愛の定義と効果

 

 

愛は原因なのか結果なのか。あるいは運動なのか状態なのか。対義語は憎しみではない気がする。

 

 

ご飯が美味しい。鶏肩肉と人参、ピーマン、茄子という昨日と同じ組み合わせ。いや同じではない、本日は椎茸もあった。ちなみに昨日茄子を買ったのは、その前日に行った有料の公園で実りつつある茄子を見たからだと思われる。全体的に紫で鑑賞対象としても艶やかな植物。こんな些細なことに人の行動は左右される。

 

昨日の味付けは雑にウスターソースだけだったが、食べてみると薄かったため真面目にリベンジ。醤にすればいいじゃんと自然公園の温室と同じくらいの熱気を放っている外気を吹き飛ばすようなセルフだじゃれをもとに、軽く炒めて水を加え、中華だし、豆板醤、コチュジャンを加え、水気が飛ぶまで炒め煮。炒め煮の良さは待っている間に色々できること。カブは日曜日に2個分の浅漬けをしていたため副菜は問題ない。ただ、切る食材増やすと時間がかかるからバランスとしては悪手だった。家庭的な中華料理居酒屋で出て来そうな味わいだからまぁ良し。

 

さておき。

 

起きた後に涙が出ていないタイプの泣く夢をみた。なんか訥々と友人に「お前がしんどいのは分かっている、分かった上でやってやっているんだ」みたいな言説を聞かされ、感動している風にそこの僕は涙を流し、起きた後も感動した風の感じがあるのだが、時間が経つにつて違和感が盛り上がる。あ、これ泣いていたが、なんかいたたまれなくて泣いているだけのやつだと。

 

そもそも僕は人のことを「お前」と呼ぶ人は好きではない。たぶん僕はこの人生で1回も人をお前って呼んだことない。言い過ぎか。日記で書いたことはあったような気がしないでもない。僕より若い人はもっとないか。愛情が中にこめられていたとしても、誰かが誰かをそう呼んでいるのを聞くのも何か嫌だ。

 

その後のシーンでの僕はふて寝をしていて、妹らしき存在が顔を手で包む感触と、「木下さんも泣いていたよ」という言葉共に目が覚めたのだが、ちゃう、あれは木下さんではなく白石さんやという感じで目が覚めた。顔を包まれるのも特に良い感触ではなく、僕は包みたい派である。

 

なんともちぐはぐな夢だった。

 

そうして、起き抜けに僕の日記の波紋が響いたっぽい(違うなら共時性だから結果的にはどちらでも良い)、愛の分類についての日記を読み二度寝に入りながら、感じとしては愛って1つなんだよなって色々と説明を文字化していた。僕は別に観念とか人格が統合されなくても良いと思っているから、同じ言葉で別の意味があるということは問題ないと思うが、語義より漢字の方が優先される。

 

僕は世界を愛しているし、この感じの中では僕を愛してくれている人も居るだろうなという結論。

 

考察に向かう前に、もういくつか寄り道。

 

昼休みにkindle読み放題で1冊読んだ。「やりたくないには本音が隠れている」という本。冒頭辺りで、この本を選んだってことはやりたくないという感情に煩わされているのでしょうってフレーズがあったが、ごめんけどもうそんなものはない。ただ、言語化するとどういう感じなのだろうという選択。

 

本って、何か正解が提示されているご都合が良いものではないが、そういうものを求めて読む人が多いのも分かる。

 

面白いのは、人は1日で何万回も思考していてと何処かで読んだフレーズから始まり、その中の大半がネガティブな思考で、あと昨日と同じことを考えているということ。考えることに対するネガティブなイメージはこういうところにあるのだろうな。僕はあんまり同じことをぐるぐる考えるようなことはしない。感じの言語化で言葉を探すことはあるが言葉にしたところで感じが変わる訳ではないという切り分けがある。

 

この本はもう少し細分化していて、「やりたくない」となったことに対して言葉で簡単に理由が付くことであれば、それは本当の自分がやりたくないかどうかは分からないとのこと。ただ、言語化できない感じとしてやりたくないとなっているのであれば、それは本当の自分が訴えてきているのかもしれないから、いったん自分と向き合うのが良いよと言っている。

 

本当の自分と仮の自分とか、やや細かいが、分からなくもない。自分が思う言語化できる本心と、本当の自分が求めているものがズレているとはかなりある。言語化できるのは意識的な経験則だが、感じは無意識的な経験則だし。常識を意識的に外すとか、嫌な感じが何故そうなのかと自己問答してみるとかはふつうにやった方が良い。

 

