領域に進行形で見ている人が居て面白い。本屋に「老い」置いてあるし。僕もテレビを見ていた時代は頻繁に見ていて、「菜根譚」が良かったような気がする。

 

そうして、「愛するということ」では、愛はいつか降りかかっているものだという認識の人が一定程度居るがそうではなく、実践的なものであるということを言っている。繋がってくるなあ。技術的側面での愛の行為は自分が与えたいように与えるにはどうすれば良いかという試行と、相手の愛がどういうことなのかということを受容する感覚を磨くこと。自分が愛していると思っていても相手が愛を感じないのであればそれは愛ではないし、何かを与えられないと返さないのも愛ではないということ。まぁ契約っぽくはあるからそれはそれはそれで良い気もするが。

 

僕はフロムさんの著書ではこちらより「生きるということ」の方が面白かった。愛と繋げるのであれば、こっちは特定の関係上の愛ではなく、世界に対する実践的な愛みたいな感じ。「持つ人」と「ある人」の分類がとても分かり易い。簡単に書くと「持つ人」は資本主義社会の構造に浸っているというか信者であるが、「ある人」はもう少し軽やか。知識を持つことを目的としているのではなく、知識をどう使うかの方に重きがある。どちらが良いかという話でもない。

 

愛についてはこれくらいで良いかな。結局のところ、何を詰めても良い言葉だから「愛しています」という言葉自体には特に言霊は含まれない。「月が綺麗ですね」というのも夏目漱石さんが言うから細君に対して具体的な波紋がある訳で。

 

どうでも良いが、僕が植物と波長が合うという評されを見たとき、ふと、かつての恋人さんとの恋人時代、友人占いに行ったら「彼氏、そうとうややこしい奴やな、云々」と言われたと言ってきたのを思い出した。確かに分かれば分かるほどややこしくはある。

 

ただ、感じは動かせなくても、振る舞いとか認識はどうとでもなるし、僕の見解はあくまで移りゆくものだから正しいとはしていない。読んだ人が勝手に考えれば良いこと。

 

kindle本。本屋で見かけてちょっと気になっていた「メタ思考トレーニング」。何故気になっていたかというと、この作者さんはどこかの古本屋(ブックオフだったかな)で買った「フェルミ推定」の人だから。この日記くらいの遡りならまだ残っている気がする。ミクシィにはないけど。

 

曰く、無知の無知(自分が正しいと疑わない)人はそもそも本を読まないから、本を読んでいる時点でそこからは離れているとのこと。面白い。メタ思考とは何ぞやというと自分の認識の死角に明かりを照らすような考え方であるらしい。

 

インターネット日記には当然潜在的な読者が居るという認識はメタだだが、自分が書きたいように書いたら読まれたいように読むのが当然だというのが無知の無知に陥っている人。

 

具体的な問題の1例としては、「ドローンについて調査してください」っていう仕事の依頼があったとき何をしますかという問い。

 

これに対してまずインターネットとか本で調べようとする人はhow思考でメタではないらしい。僕はまず、なんでその調査が必要なのかを聞くというということを思い付いた。聞けないであれば、仮説を立てるのがwhy思考とのことらしいが僕はそこまでは想定してなかった。

 

何故が分かるともっと良い方法があるかもしれないという思考法は、職場の先生から学習した賜物なのだが、割と本質的な話だと思う。

 

5W1Hというのは良く聞くが、この中で何故だけ次元が違うというのは概念の可視化として面白い。どう違うと思いますか。

 

 

 

 

曰く、他の概念は、今(厳密には時点か)についてのもので、単語で回答できるが、なぜだけは、原因という過去軸と、目的という未来軸がある線の概念だということ。何故何故問う奴は嫌がられるからほどほどにしておけという教訓もあったのが、人は自分がやっていることがなぜかってあんまり自覚されていないから、問われると煩わしいんよな、きっと。

 

なぜ僕を読むのですか、みたいに、なぜという問いかけって相手に丸投げする概念よな。ビジネスならともかく、個人間では原因の話になって、言語化されようがされまないがとはなるが。

 

僕は聞かれたら言語化できるくらいの準備はある。かつてはなかったんだが。もうそんなに不機嫌になることもないだろうな。

 

なぜを重ねることでどんどんメタ化(抽象化)できるというのも面白い。

 

なぜプリンが食べたいのですかって自分に問うたとき、ちゃんとした回答は返って来るのだろうか。なぜ二日酔いになるまで飲むのですかでも良い。

 

でも、安全圏で留まっている人よりは、境界領域まで自分をやっている人の方が好ましいな。

 

かつて素面の先輩の知人カップルと酔いどれ状態でローラースケートを履いて(履かされて?)転ばないようにあくせく動いているのを白けた目で眺められたことがあったのだが、あれほどひどい関係はなかったな。

 

