直感

 

 

 

引き続き内側が無口な日。これは本当に内向きなのだろうか。雑音なくニュートラルに世界を捉えることは外向きの極致ともいえる。人間の精神を自然と同じように見るのであれば、何事もなくても揺れ動くのは摂理。なるほど、他の人もそういう感じであって、別に確固とした人格ではないのか、と、また1つ緩くなる。人の人格だとみなしている部分は中央値でしかないのかもしれない、いや、最頻値か。

 

仕事。先輩男子が今週まるまる体調の不良ではなく精神の不調で休んだ。精神的に不安定な人な感じはしていた。どうしたことかと思わず女性上司に聞いてしまった。いつも仲良さげに雑談していたこの人もよくわからないらしく、普通だったよね。と聞かれて、見た感じはいつも通りでしたねと答える。硯君が言うならそうなのだろうって言われてぎょっとなった。いや、僕は眺めているだけだし、見解を発話したこともないような。

 

外向きで安定を得る人にとっては辛い時代なのかもなと思うが、ニュートラルであることに向き合う時代なのかもしれない。僕は水を得た魚みたいになっている。人は物体とか物理とかとは別にも生きているのがよく見える時代。何が大事かを空気ではなく自分で決められる。

 

 

そういえば、昨日は宵顔さんへの私信を書いている途中に消した。送りたくないとかそういう感じではないが、なんとなく。あえて言語化してみるなら、これ以上ここで書いても堂々巡りにしかならないなと。

 

昼休みには漫画の舌ではなかったため、kindle本を1冊賞味。「直感を磨く」というビジネスコンサルタントの人が書いた本。なかなかのうま味。直感とは無意識からの未来予告だというのはとても分かる。だから、無意識に開いていないと直観は働かず、無意識を開くためには、自分が構築してきた無意識に問いかけをしないといけないとか。

 

人はまず相手を視覚情報の直感で判断する。だから身だしなみはある程度きちんとしていた方が良い。これも分かるが、なんとなく直感としては浅いところ。第一印象はだいたい当たると言うが、かなり顕在意識=経験則寄りだと思う。要は身ぎれいにしていたり所作が整っている人に対して、自分もそういう風に扱ってくれるという予測値。

 

例えば、僕も人のこと言えないが先生のYシャツは結構よれよれ。でも、信用できるし人の発言も大事に聞く人。見た目からは読めない。

 

人に対する直感は、働いたとしてもタイミングとか諸々があるからなんとも言えない。結婚するかどうか迷ったときは、最初にその人を見てどう感じたかを振り返るのも分かるし、広い意味で運命の人の言説も分かる。ただ、自分に影響を与える人を運命の人だと捉えるのであれば、自分の人生で会った人会う人全部運命の人なのでは。影響が全くない人って居るのか。無意識の深層レベルで言えば、波長で自分は動くし。

 

集合的無意識シンクロニシティみたいなことも書かれていた。集合的無意識は人類の英知と繋がっているから、最適解を出してくれるし、必要な時に必要な事象が起こるとか。

 

これが何故起こるかを考えると、魂みたいな話になる。DNAみたいな生物学的連鎖ではなく、精神的連鎖で、人の精神は五官で感知できない何かを感得できる能力があるということ。無意識は脳の作用の一種だが、おそらく脳のもともとの機能では想定されていなかったもの。

 

別に宗教的な話ではない。もっと現実的な現象。ここで、人間だけが集団行動ができるという「考える身体」。チンパンジーとかゴリラでも群れることはできるが、スタジアムに何万人も収容して観戦するということはできない。ルールが決まっていてそれを理解できるからでは済まされない、他人と同化できる能力が示唆されている。識字とかもそうよな。

 

自我の起こりもこういう集団的無意識からだとすれば、あってないようなとても曖昧なものでしかない。

 

「直感を磨く」で、直感と衝動は違うという話があった。直感は無意識からくる引っ掛かりでだいたい行動すればオーケーだが、衝動はエゴの感情からきていて、他人をないがしろにするようなことに従うと自分に返ってくるのだとか。分かるようで分からないぼやっとした見解。まぁ、顕在意識で思考して出す答えよりも直感の方が正しいのは分かる。感情なり衝動も肉体に根差した波長の揺らぎでしかないとすれば確かに。

 

抽象的になっているから、具体的な話にしてみる。

いや、あんまり書きたくないらしい。拒否するの面白いな。それほど独り占めしたいのか、したいのだろうな。

 

ここはスルーして。

 

僕にとっての直感は、無意識を顕在かしようとしてきたことにより、目に留まるという日常的なもの。「何もしない」は立ち読みしたところ縁がなかった。一般的な啓発本はもはや読んでも仕方がなさそう。

 

直観はニュートラルであるときにしか働かないとのことだが、今日が人生上一番ニュートラルだと思う。

 

明日というか今日だが、起きた後に何処かには行く。仕事中に地図を眺めていて、比叡山高野山、古墳、とは別に、京都の丸善にも直感が振れていて大変。直感上はどこに行っても楽しいから、改めて主観で決断しろよと提示されている。選び放題遊び放題。

 

 

最後。

 

発話ではない「書かれた文」って、基本的に人にとって不自然なのだろうな。発話の代用品として遣われている感。文字でも表現できるのだが、本当は発話で表現したい、みたいな。

 

自分の文章を発話の代用品として扱っていないということがやっと分かった。

僕の日記で書かれていることは発話化できない。こういう文でしか表現できないところでまだ掘り下げたいのだろうな。

 