この本当の自分を魂と表現することで一気に胡散臭くなるのだが、説明できない何かを言語化するための器としての言葉が魂だろうからしょうがない。こういう話はだいたい肯定的に読めるのだが、魂はやりたいことをもともと決めて生まれてきているのだという風に説明されると、うー、そういうことなん? ほんまかと思ってしまう。プラトンのくじ引き理論と同じ説明の仕方。

 

なにせ、当の自分の本心は割と開示してもええでとしているのだが、いくら問いかけても何も返ってこない。まぁ返ってくるのは言葉でないとすれば、まぁまぁ良好なのだが。こういうのが自己愛だろうな。

 

抽象的な世界で生きていない証拠。この本を読み終わったあと階段を上っていたら、不規則な動きをしながら降りてくる男性が居た。どうしたんだろうと視線と動きを追うと、どうやらカナブンの死骸を避けているらしいということが分かる。よく虫を見ながら生きている人だ。カナブンに対してトラウマがあるのかもしれない。

 

仕事で言えば、古参の先輩がお洒落な先輩を褒めているシーンを見て、やっぱり褒め上手な人だなと思った。ちゃんとその人がどういう風に生活しているかを見た上で美点を言及する。ほんと人のこと良く見ている。でも少し穿つと、何故そういう人格になったのかはとても気になるところ。僕は現実ではあんまりそういうのは表明しないようにするというスタンスなのだが、開示できる相手だからなのだろうか。先輩男子に対しては気を使っている感じがする。声のトーン上がっているし。

 

3人で飲みに行ったら楽しそう。

でもそういう現実はないんだよな。

 

やれやれ。

 

やっと本題。

 

愛の分類は、エーリッヒフロムさんの「愛するということ」でもあった。ただ、僕は父性愛も母性愛も無条件な感じがしないし、友愛とか自己愛もなにやら具体的な感じ(文化)ありきな気がしてなんとも。

 

自分が一般的な意味における愛の感情が欠けていると思うのもこういうところで、父性の厳しい愛も、母性の抱擁的な愛もまっとうに得ていないから、愛に育まれた経験がないのだよな。だから別に子供愛せないとか、子供が居ないから愛を知らないとか割とどうでも良い。

 

こういう愛の観念って、おそらく状態の言語化だと思う。色んな分類があるように見えるのも、結果的にそうなっているということにラベルを付けているだけで、中の感じは1つだと思う。

 

奉仕とか無償は僕の中では愛には含まれていない。

これは、他の関係が対価的なものだからという観念からの消極的な定義。時間をかけることができるって、時間はどんな関係においても消費される訳で。

 

僕の感じの言語化だと、まず、愛は結果とか状態とか動機ではなく、行為そのもの。運動といっても良い。だから、名詞にはなりえない。要素は「受け入れること」と「分かろうとすること」。

 

これだと、ある程度統合されるのでは。

愛として認識されているのは、状態ではなく自分の行為だし、敬愛も友愛も相手を受け入れながら分かろうとする行為を見ている。関係ではなく自分の運動。

 

ただ、自分がしているだけで良いとはならないのもやっかいなところ。奉仕的な愛の行為として、サッカーボールをプレゼントしたらその子供は足が不自由だったとしたらそれは愛と呼べるのか。外から見たときの愛はなんとなくそういうものを入れる器としての言葉でしかない。魂は書いたが、常識とか普通と同じ。

 

そういう風に愛を言語化してないかというはまず自分に問うべきではあるかも。

一般論として使ってないか。

 

(なんのカウンセラーや)

僕は自分に対してできないことは他人に対してもできないという認知で、この日記の中の愛は、自己愛とは何ぞやから鏡としての言語化である。自分を愛するとか大事にするというのは、自分を甘やかすことではなく、自分とちゃんと向き合うとか、何が嫌で何に重きを置くかをちゃんと分かろうとすること。

 

だから僕は、分かろうとすることを愛としている。これって自分を変革しうる対象を受け入れることとセットで、保護が愛とみなせないのもここ。保護はあくまで勝手に愛と思いながらやっていること。

 

自分より劣った相手に重きを置くというのはなんとなく情け深いように見えるが、僕がその対象にされたら、全然愛されてないと思うし感謝もできない。

 

ちゃんと人として見てくれたら、同じ時代で存在してくれてありがたやとなるのだが。

 

僕が世界を愛しているのは、現在進行形で分かろうと思える対象だからであり、僕を愛してくれている人は何人か居るなというのもこういうところ。

 

世界線が個人毎にずれているという話で言えば、愛は個人間でずれながら留める行為でありそう。要は、波紋は愛の行為っぽいよなということ。

 

結局のところ、人って言語外に在るよな。

 

では、おしまい。

 

良い夢を。