予見


夏が近くなってきた。鼻歌で「ふっゆっがはっじまるよー」とか歌っているし、まだ暑さはそれほどだが、光の色と空気が違うよな。アジサイはそろそろ見納めかと思いながら色んなアジサイが咲いているルートを歩くのだが、なかなか強い花。嬉しい。その先に高速道路の下を通り抜けるトンネルがあり、いつも田んぼがある。オタマジャクシが元気に大量に泳いでいるのだが、よく見るとピロピロ動いている別の生物がいる。これってヤゴだったっけ、ヤゴって確かオタマジャクシを捕食するのでは、と小さな生態系を想う。オタマジャクシが大量に生まれる理由は種として生き延びるためなのだよな。

さておき。

仕事場でふと人のマスクの下が目に入ってしまうと男女問わずイケナイものを見てしまった気分になるになることに気付いた。新たな価値観が形成されている。フェチというか自分の身体の見せ方というかで、なんでお洒落な先輩は魅力的に見えて、同期はそう思わないのかというのがなんとなく分かる。同期はあまりに不用心というかフォルムが生生しい。中に何を着ているのかが見えてしまうというか、これあんまり細かく書くと僕が変態みたいだが、別に興奮はしていないから大丈夫か。中高生のブラウスみたいなイメージ。思春期だったらどぎまぎするのだろうが今となっては、なんというか、そういうのは大事な人だけに見せれば良いのではというか、やはりあんまり言語化してはイケナイことなのかもしれない。

そうして、少し上司と雑談をした。今何歳なのかとか彼女は居るのかとかずかずか事務情報を聞いて来たが、たぶんそういう風にしか人と会話できないのだろうなと思うと別になんのことはない。僕もずかずか答える。入った当時には居ましたよーとか。あと、僕が1人で居て寂しくないことに対しても理解がある。1人で過ごして楽に生きてすみませんって言ったら、そういう人も居るよな、私は1人が寂しいから友達ところに入り浸っていたいって言う。このご時世だとほんとにしんどいですなという感じで答えた。ロマンス的な意味ではなく、可愛らしい人と思った。

可愛らしさの定義も良くわからないところであるが、年齢とか距離感とか関係ないのかもしれない。

先輩男子もこの上司と仲違いした訳ではなく、今日は普通にいっぱい雑談していた。体調不良で喋るだけで喉が痛いとか言っていたが、そんなに話して大丈夫かと思ったのは秘密。この人に対しては若干虚言癖臭を感じるのだが、まぁなんでも良い。虚言癖の人って、嘘が体験になるらしいし、そういう傾向はきっと誰もが持っている。脳内の世界と物理の世界が混在する。

なんとなく抽象になっていたから現実に寄せてみたらしい。色々考えたり収集したりしているが、最終的に絶対分からないのは人なのだろうなという認識。心理学とか統計学とか経験則では傾向的な人のことは分かるが、具体的な人のことはきっと一生理解し切ることはない。一番情報を持っている自分のことすら分からないし。

この文脈での物事が分かるってどういうことかというと、それに対する仏教用語でいう世界を掌握すること。時間軸でいうと予測も立つし実際その予測通りになる。具体的な人はこういう意味では把握できない。本気で接すれば。そういうものだという色眼鏡で接したら相手からもそういう風に返って来るというのは普通にある。

そういえば、壁を越えた辺りから寂しさもどこかに行ってしまった。具体的な人と接していないと寂しいってある意味本能の要請なのだろうけど、僕はそういうのではなかったらしい。今の日本に住んでなかったらとっくに淘汰されるべき存在。かといって人間嫌いな訳でもないし、人と接するのは楽しい。ありがとうの交換とかええよな。と、一見アンバランスだが、僕は儀礼的なところでない人との交わりが好きなのだと思う。家族とか親族とか儀礼の極致だし、そういう場で過ごすことはとてもしんどかったのだろうなと今になって思う。たぶんこれって僕の性質上の問題だから、不和が無い家族でも同じだったと思う。それとは別に、おばあちゃんが亡くなったら僕は泣く気もしていてアンバランスがカオス。