メタ問題で、回転寿司以外の回転○○を考えよというのがあった。僕は木馬とぱっと浮かんだのだが、出題意図は、回転寿司以外に料理で回転して成り立つものは何かということだった。そういう意図なら、冷めても大丈夫なこととバリエーションだが、これってメタなのか。

 

訓練が足りてない。

 

こんな感じでおやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

愛の定義と効果

 

 

愛は原因なのか結果なのか。あるいは運動なのか状態なのか。対義語は憎しみではない気がする。

 

 

ご飯が美味しい。鶏肩肉と人参、ピーマン、茄子という昨日と同じ組み合わせ。いや同じではない、本日は椎茸もあった。ちなみに昨日茄子を買ったのは、その前日に行った有料の公園で実りつつある茄子を見たからだと思われる。全体的に紫で鑑賞対象としても艶やかな植物。こんな些細なことに人の行動は左右される。

 

昨日の味付けは雑にウスターソースだけだったが、食べてみると薄かったため真面目にリベンジ。醤にすればいいじゃんと自然公園の温室と同じくらいの熱気を放っている外気を吹き飛ばすようなセルフだじゃれをもとに、軽く炒めて水を加え、中華だし、豆板醤、コチュジャンを加え、水気が飛ぶまで炒め煮。炒め煮の良さは待っている間に色々できること。カブは日曜日に2個分の浅漬けをしていたため副菜は問題ない。ただ、切る食材増やすと時間がかかるからバランスとしては悪手だった。家庭的な中華料理居酒屋で出て来そうな味わいだからまぁ良し。

 

さておき。

 

起きた後に涙が出ていないタイプの泣く夢をみた。なんか訥々と友人に「お前がしんどいのは分かっている、分かった上でやってやっているんだ」みたいな言説を聞かされ、感動している風にそこの僕は涙を流し、起きた後も感動した風の感じがあるのだが、時間が経つにつて違和感が盛り上がる。あ、これ泣いていたが、なんかいたたまれなくて泣いているだけのやつだと。

 

そもそも僕は人のことを「お前」と呼ぶ人は好きではない。たぶん僕はこの人生で1回も人をお前って呼んだことない。言い過ぎか。日記で書いたことはあったような気がしないでもない。僕より若い人はもっとないか。愛情が中にこめられていたとしても、誰かが誰かをそう呼んでいるのを聞くのも何か嫌だ。

 

その後のシーンでの僕はふて寝をしていて、妹らしき存在が顔を手で包む感触と、「木下さんも泣いていたよ」という言葉共に目が覚めたのだが、ちゃう、あれは木下さんではなく白石さんやという感じで目が覚めた。顔を包まれるのも特に良い感触ではなく、僕は包みたい派である。

 

なんともちぐはぐな夢だった。

 

そうして、起き抜けに僕の日記の波紋が響いたっぽい(違うなら共時性だから結果的にはどちらでも良い)、愛の分類についての日記を読み二度寝に入りながら、感じとしては愛って1つなんだよなって色々と説明を文字化していた。僕は別に観念とか人格が統合されなくても良いと思っているから、同じ言葉で別の意味があるということは問題ないと思うが、語義より漢字の方が優先される。

 

僕は世界を愛しているし、この感じの中では僕を愛してくれている人も居るだろうなという結論。

 

考察に向かう前に、もういくつか寄り道。

 

昼休みにkindle読み放題で1冊読んだ。「やりたくないには本音が隠れている」という本。冒頭辺りで、この本を選んだってことはやりたくないという感情に煩わされているのでしょうってフレーズがあったが、ごめんけどもうそんなものはない。ただ、言語化するとどういう感じなのだろうという選択。

 

本って、何か正解が提示されているご都合が良いものではないが、そういうものを求めて読む人が多いのも分かる。

 

面白いのは、人は1日で何万回も思考していてと何処かで読んだフレーズから始まり、その中の大半がネガティブな思考で、あと昨日と同じことを考えているということ。考えることに対するネガティブなイメージはこういうところにあるのだろうな。僕はあんまり同じことをぐるぐる考えるようなことはしない。感じの言語化で言葉を探すことはあるが言葉にしたところで感じが変わる訳ではないという切り分けがある。

 

この本はもう少し細分化していて、「やりたくない」となったことに対して言葉で簡単に理由が付くことであれば、それは本当の自分がやりたくないかどうかは分からないとのこと。ただ、言語化できない感じとしてやりたくないとなっているのであれば、それは本当の自分が訴えてきているのかもしれないから、いったん自分と向き合うのが良いよと言っている。

 

本当の自分と仮の自分とか、やや細かいが、分からなくもない。自分が思う言語化できる本心と、本当の自分が求めているものがズレているとはかなりある。言語化できるのは意識的な経験則だが、感じは無意識的な経験則だし。常識を意識的に外すとか、嫌な感じが何故そうなのかと自己問答してみるとかはふつうにやった方が良い。

 