僕が好きな文体もそういうことなのかもしれない。

 

はいおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

内向き

 

 

 

定期的にやってくる精神的引きこもり期。外から見れば全く変わらないが、日記に書く言葉が出てこなくなる。これはよろしくないことはなく、内を顧みて言語外でぼやぼやしているだけだから問題はない。

 

問題があるとすれば取り留めなさ過ぎて、言語でスケッチできないところ。笑

この時期の方が頭は回っている気がする。回っているというより、なんだろう、世界を読むことに没頭している、言語が当てられない。

 

外界の言語情報って、いったん非言語のイメージに転換されるのだろうな、というのを思い出してきている。夏目さんの「硝子戸の中」。1回全部読んだのだな。後ろに古書店の03から始まる番号付いていた。東京に1人で行ったときに寄った古書店街の収集品。SFが豊富だったような。御苑は閉園日で行けなかった。

 

今日読んだエピソードは、或る女性が訪ねてきて、「自分が片付かない」と宣う。聞いてみると、心が一直線で入ってくる外界の中心が分からないとかなんとか。夏目さんは心が一直線は比喩だろう、比喩でないなら取り出して見せてくれとたしなめる。女性曰く、夏目さんは内臓まで整っている人だと思うと述べる。いや、だったらこんなに病気はしてない、その分貴方の方が偉いと応答。

 

このやりとり、なんだか好きだ。

 

 

時間。仕事が一瞬で終わる。忙しくて時間の流れを忘れたとかではなく、時間をカウントしなければ、始まりも終わりもないただの生活になるという感じ。退屈でもないし、好奇心をそこそこに働かせつつ、ただ生きているだけ。この感覚大丈夫なのかという危惧はなくもないが、時計を気にすることは生きるにつけ不純物ではあると思う。

 

観るためにインスタのアプリを取ったらお勧めに中学の委員長だった人と大学のゼミで一緒だった人が居た。あと中学の時に好きだった人も。委員長だった人は髭を生やして相応に年を経ていた。僕の顔も同じくらい老けているのかなと今更ながら思う。ゼミの人は筋トレにハマっている模様。筋トレって目に見える成果。僕は一見したところでは見えない所での試行が好きだから採用しないが。中学の時好きだった人はあまり経年を感じない。つるつるしているように見えた。

 

なんだか、時間の流れって主観的なものなのだなと想う。物体や他の生物にとっては世界の動き=時間だが、人間だけが時間を意識で捉えることができる。精神まで時計に合わすことはない。そもそも歳で人を見るというのは、時間で仕事を測ると同じように分かり易いという意味合いくらいしかないのでは。人同士できちんと見る視点ではない。

 

こうやって、あんまり一般のものさしに合わない取り留めない思考が断片的に言語化されるのが引きこもり期。気にしている土台が全然違うから、素朴を出すと中庸とか仙人とか言われる。

 

「むずかしい天皇制」読了。次は「何もしない」という装丁に全く力が入ってない本が気になっている。気になるということは買うのだろうな。

 

天皇制は結構日本の中で触れてはいけないタブーの空気があるが、素朴に考えると確かにおかしな制度ではある。全然合理的ではないし、なんなら、皇族の個人としての人権を認めないとか、これによって国民個人の尊厳がぼやかされているという主張も分からなくもない。人間なのにスケープゴートにしている。色々政治的な思惑はあるのだろうし、僕はここに対して無色だが、いまどき職業選択の自由表現の自由もない人が居るのは矛盾しているよな。これを想わないということは、不自由性が空気として浸透しているということ。

 

子供の頃に、世界は完結していると感じた。ここで生きるしかないのだって。20代はそこで過ごして、やっと今、世界は全然完璧じゃなくて主観的に構築していくしかないとなった。

 

これは別に知識に依拠しない感情とか主観的なところで生きるとは違う。本日、自分は全然知識に依拠したものさしを構築してないなと思ったのだが、知識を踏まえた上でのものであって、知識がないところに土台が違う経験則を持ってくることではない。

 

ほんとのところ、書いていない領域の方に整合性がある。

でもこれは僕の中での整合性であって、特に現象として現われるものでもない。

 

無理くり言語化しようとしても、文字に還元されないのだよな。

 

僕は学者脳ではないから、体系的に自分の中にあるものを整理できている訳ではないし、アーティストでもないから表現を、自己を現象化する手段にもできない。

 

人にとって言葉というか文って手段なのだろうなと思うのだが、僕にとっては目的にしかならない。だから、その先に自分に評価が返ってくることが不純な感じがする。賢いと思われたいから書いている訳でもないし、素朴な僕はもっとカオスだし。

 

覚えなくて良いのではなく、覚えているというポーズを取らなくても良いという感じなのか。覚えているでしょうって聞かれたら覚えてないですって閉じる天邪鬼。

 

ここまでかな。

 

ちょっとここままで続けてみたいので制限はかけない。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い塩梅でありますように。

 

 

回避と進歩

 

 

気になるはいい。気にするはいけない。

 

 

 

閲覧数が少ないとしめしめと感じるのは何故だろうな。おそらく密度で、読まれる可能性としては開いているのに3人(回)しか読まれてないのが楽しい。

 

 

さておき。

 

「環境と自信を調えて提示していただかないと応えようがありません」。次の応募をお待ちしておりますと続きそうな返信があった夢を見た。これは返信の体を取った自身に向けた言葉と思う。たしかに。

 

