回避と進歩

 

 

気になるはいい。気にするはいけない。

 

 

 

閲覧数が少ないとしめしめと感じるのは何故だろうな。おそらく密度で、読まれる可能性としては開いているのに3人(回)しか読まれてないのが楽しい。

 

 

さておき。

 

「環境と自信を調えて提示していただかないと応えようがありません」。次の応募をお待ちしておりますと続きそうな返信があった夢を見た。これは返信の体を取った自身に向けた言葉と思う。たしかに。

 

通勤路の田んぼ。黄金色の稲穂が垂れる秋という風情だが、いい加減垂れすぎ。今週末までには刈られるだろうな。通勤の時間帯。1つのシフト(平日5日)でおそらくほぼ5分以内の誤差で収まっている出発時間。でも1分ずれると信号のタイミングが変わるから、進むルートも当然ずれる。ある瞬間にある場所に居るかどうかによるというのは人生そのものみたいだ。今のところこのルートは誰かと合う(逢う?)ものではない模様だが、それはそれですっきりする。

 

開いたなって思ったのが、お弁当を食べる時間。15時のただの昼下がりなのに、世界ってこんなに美しくて良いのかと感じる。視覚情報だけではなく、聴覚情報も稼働している感じ。風で地面に落ちた葉の動き、池の水の流れ、人が発する声。ここに注意を傾けることを咎める人は誰も居ない。となったら、ぶわっと過去の情報もセット再現される。人には「いま」もないかもしれないと感じる変な充足感。というか、生きやすさ?

 

仕事は、なんだか自分から雑談の話題を転換するとか発することに壁がなくなった感。これもよくわからないが、当然世界観が変わった影響があるのだろうな。先生の飲み物はずっとお茶だったのだが水に変わっていて、どうしたのだろうと話題を振ってみた。特に中身はないのだが、先生は改めて凄い。これほど自分のことをモニタリングしていてそれを聞きやすい情報として話せる人ってちょっと経験がない。これは感情が人格の1要素でしかないという俯瞰の目があるからなのだろうなという観測。意見と事実を分けて語るビジネスマンの鏡。いや、ビジネスマンという感じではないか、研究脳の人。初めて会った性質かも。楽しい。

 

 

そうして冒頭へ。

 

「考えること」は良いが「気にする」のはいけないなという思考が発端。これは宵顔さんについて、考えたり頭の片隅に存在を置いたりすることはとても心地良いが、気にしだすと途端に変なこと(不安感・罪悪感)になるのは何故なんだろうなと。

 

そこで、まず「気にする」という概念の性質を分析することにした。そもそも人はどういったことを気にするかのか。相手を傷つけてしまったかもしれない、ガスの元栓を閉め忘れたかもしれない、地震が起こるかもしれない、株に失敗するかもしれない、フラれるかもしれない、パートナーに事故があったのかもしれない、エトセトラ。

 

本能と経験に基づく危機回避の脳の回路。良いことが起こるかもしれないということに「気にする」という言葉は遣えないはず。もちろんこのシステムは生き残るために不可欠なものだった。危機に対して無頓着な生物はすぐに絶滅するに違いない。ただ、現代社会においてあえて意識的に意識するようなものなのかとなると、微妙なところ。読んだことはないが、「心配事の9割は起らない」という、流行った(?)本があるし。

 

危機の可能性という意味では、「AIは人を憎まない」にもいっぱい書かれている。隕石が落ちてきて人類が滅亡する、ウイルスのパンデミック(いまここ)、AIが人類の知能を越えて人類を滅ぼす、などなど。

 

たしかに、想定というか心構えのようなものは要ると思うが、かといってそれによって「いま」の心を左右させる必要は全くない。こういう可能性を思考というか試行すること自体に考え過ぎとか気にし過ぎという評価はありうるが、考えないことがイコール気にしないこととも限らない。

 

で、帰り道辺りで、だったら「気になる」はなんなのだとなった。当時は「気にする」は対象が悪い意味で既定だが、「気になる」は対象がなんであるかは決めてないのに志向してしまうことなのだろうなと考えた。今ここまで書いてきて思いついたのは、「気にする」が危機回避のシステムであるということと対比して、「気になる」は進歩のシステムだなというところ。

 

気にするものは回避したがるが、気になるものは採り入れうると考えるとしっくりすっきり。

 

でも、こんなの僕の中の整合性でしかないから、気にすることができる存在が大事なのだという価値観も当然ありうる。例えば、宵顔さんと飲む場があったとしたら、駅までエスコートした後、ちゃんと帰れたかを気にしてしまうだろうし。いや、これは気になるでも同じような語感はあるな。気になると気にするが両立できる存在こそ至高。(はて

 

 

気になること。

 

踊りが気になっているのは、人の動きを手段とした芸術をしっかり見てみたい感があるから。夜に生きていたとき、ニコニコ動画の「踊ってみた」を見漁っていた時期がある。人の体ってこんなに綺麗に動かせるのかという憧憬。僕は踊る代わりに言葉で動くことにしているのだが、そろそろその為だけに生きている人の動きも観る時期かもなと。バレエとか能とかになるのだろうか。

 

あと、自然分野では古墳も気になっている。電車圏内に世界遺産になったかなんだかのがあるため。歴史の構造物は人類としての人の動きだからと無理やり繋げてみる。万里の長城には特に魅力を感じないが、世界のどこにでも行けるのであれば、ギリシャに行きたい。あと、モヘンジョダロも見てみたいかも。

 

なんなら自分のことも気になる。観測して習得した人観と全然違うみたいだし、まだ何かありそうな感じがあるし。なんでも現実化できるとかではなく、どうしてここまで来たのかというところ。先生との雑談で、失敗を可視化の云々があったが、僕が資格試験に落ちてきたのは、本当には受かりたくなかったからなのだろうなと思った。負け惜しみみたいになりそうだが、それよりも得るものはあったから個人的には問題ない。

 

学術分野の本が読めるようになったのはこの一見無為な時間の蓄積による。

法学はさっぱり納得できない分野だったが、やっとこさ理解できるようになってきた。人の全部のルールではないし、素朴とも離れているが、なんとか合理性を追求している学問。

 

僕はおべんきょはできないのが分かった。

世界は〇×ではできてないし。

 

最後。

 

気になる人ってなかなか稀有な存在。僕は誰かにとって気になる存在なのかということはとても気になるところ。気になるって、自分を進歩させる存在。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い睡眠時間を。