とうめい

 

 

なんだか昨日の日記で随分スッキリしたらしい。

 

ちょっと復習。

 

あんまり細かく書いていなかった同性婚の話。憲法そのものがこれを認めているとは認定していないが、平等ではないという判断。法の下の平等のキモは何と何を比べるかにある。ここで問題になったのが性向の違い。異性に性向があるか、同性にあるかは生来のものであって、個人の意思によって操作ができないものであるが、前者は婚姻制度をまるっと享受できるのに、後者は全く受けられないというのが不平等だから、立法府が法律でバランスを取るべきという感じ。地方裁判所の判断だから最高裁までいってどう判断されるかは不明。

 

憲法の新刊で面白そうなのを見つけたから近いうちに買おう。土壌がどうの。日常の生活圏にきちんとした法律書が置いてある本屋さんはない。都市圏には住みたくない。

 

 

僕はニュースで語られるような一般的な社会の動向にはとんと食指が向かないのだが、分野を絞った最新情報はまぁまぁ気になる。古典が最新みたいな節もがあるが。

 

 

さておき。

 

自然の動向も気になっている。この前ピンクの絨毯だった田んぼが畝を作って耕されていて、2日前に平らになっていた。そろそろ水が入るのかとそわそわ。帰りにルートを変えてみたら(見たら)、若干池のようになっていた。夜に水を入れた方が蒸発の関係で省エネなのだろうか。というか、なんか遅くないか。

 

仕事もなんとなく遊べていた。人って他責にすると真理的な正しさが存在すると思えるみたい。これって、神様がシステムにすり替わっただけで、仕組みが分からないのに真理だと思える時点で、まごうことなき宗教だと思う。システムは道具であって信じるものでもないような。道具は人間と違ってほとんど完璧に機能するが、不具合があるからといって思考停止になってはいけない。

 

あと、人は自分が自由に発言している、任意的に発話を扱っていると思っている節がありそうだが、それほど自由そうじゃないなという観測。無意識の調整が働いている気がする。たしかに、普通に考えて、相手が知らない言葉を遣っても伝わらない。自由だと意識化されつつ、無意識が調整しているという説はありうる。

 

「時間の終わりまで」という理論物理学者が書いた人類史の中で、進化論の理論では人類が物語を好んだことが説明できないという話があった。進化的に有意な情報を伝達するという機能であれば言葉もっと端的な指示として発展するはずで、迂遠な啓示ではないような、というのは分かる。進化とは無関係な、迷子的な発展という説もあっていい。機能的に脳が発展した副作用みたいな。

 

個人的な感じだと、どうもそうでもなく、形式を指示ではないものにすることでしか伝えられない受け取れない波が人間には備わっているのではという説。芸術が人を慰撫したり昇華したりするのはそういうことで、人類という種にはこういうものが進化上必要だった。

 

そもそも論理的にはできてないし。

 

ユートピア」の話で、知的生物とは規則的に動けるものだという話があった。規則的営みは自然的な営みではないから、そこで分別できるとか。たしかに暦とかタイムテーブルに合わせることができるのは、規則を認識して従えるという知的作用ではある。ただ、ミツバチとか蟻とか結晶も規則的とのこと。そうすると、「知的」の意味が微妙にぼやける。

 

規則にイヤイヤ従うのであれば、自然の規則に従うミツバチと変わらない。もっと能動的に規則に流れるのが人間なのでは。

 

言葉は規則なのか。

 

ある意味変態性なのだが、僕はこうやって公に自分の文章を流しているのに、スキが1つも付かない記事ができると、なにやら「しめしめ」と感じる性癖がある。たぶん誰にも読まれていないということはないだろうし、この感覚何だろうなと常々疑問だった。

 

ところで。最近「Habit」という曲をちょくちょく聞いている。人は分類できるものではないという主題なのだろう、ポップな感じでカテゴライズを批判して、人はそれぞれみたいな。

 

哲学少女曰く、これが人気なのは「共感的な言葉」だからだとのこと。このアーティストの曲は聞かなくなったとか。

 

なるほど。僕は共感的な言葉にそれほど忌避感はない。良いこと言っているなぁ、分かるなぁくらいはある。ただ、美味しいのかというと別の話。共感されたいという意味で綴られる言葉は無味無臭。

 

 

という感じで、「共感的な言葉」の考察。

 