通勤路の田んぼ。黄金色の稲穂が垂れる秋という風情だが、いい加減垂れすぎ。今週末までには刈られるだろうな。通勤の時間帯。1つのシフト(平日5日)でおそらくほぼ5分以内の誤差で収まっている出発時間。でも1分ずれると信号のタイミングが変わるから、進むルートも当然ずれる。ある瞬間にある場所に居るかどうかによるというのは人生そのものみたいだ。今のところこのルートは誰かと合う(逢う?)ものではない模様だが、それはそれですっきりする。

 

開いたなって思ったのが、お弁当を食べる時間。15時のただの昼下がりなのに、世界ってこんなに美しくて良いのかと感じる。視覚情報だけではなく、聴覚情報も稼働している感じ。風で地面に落ちた葉の動き、池の水の流れ、人が発する声。ここに注意を傾けることを咎める人は誰も居ない。となったら、ぶわっと過去の情報もセット再現される。人には「いま」もないかもしれないと感じる変な充足感。というか、生きやすさ?

 

仕事は、なんだか自分から雑談の話題を転換するとか発することに壁がなくなった感。これもよくわからないが、当然世界観が変わった影響があるのだろうな。先生の飲み物はずっとお茶だったのだが水に変わっていて、どうしたのだろうと話題を振ってみた。特に中身はないのだが、先生は改めて凄い。これほど自分のことをモニタリングしていてそれを聞きやすい情報として話せる人ってちょっと経験がない。これは感情が人格の1要素でしかないという俯瞰の目があるからなのだろうなという観測。意見と事実を分けて語るビジネスマンの鏡。いや、ビジネスマンという感じではないか、研究脳の人。初めて会った性質かも。楽しい。

 

 

そうして冒頭へ。

 

「考えること」は良いが「気にする」のはいけないなという思考が発端。これは宵顔さんについて、考えたり頭の片隅に存在を置いたりすることはとても心地良いが、気にしだすと途端に変なこと(不安感・罪悪感)になるのは何故なんだろうなと。

 

そこで、まず「気にする」という概念の性質を分析することにした。そもそも人はどういったことを気にするかのか。相手を傷つけてしまったかもしれない、ガスの元栓を閉め忘れたかもしれない、地震が起こるかもしれない、株に失敗するかもしれない、フラれるかもしれない、パートナーに事故があったのかもしれない、エトセトラ。

 

本能と経験に基づく危機回避の脳の回路。良いことが起こるかもしれないということに「気にする」という言葉は遣えないはず。もちろんこのシステムは生き残るために不可欠なものだった。危機に対して無頓着な生物はすぐに絶滅するに違いない。ただ、現代社会においてあえて意識的に意識するようなものなのかとなると、微妙なところ。読んだことはないが、「心配事の9割は起らない」という、流行った(?)本があるし。

 

危機の可能性という意味では、「AIは人を憎まない」にもいっぱい書かれている。隕石が落ちてきて人類が滅亡する、ウイルスのパンデミック(いまここ)、AIが人類の知能を越えて人類を滅ぼす、などなど。

 

たしかに、想定というか心構えのようなものは要ると思うが、かといってそれによって「いま」の心を左右させる必要は全くない。こういう可能性を思考というか試行すること自体に考え過ぎとか気にし過ぎという評価はありうるが、考えないことがイコール気にしないこととも限らない。

 

で、帰り道辺りで、だったら「気になる」はなんなのだとなった。当時は「気にする」は対象が悪い意味で既定だが、「気になる」は対象がなんであるかは決めてないのに志向してしまうことなのだろうなと考えた。今ここまで書いてきて思いついたのは、「気にする」が危機回避のシステムであるということと対比して、「気になる」は進歩のシステムだなというところ。

 

気にするものは回避したがるが、気になるものは採り入れうると考えるとしっくりすっきり。

 

でも、こんなの僕の中の整合性でしかないから、気にすることができる存在が大事なのだという価値観も当然ありうる。例えば、宵顔さんと飲む場があったとしたら、駅までエスコートした後、ちゃんと帰れたかを気にしてしまうだろうし。いや、これは気になるでも同じような語感はあるな。気になると気にするが両立できる存在こそ至高。(はて

 

 

気になること。

 

踊りが気になっているのは、人の動きを手段とした芸術をしっかり見てみたい感があるから。夜に生きていたとき、ニコニコ動画の「踊ってみた」を見漁っていた時期がある。人の体ってこんなに綺麗に動かせるのかという憧憬。僕は踊る代わりに言葉で動くことにしているのだが、そろそろその為だけに生きている人の動きも観る時期かもなと。バレエとか能とかになるのだろうか。

 

あと、自然分野では古墳も気になっている。電車圏内に世界遺産になったかなんだかのがあるため。歴史の構造物は人類としての人の動きだからと無理やり繋げてみる。万里の長城には特に魅力を感じないが、世界のどこにでも行けるのであれば、ギリシャに行きたい。あと、モヘンジョダロも見てみたいかも。

 

なんなら自分のことも気になる。観測して習得した人観と全然違うみたいだし、まだ何かありそうな感じがあるし。なんでも現実化できるとかではなく、どうしてここまで来たのかというところ。先生との雑談で、失敗を可視化の云々があったが、僕が資格試験に落ちてきたのは、本当には受かりたくなかったからなのだろうなと思った。負け惜しみみたいになりそうだが、それよりも得るものはあったから個人的には問題ない。

 