この本当の自分を魂と表現することで一気に胡散臭くなるのだが、説明できない何かを言語化するための器としての言葉が魂だろうからしょうがない。こういう話はだいたい肯定的に読めるのだが、魂はやりたいことをもともと決めて生まれてきているのだという風に説明されると、うー、そういうことなん? ほんまかと思ってしまう。プラトンのくじ引き理論と同じ説明の仕方。

 

なにせ、当の自分の本心は割と開示してもええでとしているのだが、いくら問いかけても何も返ってこない。まぁ返ってくるのは言葉でないとすれば、まぁまぁ良好なのだが。こういうのが自己愛だろうな。

 

抽象的な世界で生きていない証拠。この本を読み終わったあと階段を上っていたら、不規則な動きをしながら降りてくる男性が居た。どうしたんだろうと視線と動きを追うと、どうやらカナブンの死骸を避けているらしいということが分かる。よく虫を見ながら生きている人だ。カナブンに対してトラウマがあるのかもしれない。

 

仕事で言えば、古参の先輩がお洒落な先輩を褒めているシーンを見て、やっぱり褒め上手な人だなと思った。ちゃんとその人がどういう風に生活しているかを見た上で美点を言及する。ほんと人のこと良く見ている。でも少し穿つと、何故そういう人格になったのかはとても気になるところ。僕は現実ではあんまりそういうのは表明しないようにするというスタンスなのだが、開示できる相手だからなのだろうか。先輩男子に対しては気を使っている感じがする。声のトーン上がっているし。

 

3人で飲みに行ったら楽しそう。

でもそういう現実はないんだよな。

 

やれやれ。

 

やっと本題。

 

愛の分類は、エーリッヒフロムさんの「愛するということ」でもあった。ただ、僕は父性愛も母性愛も無条件な感じがしないし、友愛とか自己愛もなにやら具体的な感じ(文化)ありきな気がしてなんとも。

 

自分が一般的な意味における愛の感情が欠けていると思うのもこういうところで、父性の厳しい愛も、母性の抱擁的な愛もまっとうに得ていないから、愛に育まれた経験がないのだよな。だから別に子供愛せないとか、子供が居ないから愛を知らないとか割とどうでも良い。

 

こういう愛の観念って、おそらく状態の言語化だと思う。色んな分類があるように見えるのも、結果的にそうなっているということにラベルを付けているだけで、中の感じは1つだと思う。

 

奉仕とか無償は僕の中では愛には含まれていない。

これは、他の関係が対価的なものだからという観念からの消極的な定義。時間をかけることができるって、時間はどんな関係においても消費される訳で。

 

僕の感じの言語化だと、まず、愛は結果とか状態とか動機ではなく、行為そのもの。運動といっても良い。だから、名詞にはなりえない。要素は「受け入れること」と「分かろうとすること」。

 

これだと、ある程度統合されるのでは。

愛として認識されているのは、状態ではなく自分の行為だし、敬愛も友愛も相手を受け入れながら分かろうとする行為を見ている。関係ではなく自分の運動。

 

ただ、自分がしているだけで良いとはならないのもやっかいなところ。奉仕的な愛の行為として、サッカーボールをプレゼントしたらその子供は足が不自由だったとしたらそれは愛と呼べるのか。外から見たときの愛はなんとなくそういうものを入れる器としての言葉でしかない。魂は書いたが、常識とか普通と同じ。

 

そういう風に愛を言語化してないかというはまず自分に問うべきではあるかも。

一般論として使ってないか。

 

(なんのカウンセラーや)

僕は自分に対してできないことは他人に対してもできないという認知で、この日記の中の愛は、自己愛とは何ぞやから鏡としての言語化である。自分を愛するとか大事にするというのは、自分を甘やかすことではなく、自分とちゃんと向き合うとか、何が嫌で何に重きを置くかをちゃんと分かろうとすること。

 

だから僕は、分かろうとすることを愛としている。これって自分を変革しうる対象を受け入れることとセットで、保護が愛とみなせないのもここ。保護はあくまで勝手に愛と思いながらやっていること。

 

自分より劣った相手に重きを置くというのはなんとなく情け深いように見えるが、僕がその対象にされたら、全然愛されてないと思うし感謝もできない。

 

ちゃんと人として見てくれたら、同じ時代で存在してくれてありがたやとなるのだが。

 

僕が世界を愛しているのは、現在進行形で分かろうと思える対象だからであり、僕を愛してくれている人は何人か居るなというのもこういうところ。

 

世界線が個人毎にずれているという話で言えば、愛は個人間でずれながら留める行為でありそう。要は、波紋は愛の行為っぽいよなということ。

 

結局のところ、人って言語外に在るよな。

 

では、おしまい。

 

良い夢を。

 

交換できないもの

 

 

 

物理的な移動はほとんどなかった1日。その代わり、午前中と午後に1冊ずつ景色として読んだ。10分100頁はやり過ぎで車酔いみたいになる。情報本って何が書かれているかが大事なのであって、何文字目で追ったかではない。

 

