個人

 

 

 

夜の間に降った雨は朝には上がっていた。通勤途中の田の水量が増えていることに安心し、濡れた地面に雨を想う。昼休憩時には湿ったベンチの上にビニール袋を敷いてその上に座って食べる。半分の目玉焼きの半分を地面に落としてしまい、回収する前にはとぽっぽが群がり跡形もなくなった。相変わらず花束があり、そろそろドライフラワーになるに違いない。

 

帰り道もぽつぽつとしか降っていない。2回カラスに襲撃された公園を横切りながら今度は迎撃すると殺気を散らす。なんとか大丈夫だった。

 

それにしても、雨。そんなに気遣ってくれなくても。ずぶずぶに濡らしてくれて良いのに。

 

 

さておき。

 

月初めはとても忙しいお仕事。しかしながら、仕事はきちんとこなしながら僕の心は仕事にはなかった。秘密の満足は私信に書くとして、未来がなんとなくカタチになりつつある。

 

巨木はどこにでもあるから行き当たりばったりで良いとして、滋賀の映画館と動物園を調べ、なかなか良さげなルートが構築された。この予定だと仕事の日より早く起きるようになるのだが、その時間に自分がそこに行ける可能性と、誰かをその時間にそこに居させる可能性のどちらが高いかというと圧倒的に前者なのは明らかだからおそらく問題ない。

 

どうでも良いが、○○しなきゃと考える心が言語化する時点で遅いというか、その隙間に怠惰とか二度寝が入り込んでくるんよな。未来の予定を言語化しておくのは準備だが、今からすることに対して言語化するのは無駄な習慣である。特にいやいやする時とか、いやいやの感情だけが募る。

 

動物園枠は、ちゃんとした動物園ではなく何かの牧場っぽいものが見つかった。無料はどうでも良いが、ふれあいゾーンがあるのが良き。牧歌的な動物のエネルギー。動物の触り方で言うと、幼少期に飼っていた猫とか、初めての恋人さん(こら←)とか変に触り過ぎていたように思う。当然に尊重した触り方がある。

 

だいたいここまでが昼過ぎまでに終わる予定で、あとは心赴くままに琵琶湖を眺めながら御神木に向かう。北の端くらいに面白そうなのがある予感。温泉には入れるのか、とか、だいたい何かトラブルが起こるだろうなとか、予定通りにいかないであろうことも楽しみ。予定があまり好きではなかったのは、かっちりしているところだったのかも知れない。未来はもっと緩く捉えていて良い。

 

現実では他に、きゅうりが安かった、浅漬けうめぇの話とか、歩き回りの準備のために日焼け止めを購入したが、帽子を買うのはあまりに似合いそうになく断念した話とか、周りにいる人皆すげぇなの話とかあるが、まぁ良いか。

 

生活において、踊りながら料理を作っているというのは書いているが、「舞踊」という芸術のカテゴリーがもともと身体性と精神性の齟齬を埋めるためにあるとのことからすると、こういう日常の踊りは、体と精神の一致の確認ではある。傍目で眺めて、いかにも重たそうに動いている人って居るし、足音がどたどたしてそうな歩き方とかあると思う。僕はこういう意味でも軽やかに動いていたいような感じ。日常における体の重さって、重力だけではなく、自分で自分の体を上手く動かせないというところにありそうな感じ。細やかな器用さではなく、体を動かせないものは何なのかということ。

 

1例として、先輩男子が、昼ご飯を食べるときに某飲食チェーン店は遠いからコンビニにしたという発言をしていたこと。確かに物理的に遠いとは思うが、この距離って50メートルくらいしかない。本気で。可動的な範囲での距離と、一般的指標としての距離は全然連動してない。僕はご飯に関してはもっとそもそもで並ぶ時間が嫌だから昼ご飯を他者に依存させてないのだが、これはまた別の話。

 

おそらく、移動はしていても体で移動していないと、人は自己の体を意識と同化させるのだろうなという感じ。だから同化を他者とか世界に求める。田舎だったら大丈夫かというとそんなことは全くなく、田舎は車があるから自分で移動しなくて良い。

 

人は贅沢に馴れる動物であるというフレーズは会計学の本で出てきた。債権者として会計情報は細かく開示されると贅沢という文脈だったが、おそらく一般化できる概念。もちろん贅沢とか省エネを求めるという習性によってこんなに便利な社会になっている訳で、それ自体はきっと良いことではある。でも、自分の体とちゃんと対話しないで、一般的な健康法とか運動とか食事とかやるのはなにか空虚な感じがしないでもない。

