あいまいに遊ぶ

 

 

現実と非現実の境界はひどくあいまいだ。生と死とおなじように。

 

 

大雨で川が増水している夢。特に何か事件が起こるということでもなかった。夢は境界領域のもの。最近出自が分からない像が多くなってきている。

 

昨日書き逃した情報の話。WEB開設の記事を読み漁ったことと書籍のそれの違いについて考えていた。信ぴょう性において書籍の方に軍配が上がるのは、もちろん値段がついていること。副次的には出版社を通った情報だということがありそうだがここは本筋から外れる。

 

無料の情報も現代人は参照できる。そしてそれほど信ぴょう性も気にしていないと思われる。閲覧者が対価を支払うという直接的な収益はないにしろ、執筆者には何かしらの利益があるからだろうなということを考えると、無料で情報を得ることができるとしてもその中で紹介されていることに閲覧者の1%でも対価を支払って商品・サービスを取得すれば収益としては十分なのだろうな。あぁこれってテレビのCMがインターネットに移動しただけだって。

 

自分で情報を探していると思い込んでいるが、トップに上がってくるのは広告度が高い情報なのかも。なので、僕は5~10記事くらいは見る。だいたいこれくらい見れば相場観が分かるかなと。

 

もちろん、商品・サービスとは無関係の思想・価値観のような情報もたくさんある。こちらの方が思想の自由市場感があって良き。たとえば、いや、病んではないが、「〇にたい」と検索すると、トップに相談用の電話番号が出てくるとか。まぁ、僕はここで色々検索するよりは、哲学書を買って読みたい派。社会儀礼やビジネスマナーは調べることはある。履歴書の志望動機とか。

 

要は、どんな情報も特に客観的に参照できるようなものではないなという話。主観の束だから主観で選ぶしかない。

 

さておき。

 

仕事。今週は先生と2人で遅番。時々他の人に話さないような話題を振ってくるのはなんなのだろうな。仕事を時間で測るのは簡単だからとか、〇ぬのは諸々の手続が面倒そうだから長生きしたいとか。まるっと聞くし理解できるからだろうか。変なのだが、この人との雑談は楽しい。特に発話をたくさんしている訳でも相談している訳でもないが、何を言っても否定が返ってこない。当人打っているのだが、打ってない僕に対して特に何もないし。上司に恵まれている。

 

そうして、本題。

 

刑法上、意思決定は仮設であるという概念を掘り下げる。素朴な人にとって意思決定は現実なのかって問うたら、おそらく是と答えられそう。ただ、僕は仮設だとしても、それで現実が回るのであればそれで良いと思った。

 

刑法上に仮に設定された意思決定は、基本的は故意のことになる。で、これは内心はどうあれ、人を包丁で深く刺せば人が〇ぬ危険性があるという認識に係っていて、これを「認識していたどうか」については証拠によって認定できる。要は内心という検証不可能なブラックボックスを「現実的に結果を認識しうるか」という仮の設定で客観的に検証可能な領域に引っ張りだしたということ。この設定によって、漠然とした「悪さ」という霧のような道徳から、人を害する行為をしてはいけないという行動(現実)的なルールにすることができた。

 

こういう意味で見れば意思決定は現実の領域の存在ではないのだが、何か問題があるのかな。という感じ。意思決定は現実にあると言ったところで、中身はそんなに変わらない。この認識があればこうした、こうするみたいな経験の束だが、素朴には認識だけで決定が起こっている訳ではない。こんなの、起こったことは決定したかどうかに関わらないとしか言えない。

 

科学的な現実感も、仮説によって現実を説明できるのかという理論の中で一番現実が無理なく説明できるものが選ばれているだけだから、真に現実なのかとなると微妙なところ。宇宙の現実を説明するひも理論の11次元って意味分からない。

 

なにはともあれ生きていることが現実だと言ったとしても、生きるという観念が概念によって形成されているから、ままならない。絶命すれば現実がなくなるのは確かだとして、どう在れば生きていると言えるのかとなると、生物としての体が生命活動を維持しているだけでは生きているとはならない。

 

なんだか唐突に昔見ていたテレビを思い出した。「笑う犬(の冒険だっけ?)」の中にあった、「生きているってなんだろ、生きているってなーに」っていうコント。ミル姉さん、葉っぱ隊、年代が知れる。笑

 

体験が現実として疑いなく受け入れられる理由についての考察。情報の価値とも似ているが、体験は体が記録したものだから、それが起こったかどうかには解釈の余地がなく、体に刻印される。振り返るときも起こったかどうかではなく、それが何だったのかになる。

 

分かる。体に染みついた記録は、意識するまでもなくあったことだし、誰かに証拠として提示できる。ただ、過去は現実なのかという角度で見たとき、過去を再現できるのはいま在るものではないし、都合良く改ざんすることもできる訳で。

 

もっと言うと、無意識が現実と非現実を分けるのは、危険性とか反復だけなのでは。とすると、幽霊を見られる人にとってそれは現実だが他の多数にとっては非現実になるとか、同じ現実を誰か見たときに自分は相手と違うものを見たことが相手に伝わらなかったとき、相手にとってそれは現実なのかとか。たぶん相手は現実としてくれないか、貴方にとっては現実なのでしょうね、で済ます。

 

幽霊にしてみたが、これは感情とか体調でも同じ。申告されないと分からないし申告したとて体感はできないことは現実に昇格できるのか。体感ないし自分が見えるものしか現実にできないのであれば、それはないものに等しい。もちろん自分のこれは現実でしかなかろうが。

 

こう考えていくと、人は現実を客観的に観測できる実体として捉えているが、どこまでいっても主観的な現実感でしかないよなという分析。

 

もちろん仮設は問題ないが。

 

人のことが分かっていると言う人より、分からないと思える人の方が好感を持てる。

分からないって、人のことを自分の外にある現実として見ている。

 

僕が想う、現実と非現実の境界があいまいだというのはこういうこと。

スピリチュアルでも宗教でもない、ただ今ある情報を突き詰めただけ。

 

遊びすぎだわ。

(もっと遊ぶつもりだが)

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。