まぁもしかしたら、家族という縛りがなければもっとお父さんと話せたのになぁという憎しみ的なものがあるのかもしれない。もうここはどうしようもない。ただ、僕が家族という場のルールを決められる統治者になったとしたらちゃんとその場の人たちの言い分を聞いた上でルールを作るだろうな。大人は子供より物事を知っているとされているがそんなの程度問題だから、より良くするためには意見を否定するのではなく聞き入れる機関があるべき。話しても無駄だって思わせる統治者は宜しくない。最終的な決定権者は決めないと迷走するから駄目だが自分の言い分が考慮されたという体感はとても大事。

これが民主主義。そして、正しさは個人の中でなくても良いが集団になると指標として必要になる。

プラトンの弟子のアリストテレスさんのニコニマス倫理学だっけ、まぁまぁ面白そう。プラトンは共通善としてイデア界を発明したが、弟子は発展させて、善は個人の中にあるものであって、それは習慣付けによるものだとした。政治家は国民が善であるように習慣付けを上手く操作すべきとかなんとか。歯磨き習慣みたいなものだろうか。こういうのは確かに大事。

当人の中にある当たり前のほとんどは習慣付けから来ている。正しいとか幸せとか言葉が出てくるのはそういうこと。

人の時間が全然進んでないなーと思ってきたのが、哲学本を読み慣れてきた頃かもしれない。刑法のもとにある思想がカントさん由来とか、民法のもとには古代ローマ法由来のものが含まれているとか、この2000年何してきたのだと。まぁ繋げてきたんだということだろうが。

どうでも良いが、言語学とか息の構造とかを読んでいたらふと日本語の不自由性を思い付く。助詞のこと。英語でいうbe動詞みたいな、何かと何かを=で繋げる言葉って日本語にはないよな。

〇は△ですという表記は、何か他に諸々あることから〇をあえて選んだ風だし、×が●ですになると余計に選んでいる感。他は無関係で、〇=●みたいな客観表記は日本語の語用としてはないのかもしれない。あえて言葉として取り出したという遣い方よな。

何が食べたい? なんでも良い。という応答が好まれないのも、何でも良いって言っているのだから質問者にとっては自由だが、質問者は、あえて言葉として自己主張を求めているから齟齬がある。選択史を限定して欲しいという意図。

この「が」を除いて、何食べる―? になると随分ニュアンスが変わる。
そもそも、なんでも良いが困るんだったら、今日は親子丼で良いですか? みたいな聞き方になるはずだが、なんでそう聞かないのだろう。選択にはエネルギーを遣うから、主導権を渡す所作としても、自分が思ってなかったことを選ばれたら不機嫌になるんだったらやめた方が良い。ビーフストロガノフとか、油淋鶏とか言われても対応できる料理人だったらともかく。

ちなみに、僕の幼少期の食卓は何が食べたいって聞かれたことは無かった。そんで外食では自分で選べってなるから、何を選べと? となる。ざるうどんばかり食べていた。
ご飯は自分で選ぶものではなかった。作れるようになってやっと選べるようになった感。

日本語は基本的に雑だから、投げっぱなし、拾いっぱなしになるんだよな。
ただ、このてきとーさがとても好き。これが詩とは別の短歌とか俳句の文化になっているような。


ちなみに、僕は宮沢賢治さんとか、萩原朔太郎さんも好き。かなり世界観をぐわんぐわんとさせる人達。

思考する身体の中で、「海の中で星になれる」という詩があって、これが人の本質だということだった。確かに、人の固有性ってこういうなんにでもなれることだよな。ある意味虚言癖と通じている部分でもあるし、気ちがいと紙一重

でも、ふと見渡すと、僕の世界には自分のことを虚言で誇張する人は居なくなっている。

世界は自分の認識の上で成り立っているという説が実感されてきている。

あぁ、大事な人にだけ見せるという部分で言えば、どれだけ自己開示したとしてもとっておきはある。それは大事になった当人専用の僕。


ゆるゆるだわ。

では、おやすみなさい。

ちゃんと当人でありますように。