れいあうと

 

 

 

知らない人達と知らない部屋に集まって何やら話している夢。全員モデルが分からず部屋も何処だったのか。僕は何かを忘れている感じだった。あぁ、部屋は「熱帯」の古物店がモデルっぽいな。無意識が文章を映像データとして解凍している。

 

起きたら起きたで何やら恥ずかしかった。私信が酷い。内心を吐露し過ぎ。真剣な言葉と捉えられるべくもない。それでいてきっと三か月後にちらっと会ったらたぶん笑顔なのだろうと想うと、たまらない。

 

朝はどん兵衛の豚汁、昼はレトルトカレー、夜はお刺身。食材を使わないと悪くなるから明日は朝と昼と何か作るか。小松菜の苦みを利かせた雑炊が美味しそうと目論んでいる。レトルトとかカップ麺とかで過ごすと時間が省略されている気分になるが、買いに行く時間とかレンチンする時間とか考えると時計時間上はあまり変わらない。

 

 

買い物の帰り、天気雨が降ってきてふわりと夏の匂いがする。感じと暦はだいたい一致しているが、そうでないイレギュラーもある。アサガオ氏はいつまで元気なのか。

 

どうでも良いが、読み返して深いところになると途端に読点が増えるのは、法律学の影響だろうなと思った。法律の文章って、かなり読点が多いのが常用。リズム関係なしにいちいち付ける。僕のタイミングと違うから気を付けよう。

 

ちょろちょろ作業しつつの部分は後にして。引き延しなのか、また漫画を一気読み。「ヒカルの碁」。囲碁はさっぱり分からないのだが、この漫画は好きだった。リアルタイムで読んでいた世代かも。当時はなんで佐為が消えたのか分からなかったが、ちゃんと普通に描かれていた。人によってはたかがボードゲームだが、神様は宿っていると思う。将棋も然り。法則が決まっている条件の中で最大限創造するってまさに宇宙だし、この思考回路自体が1人1宇宙を得た神様的なもの。

 

もっと考えていけば、人は生まれた時点で1個の宇宙を与えられている。

 

 

作業。とりあえずWEB上に場所を得た。ドメイン名に時間がかかったが、海に漂流させる瓶詰めの手紙をボトルメール和製英語)というところから、別に手紙ではないよなというところで、語感で創った。ちなみにブログタイトルとしての仮題だった「たゆたう小瓶」という言葉は既に存在していたため、これも別の仮題を創った。あとはちまちま作業をして文章を投稿できるようにして、とりあえずこの日記を移設すれば毎日更新は可能。

 

まぁ、そもそも文章を世界に見つけてもらうことを主題としておらず、単に「場」にとらわれずに存在の羽を広げたいだけ。単にブログを続ける為であれば既存の場でも良いのだろうが、既存の場はそれなりに作法があり、そこに影響されてしまう。

 

「場」の哲学。

 

僕はもともとド田舎の集落で生まれた。その頃はインターネットも始まったばかりで、小学校の視聴覚室でゲームをするくらい。バレーゲームと歯車組み合わせてステージクリアするやつ、今のアプリより面白かった気がする(思い出補正)。

 

だから、他に場があるということを知らなかった。それなのに閉塞感がずっとあった思春期。これは「空気」とも言える。この時にはこうするみたいな規定値がどこでもあったから、規定値として「決められた自分」で過ごしていた。話ベタとか不器用とか、諸々。人が人に対する評価で本当の言葉なんてほとんどなかったのに。

 

大学時代は少しこれが緩まった。初めての場は楽しい。自分が決められてないから。

 

これを書きだすと長くなるのでやめるが、僕の中で「場」は自分を自由にさせるものではなかった。頭をぼやかさなきゃいけなくなるところ。これは場所取りが下手なだけとも言えるが、嘘を言わなくてはならなくのはきつい。

 

場という物理と気持ちは別の話であるし、同じ場でもきちんと集まっている訳ではなく、敵を創ったり誰かを卑下したりして保っている感。そんなの言語上の問題だけだと一笑に付されることだが、僕は言葉に対しては真摯でありたかったから、他の人の言葉も真摯だとしたいし、適当な言葉に合わせて話すのも嫌だった。

 

真面目とかユーモアがないとかとは別のところ。笑いも一種の芸術の領域だが、俗っぽく人を笑わせる手っ取り早い手法は、共通に馬鹿にすることができる対象を設定すること。僕はそういうこともしたくないが、過去の栄光的に、恋人さんをこういうのは無関係に笑わせていたと思う。

 

なんだか、「クララとおひさま」を読んでいて、過去のことを想う。クララ(AF)は家族関係が悪化して、あの時こうした方が良かったのかと演算しているのだが、これって人間でいうところの後悔でしかない。あるあるのやつ。

 

で、僕はほとんどそういう意味での後悔がない。不味いことをしたことはいっぱいあるがこれは知っていても知らなくても同じことをするに違いない。見えていることを遣わないし。たぶんどういうルートを通ってもここに来ている。

 

という風に諦めたことによってまだ進めるということになる。

 

見るは受動だが読むは能動。読み取れることが当人の宇宙の上限。

僕の宇宙で言えば、僕を最大限読み取ってくれいそうな人が宵顔さん。そりゃあこれだけ自由にさせてくれる人は好きになってもしょうがない。

 

言葉をかきつくることも当然能動の領域。

匿名的な場だから綴れるというのも分かるし、言葉と自分が連動されて認められて嬉しいのも分かる。こういうのっておそらく世界と自分が同期(同一化)しているという快感(実感)なはず。これも分かる。

 

でも、僕はこれじゃない。

自分とは連動しないところで僕の文章から何か感じてくれる方が嬉しい。和歌しか送れなかった時代でも小瓶に手紙を詰めて海に流さないと知らない人に届かない時代でもない。せっかくこれだけWEB世界が自由になっているのだから、物理とも人格とも離して良い。

 

たどり着ける人がたまたま見られるページで良い。

別に情報が在るところではないから、人生上で言えば暇つぶしにしかならない、無為で読める人が読めば良いという感じ。

 

僕の文章をいま読んでいる人はそうとうの暇人だと思っているが、観測している限り誰もが時計時間的に忙しそう。

 

不思議。

 

いや、たかだか文章を読むのなんて数分で済むと思っているのかもしれないが、言葉は無意識で解凍されて、色々影響ある。僕は割と顕在化できているが、潜伏しているのも変わらない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い感じの宇宙を構築していますように。