文字を読んで意味を追おうとすればするほど中身からは離れてしまう。というより、僕がきちんとした情報を扱えないというところにあるのか。僕が文字で再現しているのは確固とした情報ではなく、僕が持ち帰ってきたイメージだから、イメージとして採り入れないと書けないし解けない。

 

 

法律本で通しているのは強迫観念の上書きのためもある。景色は覚えているのにあるフレーズは覚えていないというのは、なんか変だよな。文字に固有の価値を置いて、情報として細分化している感。確かに最初の読解はここにあるが、ある程度読み慣れれば、場として見ることができるのではという試行。小説はきちんと一字一句、何なら句読点も計算されているものもあるからゆっくり文体を味わいながら心象風景で展開するものだが、情報が書かれている本はそうではない。

 

さておき。

 

僕の文章そろそろ読んでいる人が追ってこられないくらいになってないかと思ったのだが、いや、でも一応他の人が書いていることを参考にしているからそんなに突拍子もないことにはなってないはずと思い直す。価値観のほとんどが経験則に依拠している人の方がきっと読みにくい。だって比較対象がないのだから。これをなんとはなしに通せるのは、同じ時代に生きているからという理由でしかない。これが文化の力。

 

僕の文章は文化的背景だけでは読めないかもしれない。最近は古代ギリシャとか芸術の起源とかブッダさんの時代のインドに行っているし。

 

文化と言えば、「わたしを離さないで」。なんでノーベル賞なのだろうなと考えていた。いや、面白くない訳ではない。むしろ、文字を追うだけで光景がはっきり展開されて良き。以下ネタバレ含みます。

 

 

約束のネバーランド」感があったのは、どうやら臓器提供のために創られた学園が舞台だったから。そうして思春期特有のまぐわいへの興味というか、もっと直接的な単語が連呼される。連呼されているだけで特にそういう場面の描写がある訳ではない。

 

なにか違和感があるなと思っていたら、現代を舞台にした寓話が含まれているのだろうなということろで、これがノーベル文学賞になったのかというところ。感情とか習慣がどう生まれているか、みたいな。今日読んだところでは、カップルの所作がテレビドラマに依拠しているみたいなシーン。割と性に開放的な感じなのも、現代的だよなと。パートナーとしての永続性を意味しない。

 

こういう文脈でいうと、村上さんが候補に挙がるのもなんとなく分かる。営みの普遍性というか寓話性。村上さんのまぐわい描写のほうが生々しいが、僕はノルウェイの森を読んだ時から、こういうのは当たり前の営みなんだというメッセージとして読み取っていた。生は死の反対側にあるものではないという同じくらいの生活の話。当時は言語化はできなかったが、なんとなく全部同じようなことという意味。

 

まぐわい描写で言えば石田衣良さんのが生々しいし、僕も書こうとすれば。略

まぁそういう生活していないから書くなら虚構になるから別枠。

 

さておき。

 

好きなアニメの漫画版を読んだ。「プラネテス」というのだが、知っている人は居るだろうか。宇宙飛行士というか宇宙が生活に含まれた時代の話。アニメ版のしりとりのシーンが良き。「結婚しよう」「うん」、負け。

 

アニメ版は各場面が細かくなっていて良きなのだが、漫画版もあっさりしていて良かった。タナベというヒロインの口癖は自分の名前からか、「それって愛がない」。この漢字が入っている名前って良いよな。ダイレクトな感じ。

 

唯我独尊的に宇宙に突き進もうとする主人公はエゴというか自分しか世界に存在しないみたいな感じなのだったのだが、タナベとくっつき、愛とは何かを悟る。自分は宇宙の一部でしかない=世界と繋がっているということ。この愛=繋がりというのはとても分かり易い答えだ。

 

そうして、読んでいて鳥肌が立った場面がある。主人公と結婚したタナベと別の人(フィーという愛煙家の船長でキャラクターが好きなのだが主旨から離れるから省略)が会話している。「あんた、ハチマキ(主人公)のこと好きだったの」、「別に、プロポーズされたとき他に誰も居なかったし」、「あんた、はちまきのこと愛しているの」、「はい、もちろん」、「尊敬するわ」。ここでぶわっとなったのは、物理的な愛情の先着順というか、誰でも良さ。確かに、有用でも快適的でもないものを愛の対象としたとき、たまたまそばに在った存在が対象になるという潔さ。もっといい条件の人が居るかもしれないとか、自分が選ばれなかったかもしれないとかそういう意識が微塵もない。権化だな。

 

遡ると、タナベが宇宙に出てきたのは「自分の可動域を知るため」だったし、なんとなくシンクロニシティ。個人的にはずっと主人公のエゴに共感していたのだが。「悲しみも不安も全部俺のものだからもったいなくて誰にもやれねぇ」みたいなところ。

 

僕が読んでいるのも書いているのも、可動域の話。

どこまで素朴な自分で在っていいのか。リベラルアーツとか原始仏典とか哲学とか高次元もそういうところで、自分の感覚にあった何かが1つでも存在していたら、まだまだいけるなって思える。認めてもらうことは稼働域にはならない。ここまでだったら存在を認めて貰えるのかということにはなるが。これってどこまでか分からないから所在がない。