学術分野の本が読めるようになったのはこの一見無為な時間の蓄積による。

法学はさっぱり納得できない分野だったが、やっとこさ理解できるようになってきた。人の全部のルールではないし、素朴とも離れているが、なんとか合理性を追求している学問。

 

僕はおべんきょはできないのが分かった。

世界は〇×ではできてないし。

 

最後。

 

気になる人ってなかなか稀有な存在。僕は誰かにとって気になる存在なのかということはとても気になるところ。気になるって、自分を進歩させる存在。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い睡眠時間を。

 

言い訳

 

 

 

青空文庫で既読にした「白雪姫」。まいにちまいにち読みかけですってポップアップしてくる。これ以上読めるところないはずなのにな。

 

 

1日、無性に楽しかった。現実としては変哲もなくあくまで内心領域。世界に対する注意が幼少期レベル。お弁当を食べ終わって公園の木を眺めたら目に入ってきたのが上の方に残っているセミの抜け殻という。昨日で言えばイモリの子供が可愛らしくて思わず手を触れそうになった。

 

仕事も楽しい。楽しいというか、自分のやり方で良いのだなという感じか。資料の整理がマジでできないやつで、空いた時間にせっせと資料を整理したりメモを取ったりしている同僚を横目にぼーっとしている(ように見えるに違いない)。しかも頭の中でも考えないようにしている。でも、情報の位置を決めていない方が問題に対面したときにうまく引っ張り出せる。中学生くらいのときのやり方に戻っているが、体感の蓄積量が違うからおそらく精度が比較的に上がっている。覚えようとすることはやめた。

 

あと、休憩から戻ってきたときだったか、同期が座標を合わせて話しかけてきて何ぞやと思ったら、同期のうっかりでちょっと仕事の手数が増えたことの陳謝だった。おそらくそうだろうと思っていたが、特に何も思っていなかった。ただ、近い。そして肘あたりに微かに触れてくる。ドキッとはしなかった。そういうとこあるよなというだけ。意識してやっていることではないのだろうが、おっさんやぞ、と。(なんだ

そういうところあるよなというのは、無防備な女の子的な振る舞いがあること。僕より生物的には年上だが、あんまりそういうのは問題ではない。

 

今の座席だと全く見えないところに座っているから目に付くことはない。

 

あと、先生。子供の頃のトラウマを語ってくれた。といっても、何か苛烈な経験ということではなく、社会に対する疑問みたいな部分。オトナは失敗に対して言い訳するなって頭ごなしだが、言い訳(行動の理由)を考えないと失敗が可視化されないだろうとずっと腑に落ちなかったとか。そのせいで、成績優秀なのに教師から厄介者認定されていたとか。

 

これって確かに日本人の中にある根深い精神性だと思う。理由とか判断過程を呈示して良いという土壌がない。「難しい天皇制」でいうところの空気はそれを言語化すること自体がタブーだというのとも繋がる。素朴なところだと、子供から何故駄目なのかと問われて、駄目なものは駄目としか言えないとか。言えないのは理由を考えたことがないからなんだよな、たぶん。

 

失敗に焦点を絞ると、刑法の思想とも似ている。応報刑(目には目を歯には歯を)的な思想だと、失敗(=結果)が悪い、つまり失敗した人が悪いからその個人に非難を浴びせることが全てになる。失敗は社会的にコストだから、その失敗を次にはしないようにすることが善だという「一般予防」の思想になると、問題になるのは失敗自体ではなく、失敗に至る過程、何故失敗が起こったのか。これを可視化してミスを減らしていくことが結果的に利益になる。

 

書いてみればどっちが有用かって明らかだが、「何故それをしたのか」って聞かれるだけで責められている感じがしてしまう人が多いのが現代社会。

 

言い訳するな、お前が悪いのだという思想は武士道ちっく。切腹かよ。

なんにせよ、合理的人間観ではない。

 

あぁ、先生のトラウマ告白に対して僕は「オトナって話聞いてくれないですもんね」って応えた。子供(下)に対して凄いとなるのは立場上許されないかもな。ここで想い出すのが、20代の頃に中学の同窓会で厳しかった国語の先生が、僕が院に行っていることを話したら、「○○君ってそんなに賢かったんだ」って言ったこと。何故覚えているのかを言語化しようとすると不思議な感じ。厳しかったが結構好きだったのだよな。なのに、そんな感じでしか捉えられてなかったのか、なのか?

 

現実と非現実の境界があいまいになってきているが、別になんでもして良いとかではなく、あいまいで良いのだというすることによってより現実(とされているもの)が鮮明になっている。もともとあいまいに捉えた最初の世界構築の過程は、一瞬世界を固定化させたが、その固定は共同幻想でしかないという経過を経て、やっぱり曖昧で良いんじゃんとなっている現在。

 

ちょっと危ういのが、宵顔さんと手を繋いだことがないのに、起き抜けに一瞬繋いだことあったっけとなったところ。だからと言って妄想を現実だとはしないから問題ない。そんな現実があったとしたら、ちゃんと手を繋ぎたいですと申す。

 

さておき。

 

何かの成分が不足している感。自然も良いし、芸術も良い。ほんとに不足している成分は情報更新なのかもしれないが、相手が人となると僕の都合だけでは起こらない。問題ない。

 

自然は定期的なことだが、今回は、動きのある芸術を欲している感じもある。舞踊、ダンス、歌舞伎、なんでも良いが、そういう芸術を観劇したい。何処に行ったらそういうものが観えるのかもわからないのだよな。無知。

 

