景色を見るように書を読む

 

 

寂しさとか不安の根源はきっと所在のなさにある。意識は世界(時空間)のどこか1点に存在している訳ではないからなんとか収まり所を探す。全部仮象っぽい気はするが。でも、これがないと感動も芸術も無い。所在がないことによって何処にでも何時でも在れる。

 

さておき。

 

物理空間と精神空間とほどほどにバランスよく移動した1日。筋肉痛にも知恵熱にもならない。

 

朝起きてどん兵衛と納豆ご飯を食べ一時ごろごろもぞもそする。ふと、あぁ緊急事態宣言終わったから、有料の自然公園行けるわと思い。ルートを演算。本屋を三軒回りつつスーツをクリーニングに出す。さらに帰りにスーパーに寄ってお昼ごはんと夜ごはんも買う。近所に3軒(厳密には4軒)本屋があるってどれだけ恵まれているのか。

 

まずは、老舗の古書店に向かう。水分補給はアサヒの奥なんとかの水が良かったがなかったためポカリを買う。あんまり買う気はなく冷やかし気分だったのだが、なかなか呼んでくる。次のテーマは「空間」っぽい。生物の空間がかなり面白そう。あと、「プレップ倫理学」。プレップシリーズは、弘文堂で良かったっけ、が、その学問の最初の1冊という意図で出している藍色のカバーの文庫本サイズの入門書。パラパラめくるとめっちゃ線が引いてある。こういうのが古書の醍醐味だと思う。

 

シンクロニシティはあまりに日常化しているから、シンクロニシティの中で何を選ぶのかという感じになっている。順番待ちあるからまた今度なと、買わずに後にした。

 

クリーニングに出してスーパーのATMでお金を下ろし地下鉄の駅を通り過ぎ、普通の本屋さんも冷やかしに行く。緩さが好きな本屋なのだが、職場の駅ビルの本屋の選書のセンスの方が今は好き。「AIは人を憎まない」(既に読んでいる)、「難しい天皇制」どちらも駅ビルの本屋。どんな本を仕入れるのかって本屋の店長にどれくらいの選択の幅があるのだろうな。本屋の販売形態って厳密には委託販売であって、所有権が本屋にある訳ではないから、会計的に仕入と呼んで良いかは定かではない。たぶん良い気がする。

 

そうしてやっと公園。割と長く住んでいるからいつでも入れたはずなのだが、入ろうとしないと入れない。入園料、たったの220円のくせにちゃんと非現実空間を展開できていて、年間パス買っても良いかなというくらい良かった。好き。

 

周りはほとんど普通の住宅街で敷地もそんなに広くないのだが、入ったらすぐ温室があり人間には悪そうな湿度が高い空間の中にサボテンやらパイナップルやらがあり、一挙に非現実に浸れる。温室が終わると池と芝生があり、なんだか「すごく快適に調えられた自然」という感じ。人も多かったが特に苦にならない。有料の価値なのかとても皆上品な感じ。子供はちゃんと騒いでいる。

 

非現実というのは、その辺に当たり前に生えていない植物が植わっているところ。視界に入ると違和感が刺激される。アジサイロードを通っていると、向かいからアサガオみたいな青みが深い浴衣を着た可愛らしいお婆さんがカップルで歩いてきて、いとおかし。マスク社会が良いのは下でにやにやしていても見られないところ。その先にはハーブ園があり、ここも良かった。虫取り少年が1人で網を振っていて、がんばれがんばれって思いつ、ハチがちゃんと居るとかモンシロチョウとかアゲハ蝶とか見つけていたら、オレンジっぽいカメムシも元気に葉っぱを食べていた。

 

カメムシは触らなければ臭くならないのだよなと考えていたら、花に無造作に手を触れて匂いを嗅いでいる人が居た。僕も、葉っぱの質感に触れたい衝動が起こったが、植物にとって触れられるってストレスになりうるから止めといた。触れるということは鑑賞を越えた干渉である。まぁこの公園は触らないで下さいというルールはなかったが、僕は触れたくなかった。易々と触れられるというのはそういうことなのだろうな。

 

僕も先週異界みたいな森に行ったとき触ったが、葉ではなく幹という強靭な部分。

 

ここが好きだなと感じたのは、空間のデザインに意図があるというか、管理している人達、ほんと植物好きなんじゃろなというところ。何をもってそう感じたかは不明だが、計算された空間の心地良さがあった。狭いからこそできることなのかもしれないが。

 

