言い訳

 

 

 

青空文庫で既読にした「白雪姫」。まいにちまいにち読みかけですってポップアップしてくる。これ以上読めるところないはずなのにな。

 

 

1日、無性に楽しかった。現実としては変哲もなくあくまで内心領域。世界に対する注意が幼少期レベル。お弁当を食べ終わって公園の木を眺めたら目に入ってきたのが上の方に残っているセミの抜け殻という。昨日で言えばイモリの子供が可愛らしくて思わず手を触れそうになった。

 

仕事も楽しい。楽しいというか、自分のやり方で良いのだなという感じか。資料の整理がマジでできないやつで、空いた時間にせっせと資料を整理したりメモを取ったりしている同僚を横目にぼーっとしている(ように見えるに違いない)。しかも頭の中でも考えないようにしている。でも、情報の位置を決めていない方が問題に対面したときにうまく引っ張り出せる。中学生くらいのときのやり方に戻っているが、体感の蓄積量が違うからおそらく精度が比較的に上がっている。覚えようとすることはやめた。

 

あと、休憩から戻ってきたときだったか、同期が座標を合わせて話しかけてきて何ぞやと思ったら、同期のうっかりでちょっと仕事の手数が増えたことの陳謝だった。おそらくそうだろうと思っていたが、特に何も思っていなかった。ただ、近い。そして肘あたりに微かに触れてくる。ドキッとはしなかった。そういうとこあるよなというだけ。意識してやっていることではないのだろうが、おっさんやぞ、と。(なんだ

そういうところあるよなというのは、無防備な女の子的な振る舞いがあること。僕より生物的には年上だが、あんまりそういうのは問題ではない。

 

今の座席だと全く見えないところに座っているから目に付くことはない。

 

あと、先生。子供の頃のトラウマを語ってくれた。といっても、何か苛烈な経験ということではなく、社会に対する疑問みたいな部分。オトナは失敗に対して言い訳するなって頭ごなしだが、言い訳(行動の理由)を考えないと失敗が可視化されないだろうとずっと腑に落ちなかったとか。そのせいで、成績優秀なのに教師から厄介者認定されていたとか。

 

これって確かに日本人の中にある根深い精神性だと思う。理由とか判断過程を呈示して良いという土壌がない。「難しい天皇制」でいうところの空気はそれを言語化すること自体がタブーだというのとも繋がる。素朴なところだと、子供から何故駄目なのかと問われて、駄目なものは駄目としか言えないとか。言えないのは理由を考えたことがないからなんだよな、たぶん。

 

失敗に焦点を絞ると、刑法の思想とも似ている。応報刑(目には目を歯には歯を)的な思想だと、失敗(=結果)が悪い、つまり失敗した人が悪いからその個人に非難を浴びせることが全てになる。失敗は社会的にコストだから、その失敗を次にはしないようにすることが善だという「一般予防」の思想になると、問題になるのは失敗自体ではなく、失敗に至る過程、何故失敗が起こったのか。これを可視化してミスを減らしていくことが結果的に利益になる。

 

書いてみればどっちが有用かって明らかだが、「何故それをしたのか」って聞かれるだけで責められている感じがしてしまう人が多いのが現代社会。

 

言い訳するな、お前が悪いのだという思想は武士道ちっく。切腹かよ。

なんにせよ、合理的人間観ではない。

 

あぁ、先生のトラウマ告白に対して僕は「オトナって話聞いてくれないですもんね」って応えた。子供(下)に対して凄いとなるのは立場上許されないかもな。ここで想い出すのが、20代の頃に中学の同窓会で厳しかった国語の先生が、僕が院に行っていることを話したら、「○○君ってそんなに賢かったんだ」って言ったこと。何故覚えているのかを言語化しようとすると不思議な感じ。厳しかったが結構好きだったのだよな。なのに、そんな感じでしか捉えられてなかったのか、なのか?

 

現実と非現実の境界があいまいになってきているが、別になんでもして良いとかではなく、あいまいで良いのだというすることによってより現実(とされているもの)が鮮明になっている。もともとあいまいに捉えた最初の世界構築の過程は、一瞬世界を固定化させたが、その固定は共同幻想でしかないという経過を経て、やっぱり曖昧で良いんじゃんとなっている現在。

 

ちょっと危ういのが、宵顔さんと手を繋いだことがないのに、起き抜けに一瞬繋いだことあったっけとなったところ。だからと言って妄想を現実だとはしないから問題ない。そんな現実があったとしたら、ちゃんと手を繋ぎたいですと申す。

 

さておき。

 

何かの成分が不足している感。自然も良いし、芸術も良い。ほんとに不足している成分は情報更新なのかもしれないが、相手が人となると僕の都合だけでは起こらない。問題ない。

 

自然は定期的なことだが、今回は、動きのある芸術を欲している感じもある。舞踊、ダンス、歌舞伎、なんでも良いが、そういう芸術を観劇したい。何処に行ったらそういうものが観えるのかもわからないのだよな。無知。

 

なんでこれを見たいのかというと、抑制された体の動きは呼吸であって、文体と等しいという記述を見たから。意識を張り巡らせた体の動きをこの水準で鑑賞したらまた世界が変わるだろうなという必要性。

 

舞踊は生と死の境界を表現するものだというのも気になる。

 

てっとり早いのは、宵顔さんに聞く。現代の体を動かす芸術を撮影している人だから。

でも、私信で聞いても答えてくれる未来が想像できない。場が一致したら、劇場の出演者の動きより宵顔さんの動きの方が気になってしまうに違いない。

 

やれやれ。

 

僕が毎日楽しいのは、こういう「気になる」を閉じなくても良いとしたから。

気になっている対象にしかエネルギーは注げないし、開いた自分がどこまでなのかということも気になる。この気になるは、気にせざるを得ないとか、気にすべきみたいなことではない。自分でなくても気にすることができることは考えても仕方がないこと。

 

気になるの俎上に上がったものしか言語として思考できないという縛りだとすると、法律学言語化されてきたのも面白い。

 

こういう思考方法は、現実的な人の捉え方の鮮明化にも通じる。

 

まぁ良いや。

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。