なんでこれを見たいのかというと、抑制された体の動きは呼吸であって、文体と等しいという記述を見たから。意識を張り巡らせた体の動きをこの水準で鑑賞したらまた世界が変わるだろうなという必要性。

 

舞踊は生と死の境界を表現するものだというのも気になる。

 

てっとり早いのは、宵顔さんに聞く。現代の体を動かす芸術を撮影している人だから。

でも、私信で聞いても答えてくれる未来が想像できない。場が一致したら、劇場の出演者の動きより宵顔さんの動きの方が気になってしまうに違いない。

 

やれやれ。

 

僕が毎日楽しいのは、こういう「気になる」を閉じなくても良いとしたから。

気になっている対象にしかエネルギーは注げないし、開いた自分がどこまでなのかということも気になる。この気になるは、気にせざるを得ないとか、気にすべきみたいなことではない。自分でなくても気にすることができることは考えても仕方がないこと。

 

気になるの俎上に上がったものしか言語として思考できないという縛りだとすると、法律学言語化されてきたのも面白い。

 

こういう思考方法は、現実的な人の捉え方の鮮明化にも通じる。

 

まぁ良いや。

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

あいまいに遊ぶ

 

 

現実と非現実の境界はひどくあいまいだ。生と死とおなじように。

 

 

大雨で川が増水している夢。特に何か事件が起こるということでもなかった。夢は境界領域のもの。最近出自が分からない像が多くなってきている。

 

昨日書き逃した情報の話。WEB開設の記事を読み漁ったことと書籍のそれの違いについて考えていた。信ぴょう性において書籍の方に軍配が上がるのは、もちろん値段がついていること。副次的には出版社を通った情報だということがありそうだがここは本筋から外れる。

 

無料の情報も現代人は参照できる。そしてそれほど信ぴょう性も気にしていないと思われる。閲覧者が対価を支払うという直接的な収益はないにしろ、執筆者には何かしらの利益があるからだろうなということを考えると、無料で情報を得ることができるとしてもその中で紹介されていることに閲覧者の1%でも対価を支払って商品・サービスを取得すれば収益としては十分なのだろうな。あぁこれってテレビのCMがインターネットに移動しただけだって。

 

自分で情報を探していると思い込んでいるが、トップに上がってくるのは広告度が高い情報なのかも。なので、僕は5~10記事くらいは見る。だいたいこれくらい見れば相場観が分かるかなと。

 

もちろん、商品・サービスとは無関係の思想・価値観のような情報もたくさんある。こちらの方が思想の自由市場感があって良き。たとえば、いや、病んではないが、「〇にたい」と検索すると、トップに相談用の電話番号が出てくるとか。まぁ、僕はここで色々検索するよりは、哲学書を買って読みたい派。社会儀礼やビジネスマナーは調べることはある。履歴書の志望動機とか。

 

要は、どんな情報も特に客観的に参照できるようなものではないなという話。主観の束だから主観で選ぶしかない。

 

さておき。

 

仕事。今週は先生と2人で遅番。時々他の人に話さないような話題を振ってくるのはなんなのだろうな。仕事を時間で測るのは簡単だからとか、〇ぬのは諸々の手続が面倒そうだから長生きしたいとか。まるっと聞くし理解できるからだろうか。変なのだが、この人との雑談は楽しい。特に発話をたくさんしている訳でも相談している訳でもないが、何を言っても否定が返ってこない。当人打っているのだが、打ってない僕に対して特に何もないし。上司に恵まれている。

 

そうして、本題。

 

刑法上、意思決定は仮設であるという概念を掘り下げる。素朴な人にとって意思決定は現実なのかって問うたら、おそらく是と答えられそう。ただ、僕は仮設だとしても、それで現実が回るのであればそれで良いと思った。

 

刑法上に仮に設定された意思決定は、基本的は故意のことになる。で、これは内心はどうあれ、人を包丁で深く刺せば人が〇ぬ危険性があるという認識に係っていて、これを「認識していたどうか」については証拠によって認定できる。要は内心という検証不可能なブラックボックスを「現実的に結果を認識しうるか」という仮の設定で客観的に検証可能な領域に引っ張りだしたということ。この設定によって、漠然とした「悪さ」という霧のような道徳から、人を害する行為をしてはいけないという行動(現実)的なルールにすることができた。

 

こういう意味で見れば意思決定は現実の領域の存在ではないのだが、何か問題があるのかな。という感じ。意思決定は現実にあると言ったところで、中身はそんなに変わらない。この認識があればこうした、こうするみたいな経験の束だが、素朴には認識だけで決定が起こっている訳ではない。こんなの、起こったことは決定したかどうかに関わらないとしか言えない。

 

科学的な現実感も、仮説によって現実を説明できるのかという理論の中で一番現実が無理なく説明できるものが選ばれているだけだから、真に現実なのかとなると微妙なところ。宇宙の現実を説明するひも理論の11次元って意味分からない。

 

なにはともあれ生きていることが現実だと言ったとしても、生きるという観念が概念によって形成されているから、ままならない。絶命すれば現実がなくなるのは確かだとして、どう在れば生きていると言えるのかとなると、生物としての体が生命活動を維持しているだけでは生きているとはならない。

 

なんだか唐突に昔見ていたテレビを思い出した。「笑う犬(の冒険だっけ?)」の中にあった、「生きているってなんだろ、生きているってなーに」っていうコント。ミル姉さん、葉っぱ隊、年代が知れる。笑

 