 

アリストテレスさん。善性の習得において、天性と理解と習慣があると言っている。全二者は誰もがたどり着けるところではないが、習慣は外からの強制力があれば誰でもできるとしている。その為に必要なのが法だって。

 

なるほど。法には道徳という社会からの強制力と、国家の強制力としての法律があるが、これらは、もともと善き人であるためにはという話だったのか。で、習慣の善性を自分の正しさとしている。知慮としての具体的事象を捌くとは矛盾しそうだが、善を前提とした上でなんだろうな。

 

道徳の授業を受けてもさっぱり道徳律は分からなかった。だって大人が全然それを実践していない。人が良い反応をしながらあの人はあぁいうところが良くないとかなんとかかんとか。

 

まぁあくまでどちらも物理的な行為としてのルールだったら分かる。内心はともかくそういう風に振る舞うように習慣付けましょうというルール。だから人が見てないところでは違反しても良い。と考えていくと、アリストテレスさんのいう善ってあんまり個人を見ていなくて、あくまで国家の国民レベルの話なのだろうなということ。

 

まぁ、今の日本でさえちゃんと個人になっている人ってそんなにいないだろうが。

 

自分の判断について、完全に自分の責任を追える人ってどれくらい居るだろうということ。

例えば、このご時世のワクチンについてなんとなく不安を解消させたいがために接種するとか、周りがやっているからとかではなく、ほんとにどうなっても他責にしないのか。

 

思想を遡っていく実践的効果は、法律学に作用する。

きっちりかっちり要件があるということではなく、あくまで常識とされてきたことの集積でしかない。帰納的ではなく演繹的という。いや個人的にはどっちがどっちか未だに判別できないのだが、結局は直感を言語化しているだけ。まぁ言葉自体がそういうもん。

 

アリストテレスさんが万学の祖と呼ばれていることからすると、愛というか好意もこの人が創った言葉が前提とされている。快適か有用かって、今の人でも普通にそうだもんな。

 

原因と結果を逆転するのが人だというのは別の人の言だが、好きだから快適なのか、快適だから好きなのかというのは全然違うよな。好きに正義(公平・均衡)を求めるのは何か違う。愛っていう大きな言葉にしたからだろうが、ここは全然合理的な感情ではないはず。

 

愛の繋がりは過剰な交換であって、何か余剰が生まれるもの。

 

凄くどうでも良い話だが、凝り固まった肩がほぐれてきている。

 

舞踊とかもっと見に行かねばな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

景色を見るように書を読む

 

 

寂しさとか不安の根源はきっと所在のなさにある。意識は世界(時空間)のどこか1点に存在している訳ではないからなんとか収まり所を探す。全部仮象っぽい気はするが。でも、これがないと感動も芸術も無い。所在がないことによって何処にでも何時でも在れる。

 

さておき。

 

物理空間と精神空間とほどほどにバランスよく移動した1日。筋肉痛にも知恵熱にもならない。

 

朝起きてどん兵衛と納豆ご飯を食べ一時ごろごろもぞもそする。ふと、あぁ緊急事態宣言終わったから、有料の自然公園行けるわと思い。ルートを演算。本屋を三軒回りつつスーツをクリーニングに出す。さらに帰りにスーパーに寄ってお昼ごはんと夜ごはんも買う。近所に3軒(厳密には4軒)本屋があるってどれだけ恵まれているのか。

 

まずは、老舗の古書店に向かう。水分補給はアサヒの奥なんとかの水が良かったがなかったためポカリを買う。あんまり買う気はなく冷やかし気分だったのだが、なかなか呼んでくる。次のテーマは「空間」っぽい。生物の空間がかなり面白そう。あと、「プレップ倫理学」。プレップシリーズは、弘文堂で良かったっけ、が、その学問の最初の1冊という意図で出している藍色のカバーの文庫本サイズの入門書。パラパラめくるとめっちゃ線が引いてある。こういうのが古書の醍醐味だと思う。

 

シンクロニシティはあまりに日常化しているから、シンクロニシティの中で何を選ぶのかという感じになっている。順番待ちあるからまた今度なと、買わずに後にした。

 

クリーニングに出してスーパーのATMでお金を下ろし地下鉄の駅を通り過ぎ、普通の本屋さんも冷やかしに行く。緩さが好きな本屋なのだが、職場の駅ビルの本屋の選書のセンスの方が今は好き。「AIは人を憎まない」(既に読んでいる)、「難しい天皇制」どちらも駅ビルの本屋。どんな本を仕入れるのかって本屋の店長にどれくらいの選択の幅があるのだろうな。本屋の販売形態って厳密には委託販売であって、所有権が本屋にある訳ではないから、会計的に仕入と呼んで良いかは定かではない。たぶん良い気がする。