 

まぁ内外体に酷使させている僕が言うことでもないが、少なくともストレスフリーではある。今のところ体調不良になる気がしない。

 

 

 

閑話休題

 

記憶の発掘。「夏への扉」の映画を見る前に原作読み返そうとか思ってみたのだが、これから読んでも間に合わないから断片だけ再生させておく。この話でいうタイムマシンはコールドスリープで時間を飛び越える話だったはず。猫が重要な登場キャラだったが、どういう意味で重要だったのだっけ。妹も出てきたか。言語化できる水準まで持ってこられる断片はほとんどなかった。断念。

 

やはりもう一回今の状態で読まないといけないな。

 

さて。

 

書けることはいっぱいあるのだが、何にしよう。

 

そういえば、スピリチュアルというか高次元世界のところの人がマイミク申請してくれたのだった。僕は割とこういう水準の言葉、嫌いではないのだが、その声を聞いた当人はどう解釈しているのかが見えないから、あんまり個人とできないんだよな。

 

これを想像してみたとき、たしかに高次元からメッセージを受けて発信する機関でしかないということはありうる。ただ、それを聞いた当人も写経しているうちに何か思うところができるはず。そういうのがないと個人としての興味が芽生えない。

 

クラシックコーチングという本を見つけて、ざっと目次を流したとき(目次を流すって情報本においてかなり大事なこと)、「事実は1つだが、解釈は無限」という項目があり、あぁ普通にやっているとなり読まなかった。こんな感じ。

 

原始仏典でもこういう意味で気になる叙述があった。自己として生きるのだ、はまだ良い。ただ、この自己が、人としての理に適ったルール(理法という)に従うことになっていることに対して疑問符。この人としての理って全然普遍でも不変なことでもない。

 

何の機械もない時代のブッダさんに苦言を呈しても仕方ないが、そもそも人とは何ぞやの定義が揺らいでいるのが現在なもので。「AIは人を憎まない」の人と同等な人工知能とは何かという定義論はとても面白き。チェスで人に勝てるとかではなく、壁を挟んだところで2人と会話してどちかがAIだとして、人がどちらも人だと認識できる水準の受け答えができた場合、人とはなんぞやみたいな。

 

「もの」は今僕が読んでいる本の中でもっとも高度で、ほとんど分からない。哲学記号が多用されているし、単語の定義も全然わからん。ただ、存在の本質は言葉の定義ではなく、「そのものがなんであるか」を顕せるかどうか、これはそもそも言語に馴染むのかみたいな試みは僕も想っていることだから共鳴はできる。

 

芸術学でも、芸術はそもそも定義されうる概念なのかということを書いていて、こ著者さんは諦めたらしい。まぁ言葉で決められるものなぞ、そんなにないのは確か。この学問における研究領域を定義しないことにするというのは、社会科学ではまぁまぁ普通のことだと思う。法学の分化の定義もかなりざっくりしていて、その定義を知ったことでその領域が把握できるものではない。むしろ中身を知ったあとであえて言葉で分けるのであればという感じ。

 

あと、取りとめない話としては、もろもろのコンテンツのコメント欄で書くという快感みたいなところ。漫画アプリって今やほとんど読者のコメント欄がある。僕はコメントを入れたことがないのだが、これって、コンテンツとユーザーの距離が近くなるのが良いのだろうな。ユーザーは自分の感想がコンテンツに影響を与えると思えるし。これがほんとうに相互なのかはともかく。

 

僕は色んな人が居るなぁと読む。その場で書ける文体を持ち合わせてない。

 

SNSでは、個人がコンテンツだし、コンテンツによってはコメントが励みになるということもあるのも分かるが、なんか個人的には変な相互性だと思う。愛はあんまりなさそう。

 

言葉には愛は込められないというか、言葉は所詮言葉でしかないというか。

 

僕の日記がちゃんと生活として読めるのであれば、ちゃんとそれをやっているからであって、言葉だけの空中戦をやっていないからだと思う。

 

人の言葉があんまり信用ならないのはこういうところで、自分の言葉をどういう風に用いているかってあんまり自覚されてない。僕は別に当人の語彙も楽しむから良いが、当人の語彙が一般化できるものだとしている人は、無言。

 

だから、むしろ言語外の所作に当人を感じる。

 

という意味不明な感じでおしまい。

 

良い夢を。

 

おやすみなさい。