体験が現実として疑いなく受け入れられる理由についての考察。情報の価値とも似ているが、体験は体が記録したものだから、それが起こったかどうかには解釈の余地がなく、体に刻印される。振り返るときも起こったかどうかではなく、それが何だったのかになる。

 

分かる。体に染みついた記録は、意識するまでもなくあったことだし、誰かに証拠として提示できる。ただ、過去は現実なのかという角度で見たとき、過去を再現できるのはいま在るものではないし、都合良く改ざんすることもできる訳で。

 

もっと言うと、無意識が現実と非現実を分けるのは、危険性とか反復だけなのでは。とすると、幽霊を見られる人にとってそれは現実だが他の多数にとっては非現実になるとか、同じ現実を誰か見たときに自分は相手と違うものを見たことが相手に伝わらなかったとき、相手にとってそれは現実なのかとか。たぶん相手は現実としてくれないか、貴方にとっては現実なのでしょうね、で済ます。

 

幽霊にしてみたが、これは感情とか体調でも同じ。申告されないと分からないし申告したとて体感はできないことは現実に昇格できるのか。体感ないし自分が見えるものしか現実にできないのであれば、それはないものに等しい。もちろん自分のこれは現実でしかなかろうが。

 

こう考えていくと、人は現実を客観的に観測できる実体として捉えているが、どこまでいっても主観的な現実感でしかないよなという分析。

 

もちろん仮設は問題ないが。

 

人のことが分かっていると言う人より、分からないと思える人の方が好感を持てる。

分からないって、人のことを自分の外にある現実として見ている。

 

僕が想う、現実と非現実の境界があいまいだというのはこういうこと。

スピリチュアルでも宗教でもない、ただ今ある情報を突き詰めただけ。

 

遊びすぎだわ。

(もっと遊ぶつもりだが)

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

本体

 

 

前の日記に書いた宇宙の条件に照らすと文も宇宙の創造に似ている。

全部同じようなもの。

 

 

穏やかな晴天。早朝に150円だけ持って自販機にカルピスを買いに行く。100円玉が落ちてどこに行ったか分からなくなり断念。この自販機には1100円吸われている。しょうがないかと帰りながらアサガオ氏にご挨拶。心なしか減ってきているかも。牛乳を飲んで二度寝した。

 

朝ごはんは予告通り、小松菜の雑炊。豆苗が残っていたから入れてみて最後に溶き卵を加える。味付けは昆布茶、かつおだし、生姜チューブ、ちょっとだけ醤油。上出来(撮るの忘れた)。昼は冷凍していた豚ロースと玉ねぎ、ピーマンの豚丼。やはりどれも時間はほとんどかからない。かかるのはエネルギーだが、カロリーというよりは意志であり、ここもあまり消費しなくなっている。

 

夜は残っていたごぼうを消費。買ってきたちくわと乾燥エビを加え七味唐辛子、醤油、砂糖、ごま油。料理酒がなかったためビールで代用するキッチンドランカー。いや、料理中は飲んでいないが。メインは塩コショウポッカレモンで下味つけて小麦粉をまぶした鶏むね肉と玉ねぎとピーマン、万願寺唐辛子のポン酢ケチャップ炒め。特に言うところはない。

 

 

ちょっと落ち着こうと思い、かいせつ作業は小休止。本買ってひと通り何ができるか読んでからにしようと。自分の場だからじっくり整えるつもり。今月中に始められればそれで良いかな。

 

テニス漫画を大人買い。スポーツ選手のメンタルの整え方と、人生上のメンタルの整え方はなんだか似ている。「人は期待したいしされたい」とか。たしかに現実=結果主義で考えれば、期待したことが現実化される、期待されたことを現実化することを目的に設定するというのはとても分かりやすい。スポーツ選手はこれが完全に可視化された仕事といえるし、日常的な感覚とも近そう。

 

僕はこんなのごめん被るのだが、この漫画はとても好き。なんでごめん被るかというと、僕は自他において結果だけを見ている訳ではないから、世界に対して明確に期待できないし、明確に期待されるとむしろエネルギーがしぼむ。これって駄目人間と紙一重のメンタルで、実際わりとポンコツ。自分の現実化に対してだったら期待する前に動くという意味ではまぁまぁフットワークが軽いが、別に明確な目標をもって動いている訳でもなく。

 

そういえば、kindleの集中力の本を通した。集中力には4種類あって、一般的に言われている集中力は「入門集中」だと書かれている。なかなか良きネーミング。

 

4種というのは、内・外×狭く・広くの掛け合わせ。外に狭いのが一般的な入門集中で、外に広く集中した状態が俯瞰集中だったかな、内側に対するネーミングは残っていないが、対話モード(狭)とアイデアが生まれるモード(広)だったかな。

 

個人的に集中と呼ばれる状態があるのは当然知っているが、個人的にあまり使いたくない言葉だったのが何故か分かった。一般語用では集中の全部をカバーしていなかったから。ただ、集中という言葉だけでしか捉えられない状態なのかというと少し疑問。

 

これを踏まえて自己分析。

 

外に狭くという集中力は乏しかった。落ち着きがないってずっと言われてきたし、机に長時間居るというのもなかなかできなかった。院試のときは毎日図書館で12時間くらいはインプットしていたからできなくはなくなった。

 

ただ、この外に狭くという集中って、残らないのだよな。外を外しか捉えないから、無意識の方にはある程度記録されるとしても、意識化できるところにはならない。できるようにするためには、内側に向いた集中とセットに稼働しないといけない。でも内側への集中って狭かろうが広かろうが無軌道だから、下手すると不真面目になる。外の対象と離れて推論とか抽象的な共通項を探すのだから、別のことを考えていると思われるという意味。