 

そうしてやっと公園。割と長く住んでいるからいつでも入れたはずなのだが、入ろうとしないと入れない。入園料、たったの220円のくせにちゃんと非現実空間を展開できていて、年間パス買っても良いかなというくらい良かった。好き。

 

周りはほとんど普通の住宅街で敷地もそんなに広くないのだが、入ったらすぐ温室があり人間には悪そうな湿度が高い空間の中にサボテンやらパイナップルやらがあり、一挙に非現実に浸れる。温室が終わると池と芝生があり、なんだか「すごく快適に調えられた自然」という感じ。人も多かったが特に苦にならない。有料の価値なのかとても皆上品な感じ。子供はちゃんと騒いでいる。

 

非現実というのは、その辺に当たり前に生えていない植物が植わっているところ。視界に入ると違和感が刺激される。アジサイロードを通っていると、向かいからアサガオみたいな青みが深い浴衣を着た可愛らしいお婆さんがカップルで歩いてきて、いとおかし。マスク社会が良いのは下でにやにやしていても見られないところ。その先にはハーブ園があり、ここも良かった。虫取り少年が1人で網を振っていて、がんばれがんばれって思いつ、ハチがちゃんと居るとかモンシロチョウとかアゲハ蝶とか見つけていたら、オレンジっぽいカメムシも元気に葉っぱを食べていた。

 

カメムシは触らなければ臭くならないのだよなと考えていたら、花に無造作に手を触れて匂いを嗅いでいる人が居た。僕も、葉っぱの質感に触れたい衝動が起こったが、植物にとって触れられるってストレスになりうるから止めといた。触れるということは鑑賞を越えた干渉である。まぁこの公園は触らないで下さいというルールはなかったが、僕は触れたくなかった。易々と触れられるというのはそういうことなのだろうな。

 

僕も先週異界みたいな森に行ったとき触ったが、葉ではなく幹という強靭な部分。

 

ここが好きだなと感じたのは、空間のデザインに意図があるというか、管理している人達、ほんと植物好きなんじゃろなというところ。何をもってそう感じたかは不明だが、計算された空間の心地良さがあった。狭いからこそできることなのかもしれないが。

 

ふぉーという顔で外に出る。当時の恋人さんとここに行けていたら何か違う今もあったのかもしれないなとふと想う。人と人の磁石みたいなものはこれくらいの機微でしかない。

 

次は、個人経営の新古書店。完全に店主の好みでデザインされた書籍空間。もっと浸っていたかったが、馴染みのお客さんらしき人がやってきて雑談が始まってしまったもので、「営み感」が顕われ、いたたまれなくって退散したくなり撤退した。

 

なんとか1冊だけ採ってきたのが、「芸術学」。

 

帰り道のスーパー。なんとなくかつ丼の舌になっていた。冷凍ご飯があるからトンカツだけ買う。あとは何か味噌汁でも作るかという目論見。夜ご飯ようにお刺身とローストビーフ、明日の朝ごはん用に茹で蕎麦。

 

ここでビールの話。金麦とかクリアアサヒは体調崩す。一番搾りが良いのは、ビールの中で麦とホップだけが原料なのが他にあんまりない。コーンスターチが入ってくる。エビスとかモルツだとちょっと値段が上がる。本日はよなよなエールも1本買ったが、これは本の師匠との思い出の品。ビールって飲まない人でも、あるいは飲んでいる人でもあんまり品種は気にならないのかもしれないが、味はちゃんと違う。

 

なんならミネラルウォーターもそう。六甲のおいしい水とかいろはすとか駄目なんよな。飲めるけどなんか違和感がある。百円自販機にしかないレアな熊野古道の水は大丈夫だった。

 

お酒飲んでいたら味覚が鈍くなるというのは嘘で、お酒と一緒に食べているものによるだけだけと思われる。飲まない人の全体が繊細な訳でもなし。

 

結局お昼ご飯はかつ丼ではなただのカツをおかずにした。なんとなく実家の食べ方に回帰する。ウスターソースとケチャップのツケダレ。濃ゆいが懐かしい。味噌汁は葉も食べてええよという3個のカブと白い部分と乾燥ワカメにした。葉の部分はさっと茹でて浅漬けにして今食べている。

 

はい。ここから精神世界の移動。

 

昼ご飯を食べた後一頻り寝て、本を読もうと思ったのだが全然頭が回らない。エクササイズに将棋をAIと対戦してみたのが、全然。そこで、文字を景色として自分に通すということをやってみた。600頁くらいある民事訴訟法の専門書を3時間くらいで流す。頭のいつもは使っていない部分がフル回転した感。

 

僕にとって知識は自分を安心させる何かではなく、移動手段みたいにしているところがある。可動域。最初の知識ってそういうものだったよなと。それが正しいとすることではなく、何はともあれそれを世界にするという収集法。

 

この可動域は継承させるものなのかというのは分からないというか知ったことではない。

 