僕は人が共感して欲しいとしている言葉には合わせる質だったが、そういう言葉を扱う人は断捨離してしまった。相手も自分と同じ感じであるべきみたいな話し方をする。こういう人達に異論は通じない。

 

共感も「規則」なんだよなと納得。ここでいう感じは僕の語彙とは随分違う。

感じが言語化された共通項になっていて、この世界での共感はとても簡単。相手の世界観をよそ見しながらうんうん肯けば良いだけ。

 

要は世界観のなんとなくの一致でしかなくて、それ以上の遊びが無い世界。

共感って、相手とし合うものではなくて、あくまで自己の世界。僕があんまり「スキ」を好きくないのはこういうところと考察。共感なんて別にされたくないし、そんなてきとーな世界観で他者を捉えたくないから。

 

誰かと繋がるときに、外付けの規則は不要だしもっと外の他者に承認されるいわれもない。

ここら辺が可視化できるようになったのもスッキリ感。

 

個別の人が棲息している世界って色々ある。言葉を綴るような人は実生活の枠からはみ出しているとか。まぁビジネスでやっている人もいるだろうな。インターネット世界でなるべく共感を得られるように綴るとか。

 

僕の文章的生息地は何処なのかというと、おこがましくもありつつ、詩的なところに近そう。僕が美味しい詩人は自分の中で遊んでいる人達だし、全然共感を求めていない、確立した文章体。小説家にもそういう人種は居る。

 

日記という媒体で書いていて面白いのは、読んでいる人が僕に共感せずにこの文章をとっかかりとして自己を内観する感じ。結果は返ってこないけど別にそれで良い。

 

1日1文だけど、共感では読めないに違いないから歯ごたえがあって読みにくいと思います。読んで居そうな人は把握しているつもり。論理でも読めないと思う。

 

他者の笑顔もとても良いが、もっと内部に響くのも良い。

いやいや、全然読めるものではないですわという感想も嬉しい。(変態)

 

そろそろ創作の壁を越える時期という説。

 

明日はぼっちで動物園に行ってきます。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

考察能力

 

 

 

昨日の文章は早口だったらしい。読み返すとそうでもなかったのだが、色々詰め込み過ぎたかも。何を想っているかというより、うごうごの何処を取り出すか。

 

遅番でも日が変わる前に書き終わるようにしたから早口になっている説。

 

あんまりたくさん寝ると頭がぼやける。7時間寝たら充分だろうと、起床予定時間から1時間ほど早く起き上がり朝ごはんを食べた。ほんだし、昆布茶、食べるラー油(キクラゲ)、梅肉、わさび。ゆっくり食べる。こういうなんでもない平日にいつもはしないことをするときがほんとの自由。平日の予定調和から主導権を勝ち取った感。

 

ついでに気になっていた漫画もアプリで買って最後の2巻を一気読み。独占欲なのか変態性なのか、主題がよく分からない。二組のカップル様な男女が出てきて、1組は女性が男性にペイントする、もう1組は男性が女性に首輪を付ける。あからさまな性描写はないのだが、エロティシズムな空気感。そして何事も起こらず完結した。

 

ついでのついで。同性婚にまつわる国家賠償請求の裁判の解説を読んだ。面白い。憲法はどういった「婚姻制度」を保障しているのか。解説者は法律論として詰めてないと批判している。でも家族制度をルール(公序)みたいに法律学として語ることができるかというと、とても微妙なところ。結局憲法違反と名言したわけではなさそうだが、婚姻制度が「子をなすパートナー関係」の保障を目的としているのではなく、両性の「パートナー関係の共同生活」を奨励目的だという言。たしかに公的に前者を目的とするなんてこのご時世炎上案件になる。

 

まぁ、法律で認められても近所の目はどうなのかという非法的生活面はともかくとして、公的に1つとして扱ってもらえるのは、種々の省エネにはなるのだろうな。相続関係とか諸々。法改正が進むのかもともかく。ちなみに僕はいまのところ同性愛の傾向はないが、法的に承認されることはウェルカム。パートナーの概念の大勢は子を成して次の時代に家族(血)を承継するみたいなところにありそうだが、ここには頓着がない。もちろんしたい人はそうすれば良い、これもウェルカム。

 

涼しくて歩きやすい出勤。雨が降るごとに元気になる紫陽花を見るのが楽しい。

 

 