 

そうして、外に広くの俯瞰集中は、もともと人間に備わっている外界に対する注意という本能の機能とのこと。これの為には自然に身を置くのが良いとか。とっくにやっていた。笑

 

外に狭くの集中で何か新しいことに気付くことは難しい。

 

もう少し細かくする。

脳内ホルモンによって変わってくるらしい。ノルアドレナリンドーパミンとエンドルフィン、は違ったか。要は緊張による集中と安心による集中は違うということ。外に狭くへの集中は主に緊張から生じる。個人的には自然の危険に触れることは外への広い注意もセットだと思うが。

 

内側への集中は心理的安全が必須というのは分かる。僕は中学くらいまでは内側にも集中できていたと思うが、高校以降は机に座っている時間=勉強みたいなことになり、外への集中しか許されなくなった感。

 

昔語りはどうでも良いが、進行形で頭の中がすっきりしたのは、この心理的安全が確立してきたからだと思った。ネガティブバイアス的な言葉もほとんど出てこない。内側に意識を向けると、余計なことばかり考えて堂々巡りすると書かれていた。堂々巡りも良いことらしい。まだ内側に浸透していないから堂々巡りするのだとのこと。たしかにバイアスでないネガティブな堂々巡りはあるな。情報が更新されない限りは仕方ないか。

 

とりあえず、集中ではないとされていた状態が集中の一種だということが知れて良かった。

僕は常にやんわり外に広く集中している。ただ、これって意識をどこまで張り巡らせているかの方が適切な言葉な気もする。

 

集中と呼ばれているものはおそらく対象をどこまで注意しているか、ひいては意識できているかであって、意識できるためには、意識の起こりを見ようとしないといけない。ここは言語ではない、感じ。この感じを意識できれば人が言葉で考えていないということが分かる。

 

これは刑法だが、人の意思決定は仮説でしかないというのも似ている。社会的ルール上、人を傷つけてはいけないのだから、そういう行動を決定する前にルールを意識して行動すべきなのにそれをせずに行動したという社会的に期待されてないことをしたことを意思決定とする。

 

行動経済学の意思決定もこの筋から見ると仮説っぽくなる。

 

こういうのが内に広くの集中。

全然関係ないことを自分なりに繋げても咎められないという安全が前提。

 

人に話すとなると、若干ぞっとする。今これを話しているでしょうって怒られそう。

だから、この場は具体的関係では成立できない。

 

やれやれ。

 

あと2つほどあるのだが、間に合うか?

検討したところ間に合いそうにない。情報の話は後回し。

 

僕にとって美味しい文とはという分析。

 

これは美学でいうところの趣味の話だから言葉で表現できるものではない。と、諦めるのは簡単だが、表現できないことを語ることができるのも言葉。

 

夏目さんの「硝子戸の中」で、文筆家志望らしき女性が夏目さんに自分が書いた文章を持ってきて評価して欲しいというエピソードがあった。夏目さんは、私は剥き出しの自分で接するので、貴方も自分に対して開かないといけないと言う。たしかに夏目さんの文体は正直な感じがある。他意がないという訳でもないし技巧も駆使しているのだろうが、嘘がない。

 

いや、適切な言葉を当てるのであれば、「無理がない」かな。

無理がない文章は余裕があるから、「どう読まれるか」にも配慮がある。どれだけ伝えたいことがあったとしてもそれは伝わらないと意味がないのだから、伝わるように整えないといけない。ということが念頭にあるという味がする文体は美味しい。

 

最終的には好みだが、手っ取り早い同情とか感動を題材としている時点でだめなのかも。

いや、むかーしセカチューとかディープラブで泣いたが、僕の腎臓だっけ、は泣けなかった。

 

僕が自分の中でだけの文章を書けないのはそういうことで、自分の中でだけに留めるのであれば言葉でなくても在るから。外にどこまで現象化できるかが気になっている。

 

もともと伝えたいことがなく継続しているだけとしているのだが、最終的にしたいことは言葉による表現だという予想がされている。自分がしたいことを気付かないように生きてきたから面倒くさいが、文章を書くことに没頭することがとても楽しい訳。それ自体が目的だったら、改行とかも整えなくて良いはず。

 

はい、ここまで。

 

私信もいつまで送れることやら。

 

おやすみなさい。

 

集中して生きられますように。

 

 

 

 

 

 

れいあうと

 

 

 

知らない人達と知らない部屋に集まって何やら話している夢。全員モデルが分からず部屋も何処だったのか。僕は何かを忘れている感じだった。あぁ、部屋は「熱帯」の古物店がモデルっぽいな。無意識が文章を映像データとして解凍している。

 

起きたら起きたで何やら恥ずかしかった。私信が酷い。内心を吐露し過ぎ。真剣な言葉と捉えられるべくもない。それでいてきっと三か月後にちらっと会ったらたぶん笑顔なのだろうと想うと、たまらない。

 

朝はどん兵衛の豚汁、昼はレトルトカレー、夜はお刺身。食材を使わないと悪くなるから明日は朝と昼と何か作るか。小松菜の苦みを利かせた雑炊が美味しそうと目論んでいる。レトルトとかカップ麺とかで過ごすと時間が省略されている気分になるが、買いに行く時間とかレンチンする時間とか考えると時計時間上はあまり変わらない。

 

 