ふぉーという顔で外に出る。当時の恋人さんとここに行けていたら何か違う今もあったのかもしれないなとふと想う。人と人の磁石みたいなものはこれくらいの機微でしかない。

 

次は、個人経営の新古書店。完全に店主の好みでデザインされた書籍空間。もっと浸っていたかったが、馴染みのお客さんらしき人がやってきて雑談が始まってしまったもので、「営み感」が顕われ、いたたまれなくって退散したくなり撤退した。

 

なんとか1冊だけ採ってきたのが、「芸術学」。

 

帰り道のスーパー。なんとなくかつ丼の舌になっていた。冷凍ご飯があるからトンカツだけ買う。あとは何か味噌汁でも作るかという目論見。夜ご飯ようにお刺身とローストビーフ、明日の朝ごはん用に茹で蕎麦。

 

ここでビールの話。金麦とかクリアアサヒは体調崩す。一番搾りが良いのは、ビールの中で麦とホップだけが原料なのが他にあんまりない。コーンスターチが入ってくる。エビスとかモルツだとちょっと値段が上がる。本日はよなよなエールも1本買ったが、これは本の師匠との思い出の品。ビールって飲まない人でも、あるいは飲んでいる人でもあんまり品種は気にならないのかもしれないが、味はちゃんと違う。

 

なんならミネラルウォーターもそう。六甲のおいしい水とかいろはすとか駄目なんよな。飲めるけどなんか違和感がある。百円自販機にしかないレアな熊野古道の水は大丈夫だった。

 

お酒飲んでいたら味覚が鈍くなるというのは嘘で、お酒と一緒に食べているものによるだけだけと思われる。飲まない人の全体が繊細な訳でもなし。

 

結局お昼ご飯はかつ丼ではなただのカツをおかずにした。なんとなく実家の食べ方に回帰する。ウスターソースとケチャップのツケダレ。濃ゆいが懐かしい。味噌汁は葉も食べてええよという3個のカブと白い部分と乾燥ワカメにした。葉の部分はさっと茹でて浅漬けにして今食べている。

 

はい。ここから精神世界の移動。

 

昼ご飯を食べた後一頻り寝て、本を読もうと思ったのだが全然頭が回らない。エクササイズに将棋をAIと対戦してみたのが、全然。そこで、文字を景色として自分に通すということをやってみた。600頁くらいある民事訴訟法の専門書を3時間くらいで流す。頭のいつもは使っていない部分がフル回転した感。

 

僕にとって知識は自分を安心させる何かではなく、移動手段みたいにしているところがある。可動域。最初の知識ってそういうものだったよなと。それが正しいとすることではなく、何はともあれそれを世界にするという収集法。

 

この可動域は継承させるものなのかというのは分からないというか知ったことではない。

 

でも、リベラルアーツの本は、僕がずっと違和感があったことに対して回答をくれる感じはある。正義の中身は公平と均衡だというアリストテレスさん。それだったら分かるわ。個人の中にあるものではない。良かった。

 

あと、「知慮」という概念があって、諸々の現実の機微を捌いていく、当人の中の判断基準とのこと。これも分かる。正解じゃなくて決断よなと。知慮をどうやって磨くのかというと、習慣だというスタンスなのだろうが、個人的には決断を許して見守ってくれる存在が必要だと思う。それは自分であっても良いし、他人であっても良い。

 

快楽と善とかは原始仏典と比べると全然違うのだが、素朴では、原子仏典の伝聞形式がブッダ氏を神話化している感じはする。仏教系の修行、まぁまぁ極論感はあるが。即身仏とか。

 

あと、愛の概念の話もあり、なかなか面白い。愛の対象になるのは、「快適なもの」、「有用なもの」、「善なもの」という分類があるらしい。

 

ここは僕がずっと想ってきた違和感とも一致していて、シンクロニシティではある。なんなら未だに独り身である意味でもある。全2者はあくまで「当人にとって」ってという前置きがある。この愛って、あくまで当人の物語の世界の話であって、相手の物語は加味されてない。まぁだから交換可能性がある訳で市場が回るのは良いのかもしれない。

 

最後の善も良く分からなくて、解釈するなら、人を前2者ではないのに想えて接することができることなのかなと。だったら分かる。僕がどうでも良さに価値を置いているのはこういうこと。快適でも有用でもなく、ただ相手を見ることができる。

 

僕は別に善い人ではない。

 

ナイトキャップ的な存在って、快適寄りなのかな。

 

はい、ここまで。

また明日。

 

おやすみなさい。

 

よい夢を。