この流れで、仕事も良い感じ、とはならなかった。悪いことがあったとかやらかしたとかでもなく、なんだかあんまり楽しくないしお客さんとあんまり話したくない。この現象を調子の悪さと捉えていたのだが、ここまで書いていると、違った解釈になる。自由でなさということが露見している。もちろん僕は仕事として行っているから、その中でなるべく楽しく遊ぶというのがある。

 

で、仕事で遊んでいない人と話すのが辛いことに気付いてしまった。ここでいう遊びは「試行」という意味であって、ある意味「思考」とも近い。別に「いま」できない人でもしようとしている人に対しては何も思わない。遊戯って、基本的に練度を高めていくものだから、最初できなくても徐々に進めばいい訳で。ただ、その中で、貴方のスキルと経験値だったらその聞いていることにはとっくに辿り着いているよねという人が居て、そういう人に説明するのはエネルギーが無駄に消費される感がある。

 

心配で正しさを確認するためという動機ならまだ良いが、クライアントなのだから聞いたら良いやという依存とかになると困る。正しさを提供してくるものだと思っている。遊びがある人は激昂なんてしないというかできない。

 

お風呂読書で、どの空間軸で世界を捉えているのかという芸術枠の本があるのだが、日常枠でもどういう世界軸で生きているのかという層はありそう。対価を払えば思い通りになるという甘えん坊的な世界とか、もくもくと目的に適うように生きるとか、他人のことはどうでも良いとか。細かすぎてカテゴリーとして分類はできないが、なんとなく相性が良いかどうかくらいは分かる。

 

仕事場では、先生と最古参の先輩と年下上司は仕事で遊んでいるから雑談が楽しい。

 

まぁ、「遊び」という言葉に含まれる概念もプリズムみたいなものだから、無定義では使えない。「必要なことをしない」もあるし、「留まらない」もあるし、「余白」もあるし。個人的にはサボタージュの意味を含めていない。しないことは遊びとは言わない。

 

こういう意味で、遣う言葉が自分の語用と近いのかという言語界での相性もあるよな。

 

苦手なことを書き連ねることも面白いが、あえて好きなことを書いてみる。

 

最近自覚したもの。

 

1つは通話をしたあとに自分から切ってくれること。これが何故好きなのかと分析すると、相手(僕)が切ってくれるのを待つのは慮りと思わせて、待たないと何か不協和が起こるという相手の存在に対して依存がある。どうでも良くない存在という前提ありきだが、それをしても相手は何も変わらないと想ってくれている感が美味しい。良い塩梅。

 

そうして、もう少し一般的なもう1つ。

自己を分析・考察している文章が好きだ。これは就活で言うところの、社会的な強み・弱みを相対的に考察するということではなく、ただ、自分の存在とはなんぞやと問うことの言語化

 

これをしないといけないのは社会との不協和があって可視化されたという向きがあるとしても、考察できるということは自己の存在が自明ではないということであって、こういう人は他人も決められないことを知っている。だって、自分に対する情報って圧倒的に他者に対するものより多いのに、それでも分からないのであれば、情報がもっと少ない他者のことが決まるなんて矛盾している。

 

どういう人物だって表現することは問題ないが、それが人格としての既定なのか、あくまで観測した限りなのかで他者の捉え方は随分変わる。

 

む、今日は日付をオーバーしてしまう。

まぁいいか。

 

個人の人格が確証されているという概念も随分最近のことだから、持てあましているのではないかという説もありつつ、人格とか性格とか性質がどう在るかより、自分でどう生きるかの方が大事な気がしている今日この頃。

 

僕は詩のことはあまり分からないのだが、なんとなく自己考察の極致のような気がしてきている。疎通で解消できない自己を言葉に載せて昇華する遊び。

 

そういえば、「衝動性」だっけ、何かミスをしてしまうという性質の話を読んだ。

僕もそういう性質だったなぁ。学校のお勉強で、分かっているのに計算を抜かして答えを間違うとか、鍵を落として準ホームレス生活をするとか。

 

自分の取説があれば良いということだった。

 

僕はもうあんまりミスとか落としたりすることはなくなった。あったとしても、自分は落とすものだとしているから、1回で良いとはしない。まぁ、躁鬱と認定されたことはなくて、そういう時代も自分でなんとかした時期もあったなぁ。遅刻とか社会的な罪を積み重ねることになんとも思わん。すげー怒られたのだが、それどこではなくてぼーっとしていた。