でも、リベラルアーツの本は、僕がずっと違和感があったことに対して回答をくれる感じはある。正義の中身は公平と均衡だというアリストテレスさん。それだったら分かるわ。個人の中にあるものではない。良かった。

 

あと、「知慮」という概念があって、諸々の現実の機微を捌いていく、当人の中の判断基準とのこと。これも分かる。正解じゃなくて決断よなと。知慮をどうやって磨くのかというと、習慣だというスタンスなのだろうが、個人的には決断を許して見守ってくれる存在が必要だと思う。それは自分であっても良いし、他人であっても良い。

 

快楽と善とかは原始仏典と比べると全然違うのだが、素朴では、原子仏典の伝聞形式がブッダ氏を神話化している感じはする。仏教系の修行、まぁまぁ極論感はあるが。即身仏とか。

 

あと、愛の概念の話もあり、なかなか面白い。愛の対象になるのは、「快適なもの」、「有用なもの」、「善なもの」という分類があるらしい。

 

ここは僕がずっと想ってきた違和感とも一致していて、シンクロニシティではある。なんなら未だに独り身である意味でもある。全2者はあくまで「当人にとって」ってという前置きがある。この愛って、あくまで当人の物語の世界の話であって、相手の物語は加味されてない。まぁだから交換可能性がある訳で市場が回るのは良いのかもしれない。

 

最後の善も良く分からなくて、解釈するなら、人を前2者ではないのに想えて接することができることなのかなと。だったら分かる。僕がどうでも良さに価値を置いているのはこういうこと。快適でも有用でもなく、ただ相手を見ることができる。

 

僕は別に善い人ではない。

 

ナイトキャップ的な存在って、快適寄りなのかな。

 

はい、ここまで。

また明日。

 

おやすみなさい。

 

よい夢を。

 

予見


夏が近くなってきた。鼻歌で「ふっゆっがはっじまるよー」とか歌っているし、まだ暑さはそれほどだが、光の色と空気が違うよな。アジサイはそろそろ見納めかと思いながら色んなアジサイが咲いているルートを歩くのだが、なかなか強い花。嬉しい。その先に高速道路の下を通り抜けるトンネルがあり、いつも田んぼがある。オタマジャクシが元気に大量に泳いでいるのだが、よく見るとピロピロ動いている別の生物がいる。これってヤゴだったっけ、ヤゴって確かオタマジャクシを捕食するのでは、と小さな生態系を想う。オタマジャクシが大量に生まれる理由は種として生き延びるためなのだよな。

さておき。

仕事場でふと人のマスクの下が目に入ってしまうと男女問わずイケナイものを見てしまった気分になるになることに気付いた。新たな価値観が形成されている。フェチというか自分の身体の見せ方というかで、なんでお洒落な先輩は魅力的に見えて、同期はそう思わないのかというのがなんとなく分かる。同期はあまりに不用心というかフォルムが生生しい。中に何を着ているのかが見えてしまうというか、これあんまり細かく書くと僕が変態みたいだが、別に興奮はしていないから大丈夫か。中高生のブラウスみたいなイメージ。思春期だったらどぎまぎするのだろうが今となっては、なんというか、そういうのは大事な人だけに見せれば良いのではというか、やはりあんまり言語化してはイケナイことなのかもしれない。

そうして、少し上司と雑談をした。今何歳なのかとか彼女は居るのかとかずかずか事務情報を聞いて来たが、たぶんそういう風にしか人と会話できないのだろうなと思うと別になんのことはない。僕もずかずか答える。入った当時には居ましたよーとか。あと、僕が1人で居て寂しくないことに対しても理解がある。1人で過ごして楽に生きてすみませんって言ったら、そういう人も居るよな、私は1人が寂しいから友達ところに入り浸っていたいって言う。このご時世だとほんとにしんどいですなという感じで答えた。ロマンス的な意味ではなく、可愛らしい人と思った。

可愛らしさの定義も良くわからないところであるが、年齢とか距離感とか関係ないのかもしれない。

先輩男子もこの上司と仲違いした訳ではなく、今日は普通にいっぱい雑談していた。体調不良で喋るだけで喉が痛いとか言っていたが、そんなに話して大丈夫かと思ったのは秘密。この人に対しては若干虚言癖臭を感じるのだが、まぁなんでも良い。虚言癖の人って、嘘が体験になるらしいし、そういう傾向はきっと誰もが持っている。脳内の世界と物理の世界が混在する。

なんとなく抽象になっていたから現実に寄せてみたらしい。色々考えたり収集したりしているが、最終的に絶対分からないのは人なのだろうなという認識。心理学とか統計学とか経験則では傾向的な人のことは分かるが、具体的な人のことはきっと一生理解し切ることはない。一番情報を持っている自分のことすら分からないし。

この文脈での物事が分かるってどういうことかというと、それに対する仏教用語でいう世界を掌握すること。時間軸でいうと予測も立つし実際その予測通りになる。具体的な人はこういう意味では把握できない。本気で接すれば。そういうものだという色眼鏡で接したら相手からもそういう風に返って来るというのは普通にある。