買い物の帰り、天気雨が降ってきてふわりと夏の匂いがする。感じと暦はだいたい一致しているが、そうでないイレギュラーもある。アサガオ氏はいつまで元気なのか。

 

どうでも良いが、読み返して深いところになると途端に読点が増えるのは、法律学の影響だろうなと思った。法律の文章って、かなり読点が多いのが常用。リズム関係なしにいちいち付ける。僕のタイミングと違うから気を付けよう。

 

ちょろちょろ作業しつつの部分は後にして。引き延しなのか、また漫画を一気読み。「ヒカルの碁」。囲碁はさっぱり分からないのだが、この漫画は好きだった。リアルタイムで読んでいた世代かも。当時はなんで佐為が消えたのか分からなかったが、ちゃんと普通に描かれていた。人によってはたかがボードゲームだが、神様は宿っていると思う。将棋も然り。法則が決まっている条件の中で最大限創造するってまさに宇宙だし、この思考回路自体が1人1宇宙を得た神様的なもの。

 

もっと考えていけば、人は生まれた時点で1個の宇宙を与えられている。

 

 

作業。とりあえずWEB上に場所を得た。ドメイン名に時間がかかったが、海に漂流させる瓶詰めの手紙をボトルメール和製英語)というところから、別に手紙ではないよなというところで、語感で創った。ちなみにブログタイトルとしての仮題だった「たゆたう小瓶」という言葉は既に存在していたため、これも別の仮題を創った。あとはちまちま作業をして文章を投稿できるようにして、とりあえずこの日記を移設すれば毎日更新は可能。

 

まぁ、そもそも文章を世界に見つけてもらうことを主題としておらず、単に「場」にとらわれずに存在の羽を広げたいだけ。単にブログを続ける為であれば既存の場でも良いのだろうが、既存の場はそれなりに作法があり、そこに影響されてしまう。

 

「場」の哲学。

 

僕はもともとド田舎の集落で生まれた。その頃はインターネットも始まったばかりで、小学校の視聴覚室でゲームをするくらい。バレーゲームと歯車組み合わせてステージクリアするやつ、今のアプリより面白かった気がする(思い出補正)。

 

だから、他に場があるということを知らなかった。それなのに閉塞感がずっとあった思春期。これは「空気」とも言える。この時にはこうするみたいな規定値がどこでもあったから、規定値として「決められた自分」で過ごしていた。話ベタとか不器用とか、諸々。人が人に対する評価で本当の言葉なんてほとんどなかったのに。

 

大学時代は少しこれが緩まった。初めての場は楽しい。自分が決められてないから。

 

これを書きだすと長くなるのでやめるが、僕の中で「場」は自分を自由にさせるものではなかった。頭をぼやかさなきゃいけなくなるところ。これは場所取りが下手なだけとも言えるが、嘘を言わなくてはならなくのはきつい。

 

場という物理と気持ちは別の話であるし、同じ場でもきちんと集まっている訳ではなく、敵を創ったり誰かを卑下したりして保っている感。そんなの言語上の問題だけだと一笑に付されることだが、僕は言葉に対しては真摯でありたかったから、他の人の言葉も真摯だとしたいし、適当な言葉に合わせて話すのも嫌だった。

 

真面目とかユーモアがないとかとは別のところ。笑いも一種の芸術の領域だが、俗っぽく人を笑わせる手っ取り早い手法は、共通に馬鹿にすることができる対象を設定すること。僕はそういうこともしたくないが、過去の栄光的に、恋人さんをこういうのは無関係に笑わせていたと思う。

 

なんだか、「クララとおひさま」を読んでいて、過去のことを想う。クララ(AF)は家族関係が悪化して、あの時こうした方が良かったのかと演算しているのだが、これって人間でいうところの後悔でしかない。あるあるのやつ。

 

で、僕はほとんどそういう意味での後悔がない。不味いことをしたことはいっぱいあるがこれは知っていても知らなくても同じことをするに違いない。見えていることを遣わないし。たぶんどういうルートを通ってもここに来ている。

 

という風に諦めたことによってまだ進めるということになる。

 

見るは受動だが読むは能動。読み取れることが当人の宇宙の上限。

僕の宇宙で言えば、僕を最大限読み取ってくれいそうな人が宵顔さん。そりゃあこれだけ自由にさせてくれる人は好きになってもしょうがない。

 

言葉をかきつくることも当然能動の領域。

匿名的な場だから綴れるというのも分かるし、言葉と自分が連動されて認められて嬉しいのも分かる。こういうのっておそらく世界と自分が同期(同一化)しているという快感(実感)なはず。これも分かる。

 

でも、僕はこれじゃない。

自分とは連動しないところで僕の文章から何か感じてくれる方が嬉しい。和歌しか送れなかった時代でも小瓶に手紙を詰めて海に流さないと知らない人に届かない時代でもない。せっかくこれだけWEB世界が自由になっているのだから、物理とも人格とも離して良い。

 

たどり着ける人がたまたま見られるページで良い。

別に情報が在るところではないから、人生上で言えば暇つぶしにしかならない、無為で読める人が読めば良いという感じ。

 

僕の文章をいま読んでいる人はそうとうの暇人だと思っているが、観測している限り誰もが時計時間的に忙しそう。

 

不思議。

 

いや、たかだか文章を読むのなんて数分で済むと思っているのかもしれないが、言葉は無意識で解凍されて、色々影響ある。僕は割と顕在化できているが、潜伏しているのも変わらない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い感じの宇宙を構築していますように。