 

個人的には、社会的に大事なところを自分は別に大事にしていないということを自覚してしまうと楽になる気がする。

 

大事ではなくてもしないといけないくらいのてきとーな感覚。

 

はい、この辺りでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。

 

 

 

 

在るなし

 

 

早番から遅番の切り替わり。やたらと眠くてたくさん寝たが微妙に嫌な夢を見た。嫌な夢の舞台はいつも親族周り。

 

またも何かの集まり。停めてあるワゴン車の中で本を読んで居たら、何か荷物(飲食物)を運ぶらしい。何気なく親切心で持ったら、「そんなの当たり前だろう」と言われて萎える。移動時はちょっと楽しい。ワゴン車の後ろに1人用の自動運転の近未来的なフォルムの車が三列縦隊で並んで付いてくる。景色も良かった。

 

その後、大き目の部屋で宴会の準備が始まる。1人1人なんだかんだ自分の食べる分を取り分けているのだが、僕のお皿はなんだかんだ空っぽ。小さいポリ袋に入ったまるごときゅうりを持って歩いていると、叔父さんが、「この場には気分が変わっているところが一箇所あるがどこか分かるか?」と大っぴらに問い、注目される。思わずきゅうりを置くと、叔母さんに「きゅうりを隠して」と言われ、「いや隠してない」と返しつつ、内心、「どういう意味の気分だ、気分で色々あるけど、、、」とか考えていて、言葉を発する前に夢が終わる。

 

従兄と遊ぶのは楽しかったし、叔父さん叔母さんも別に悪い人達ではないが、微妙な不自由な磁場が苦手だったのだろうな。自由な振る舞いは赦されておらず、心地良さは演出、みたいな感じ。まぁ実際の歴史では割と飄々と過ごしていたが、僕が無口でぼーっとしているのは、基本的に自由な発言が赦される場がないという残滓な気がする。大丈夫な人に対しては結構話す。

 

グルーミングとしての言葉が扱えない。

 

 

そんな感じで、発言について思索する出勤の道すがら。暴風に舞う霧状の雨に、傘差してもあんまり意味ないなぁって感じつつ。自由な言葉を赦す教育論ってあるのか。言葉は思考自体ではないが、思考を可視化する道具ではあって、この道具の扱いを義務教育の中で教えることは可能かというところ。

 

僕が受けた学校教育だと、挙手であれ事前に当てられているのであれ、問いに対する発言しか赦されていない。音読も教科書の文字という正解をなぞる(僕は詰まるはどもるはとても苦手だった)。こんな中、道徳とか倫理とか時々、グループで自由に発言するとかいう場が設けられたとしても空気的な意味での正解の発言ができるだけで、自由な思考(言葉)を促すことはできない。集団の中で安全を図らないといけないという意味での不自由もある。

 

シュールレアリスムとは何か」の「ユートピア」の話で、人が一番不自由なのは自分が自由だと思っている時だというフレーズ。自由は与えられるものではなく獲得するものだとか。

 

今日立ち読みした本で面白そうなのがあった。「ネガティブ・ケイパビリティ―答えのない事態に耐えられる力」。個人的にはここに自由があるような感じ。人間はまだどういう局面においても真理に辿り着いていない。辿り着けない存在であるでも問題ない。

 

まぁ、これを醸成するような教育をしたら国家が成り立たないという危惧はありそう。そんな人材は教員にはならずに学者になっているという節も。大学から先との区分けなのか。自分で問いを創造する自由。

 

初等教育において何を習得させるべきかという問いも面白い。

3くらい昔前は「読み書きそろばん」で、今はどうなっているのだろう。コンピュータサイエンスとかネットリテラシーとかもやっているのだろうか。高校はよりけりだろうけど、共通一次が、国・英・数、あと歴史とか政治経済とかか。今もやっているのかは知らない。

 

教養として知っておくべきこととすると、歴史とか政治経済は国家としての功罪の文脈として教えられるべきだけど、巧妙に暗記科目として無味乾燥になっている。人の性質は不変だから歴史は繰り返すみたいな教訓はオブラートに包まれて。

 

統計学は最高の学問だ」で、数学教育統計学に合わせて再構築すベき、という主張があった。たしかに、数学という学問が現実世界においてどう使えるのかという意味合いで理に適っていると思う。経験則としての主観を一般まで拡げるよりよほど目が開くはず。