そういえば、壁を越えた辺りから寂しさもどこかに行ってしまった。具体的な人と接していないと寂しいってある意味本能の要請なのだろうけど、僕はそういうのではなかったらしい。今の日本に住んでなかったらとっくに淘汰されるべき存在。かといって人間嫌いな訳でもないし、人と接するのは楽しい。ありがとうの交換とかええよな。と、一見アンバランスだが、僕は儀礼的なところでない人との交わりが好きなのだと思う。家族とか親族とか儀礼の極致だし、そういう場で過ごすことはとてもしんどかったのだろうなと今になって思う。たぶんこれって僕の性質上の問題だから、不和が無い家族でも同じだったと思う。それとは別に、おばあちゃんが亡くなったら僕は泣く気もしていてアンバランスがカオス。

まぁもしかしたら、家族という縛りがなければもっとお父さんと話せたのになぁという憎しみ的なものがあるのかもしれない。もうここはどうしようもない。ただ、僕が家族という場のルールを決められる統治者になったとしたらちゃんとその場の人たちの言い分を聞いた上でルールを作るだろうな。大人は子供より物事を知っているとされているがそんなの程度問題だから、より良くするためには意見を否定するのではなく聞き入れる機関があるべき。話しても無駄だって思わせる統治者は宜しくない。最終的な決定権者は決めないと迷走するから駄目だが自分の言い分が考慮されたという体感はとても大事。

これが民主主義。そして、正しさは個人の中でなくても良いが集団になると指標として必要になる。

プラトンの弟子のアリストテレスさんのニコニマス倫理学だっけ、まぁまぁ面白そう。プラトンは共通善としてイデア界を発明したが、弟子は発展させて、善は個人の中にあるものであって、それは習慣付けによるものだとした。政治家は国民が善であるように習慣付けを上手く操作すべきとかなんとか。歯磨き習慣みたいなものだろうか。こういうのは確かに大事。

当人の中にある当たり前のほとんどは習慣付けから来ている。正しいとか幸せとか言葉が出てくるのはそういうこと。

人の時間が全然進んでないなーと思ってきたのが、哲学本を読み慣れてきた頃かもしれない。刑法のもとにある思想がカントさん由来とか、民法のもとには古代ローマ法由来のものが含まれているとか、この2000年何してきたのだと。まぁ繋げてきたんだということだろうが。

どうでも良いが、言語学とか息の構造とかを読んでいたらふと日本語の不自由性を思い付く。助詞のこと。英語でいうbe動詞みたいな、何かと何かを=で繋げる言葉って日本語にはないよな。

〇は△ですという表記は、何か他に諸々あることから〇をあえて選んだ風だし、×が●ですになると余計に選んでいる感。他は無関係で、〇=●みたいな客観表記は日本語の語用としてはないのかもしれない。あえて言葉として取り出したという遣い方よな。

何が食べたい? なんでも良い。という応答が好まれないのも、何でも良いって言っているのだから質問者にとっては自由だが、質問者は、あえて言葉として自己主張を求めているから齟齬がある。選択史を限定して欲しいという意図。

この「が」を除いて、何食べる―? になると随分ニュアンスが変わる。
そもそも、なんでも良いが困るんだったら、今日は親子丼で良いですか? みたいな聞き方になるはずだが、なんでそう聞かないのだろう。選択にはエネルギーを遣うから、主導権を渡す所作としても、自分が思ってなかったことを選ばれたら不機嫌になるんだったらやめた方が良い。ビーフストロガノフとか、油淋鶏とか言われても対応できる料理人だったらともかく。

ちなみに、僕の幼少期の食卓は何が食べたいって聞かれたことは無かった。そんで外食では自分で選べってなるから、何を選べと? となる。ざるうどんばかり食べていた。
ご飯は自分で選ぶものではなかった。作れるようになってやっと選べるようになった感。

日本語は基本的に雑だから、投げっぱなし、拾いっぱなしになるんだよな。
ただ、このてきとーさがとても好き。これが詩とは別の短歌とか俳句の文化になっているような。


ちなみに、僕は宮沢賢治さんとか、萩原朔太郎さんも好き。かなり世界観をぐわんぐわんとさせる人達。

思考する身体の中で、「海の中で星になれる」という詩があって、これが人の本質だということだった。確かに、人の固有性ってこういうなんにでもなれることだよな。ある意味虚言癖と通じている部分でもあるし、気ちがいと紙一重

でも、ふと見渡すと、僕の世界には自分のことを虚言で誇張する人は居なくなっている。

世界は自分の認識の上で成り立っているという説が実感されてきている。

あぁ、大事な人にだけ見せるという部分で言えば、どれだけ自己開示したとしてもとっておきはある。それは大事になった当人専用の僕。


ゆるゆるだわ。

では、おやすみなさい。

ちゃんと当人でありますように。