 

法学をどう扱うかという話も考える面白い。

憲法前文を暗唱させるなんてもってのほか。憲法が素朴に正しい訳でないというのは現代の若い人なら空気で感じているはず。学校でやったとしても、きっと劇場感というか他人事になる。

 

法学を今からしようとしているオトナに対する入門書として推せる書籍を考えているのだが、教養としての法学本ってあんまりないんだよな。基本的に資格試験向けのニーズがあるから、法を思考する取っ掛かりではなく、現代の法の正しさが書かれている。

 

自由の概念の誤解を解くような本って、おそらくロックとかルソーとかホッブスとかの自由を獲得しようとしていた時期の本(まだ原典は読んで居ないけど)。違う分野で同じことをしているというのも面白い。

 

法の思想の原初は社会哲学みたいなところにあって、人が従うべきルールという発想ではなく、統治者が設定すべきルールとはというのがもともとにある。という感じ。

 

法的(ルール的)判断は普通の人がやっているという話は面白かった。あの本のタイトルなんだったっけ。それをなるべく普遍的にしようとする学問が法解釈学。もっと具体的な話は聞きたい人が在ったらするという感じ。

 

集合的な主観を問題としつつ、判断は個人(裁判官)がするから、裁判官の個人的な感情で何かしている訳でもない。距離感。

 

文字離れしている昨今、判決も動画化になるのかもしれないな。

文字というメディアは現実感からしたら時代遅れなような。もはや芸術の領分。伝達の領域で言葉を遣ってイマドキでもないような。知らんけど。

 

 

僕はグルーミング的な言葉を扱えないし、誰に共感されるような文章も書いていない。でも、どの時系列でも存在として認知してくれる人は居る。これをなんとなく申し訳ねぇと想う。

 

存在の認知を自己だけで確立できているから。

だから、人と接するのが楽しい。

 

表現としての作品が自分の存在を主張するものだという観念というか壁を越えたら、僕も存在として創造できそう。小説も詩も作法はまったく知らないし、共感(スキ)を集めることで存在している訳でもなく。だったらとっくに萎えている。

 

僕は自分の中に在る人の存在はだいたい赦しているから、相手がどこまで赦してくれるのかが問題になる。自分劇場の経験則として捉えない人なら良き。

 

僕は存在するために動いている訳でもなく、存在とは連動せず動いているだけ。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

無定義

 

 

日曜日はだいたい筋肉痛

 

 

朝ごはんは、椎茸と鶏皮と卵で雑炊。胃に優しいとされているが、何かを休めるときに最も有効なのは、そもそも活動させないことなのに、胃腸については何か食べないといけないとして常時稼働させている節がある。単に食べたかったから作ったのだが。

 

昼はパスタ気分と甘味の舌。コンビニで平らな明太子クリームパスタとティラミスを買った。水2リットルと、アイスカフェラテも。ビニール袋も買ったのだが、店員さんは新人っぽくてどう入れるかのパズルにあくせくして、フォークもスプーンも入れなかった。想像力は義務では稼働しない。全然怒っている訳ではない。それくらいの食器は家にあるし、必要な時は貰うし。馴れたら経験則が積まれてその分余裕もできるかもしれない。乞うご期待。

 

コンビニの店員さんって色んな人が居て面白いよな。

特に何も求めていないから観測できるというだけ。

 

日曜日は基本的にごろごろ助。現実とかインターネット世界とかアニメ界とか漫画界をごろごろする。

 

ふと気づいた、苦手なインターネットの記事。目次があるのと、画像が文章の合間に挿入されているもの。読みやすくする配慮であることは分かるが、これは個人的な配慮というより、定型という気がする。

 

目次の付け方、知らない。JavaScriptでもクリックしたらその文字が表示されるという赤ん坊のハイハイくらいのレベルだし。まぁたぶん機能としてハイパーリンクみたいなものだとの想像。たぶん、紙媒体の書籍を模倣しているのだろう。個人的には書籍でもあんまり目次を気にしていないから、目に付くというところもある。ただ、おそらく書籍の目次って、往復できるという機能の為のはず。インターネットの目次は一方通行だからなんか変な感じ。

 

僕が表題より中身を食べることを読むことだとしている偏狭な性質だというだけである。目次飛び飛びで食べても味気ない。情報の記事だとしてもそこだけ読めばいいというものでもなかろうし。

 

 

画像の方はまた別。インターネットの文章は視覚優位で眺めるものだとしている人にとっては何処にいった、何をした、を画像として表現された方がスムーズだし、ニーズにはあっているはず。

 

世界を味覚的に捉えているからニーズが合っていないというだけなのだが、その画像分も文章で表現してくれた方が感官を切り替えなくて良い。なんだか表現をサボってないかという感もあり。とか言いつつ僕も画像を貼ることを採り入れているが、記録としてではないのだよな。言葉を省略できるものとして使っていない。

 

 

ところで、もはやLINEでやりとりしている人は1人しか居ない(独り占められ)のだが、相手にスタンプばっかり送っている昼間は何を考えているのですか、と問われて、何も考えていないと返すしかない。

 

スパイのアニメを見ていた本日。原作で省略されていたお城のボンドマンの下りが最高に楽しかった。流行るのも分かりみ。

 

何も考えていないというのは、ほんとにぼーっとしているとかではなく、意識としての言語的な思考のスイッチを切っているだけで、脳は運動している。意識が考えることは基本的に自分のことだし、語彙も自分の範囲内。何も考えないように意識が操作できることはない。考えているという意識が存在だし。僕は、意識(言葉)を介さない思索の方がよく考えているし世界を観測しているのではという説があり、おこぼれを言語化しているだけという節がある。

 

理論物理学者が書いている本の中に言葉の起源についていくつか説があるという話があった。グルーミングの延長だとか、言葉によって経験則を越えた想像力(神話)としての共通項を得るためとか諸々。面白いなとおもったのが、言葉は内省から始ったというチョムスキー氏の説。馴染む。外と疎通する為の語彙って、そんなに要らない。喜怒哀楽とか事実の描写で勝手に相手の中での言語に変換してくれるし。

 

昨日書いた左川さんのように、自分の中の世界に何があるのかを発見するための道具が言葉(概念)であって、正しいことを識る為のものでもない。そうやって僕は自分のことを分かってきたらしい。

 

僕は左川さんを詩人のひな型と捉えている。ほんとうの詩人の言葉は透明で、時間が無い。共通項を容易く言葉に求めない。それでも人と繋がっている。

 

 

そうして、昨日の理性と感性の話の続き。

あんまり言語化したくないらしい。渋っている。この微々も宥めつつ。

 

僕が法学の資格試験をドロップアウトしたのは、正解を照らし合わせることが詰まらなくなったことがある。思索は正解を求める運動ではないし、過去の情報が未来を決めることはない。

 

そもそも、理性も感性も無定義のなんとなく感じの語用で使われている。

まぁ言葉は使うものであって考えるものではないから、なんとなく他の人が使っている感じを倣って正しいとするものだし、そういうもの。

 

僕はこういう無定義の言葉を正しいと想えることがなんとなく違和なのだが、まぁ良いとしとて。(「感性」で記事検索したらちょっと胃がムカムカした)

 

理性とはなんぞやという一般的語彙を想うに、きっと、正しい判断をすることになる。経済学でいうところの合理的人間性。正しい情報があるのだから正しい選択ができるというよりするべき。

 

こういう誤解は人がインスタントな正解を求めるというニーズによるものだろうが、義務教育の罪でもありそう。正しさを覚えたところで未来には使えないでしょって判断できるのがほんとうの理性のような感じ。

 

学問の本質を語るほど読んでないが、法学は割と読んできたから絞る。

 

法律のルールは、法学教育のない政治家が作っている感じがありつつ、まさに理性の領分ではある。

 

感性で人を排除してはいけないという集積を学問してきたのが法学であって、ルールの公平性を問題としている。未来でも適用できるルールとは何ぞやという学問。王様の気まぐれで犯罪とかの悪いことが決まったらたまったものではない。

 

感性的に犯罪を捉えたら自分の属性とか依る場によってころころしてしまう。

刑法の役割はいまの被害者を救うのではなく、未來の被害者を減らすこと。法学の言葉の扱いはほんと独特だが、統計的に言葉を扱うなら仕方がない。理性的な言葉ルールは、目的によって解釈が変わる。

 

で、感性という概念。ほんとに主観的な感性はきっとない。だって感性が独特であると認定される為には観測する他者ありきだし。感受性だってそう。何かと繋がっているから受けられる。だから、主観を誰かに認められたくなる。

 

言葉で自分を捉えている限り、ちゃんと誰かと繋がっているから安心して良き。

 

どうでも良いが、天星術では、僕は「新月」らしい。生まれた年と日で決まる。繊細で芸術的センス(?)があるとかなんとか。ちなみに高校のクラスで同じ誕生日の人が2人居た。そんなもの。あの2人、芸術的な界隈で生きているのだろうか、なんにせよ、恙なかったら良いな。

 

 

ついでに、人がどういう空間軸で生きているかという本も読んでいる。

絵画(ポスター)において平面なのか、空間なのか、宇宙なのか。

 

これは素朴な人にも通じそう。

言葉をどういう軸で扱うか。

 

 

体を動かさないことによって、自分の動きを捉える。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

山と森

 

 

 

紫陽花の染まり始めのグラデーション

予感を肴に飲むビール

喉越し音は森に吸い込まれる

 

 

 

本日は山に登って反対側から降りてきた。全部徒歩。

 

 

朝起きて、うどんを茹でて昨日の残りにタルタルソースにめんつゆを少し足して和える。美味しい。コーヒーを飲みながら大阪の紫陽花スポットを吟味。とはいえ、どこの見頃ももう少し先らしい。長居公園がフェアをやっているみたいだが、ユートピアみたいな人工的に調えられた自然の気分ではない。もちろんこれはこれで良い。一種の自然を使った芸術作品みたいなものだし。

 

その中で、ハイキングコース40分というフレーズに惹かれたスポット。なんだかかんだ最初に目に入った所だった。最寄り駅から1時間くらいで駅に着く。近鉄線の生駒駅。下調べせずに勘違いしていたのだが、本当は、ケーブルカーに乗って山頂に行ってからの40分だった。コンセプトが「予定はざっくりとしか立てずになりゆき任せで、目的の達成不達成を問わずとにかく楽しむ」だからなんの問題もない。

 

駅を降りて道路脇の斜面を登る。1人しか通れない歩道だが、何人か行き交う人は避け方が慣れている。きっと地元の人。斜面でも家がいっぱいある。この辺に住んでいる人大変だろうなと想ったが、住めば都なのか。車道はあるから移動は事足りる。こんなところに生まれた子供は健脚になりそう(なった)。

 

そこから唐突に登山道。といってもケーブルカーの路線沿いだからいつでもドロップアウトはできるという補助線付き。あと、個人的には石段みたいな道が足裏にダメージ。トレッキングシューズの導入を本格的に考えるべきか。土の道だったら問題ないのだが。

 

人の密度は低いが、降りてくる人が挨拶してくる。もちろん返す。

ハイキングは陽の趣味なのか。

 

アクティブなのか、もやしの陰の者なのか意味分からんと最近言われたことが意識に浮かんでくる。なにせ僕の見た目は山登りをしたり、街中で10キロとか歩くようなフォルムではないもやし体型。触れば中には柔らかな筋肉があるし、これでこと足りる遅筋。自然で1人になりたい性質は植物的という意味では陰だが、日の下の行為であってややこしい。行き交う人に敬意を払う挨拶も好きかもしれない。僕の中の陽の者は、実は仲間しか人と捉えない日の下で活動している陰の者的な節がなくもない。

 

登山は、ほんと汗だく。重力を体感する。道中の脇にある石に遊び心を持った人が石と葉っぱでへのへのもへじ様の似顔絵を創っていて、ほっこりできるくらいには余白があった。

 

という感じで山頂に辿りついたら遊園地だった。陽の者の密度が一気に上がる。行き交う人に挨拶しているいとまもすきまもない。登山で発生した熱を発散させるための暖かい汗と、お腹の調子が悪い冷や汗が一緒に流れていたから、トイレ休憩には良かった。ビールの自販機もあったのだが、アサヒ一色でおおぉ、陽の者(とりあえずビールの者)のビールしかない。ふもとのセブンイレブン一番搾りを買っておいて良かった。

 

ここから1時間程迷子になるのだが、省略。

 

やっと40分のハイキングコースに辿り着く。道が土で安心。足と心が元気になる。40分もかかってない。たぶん半分くらい。あじさい園だかルートだか。全然整備されていないのがほんと好き。一応車が通れるようなアスファルトはあるのだが、車の気配はない。人の気配もほとんどない。

 

たぶんあと1,2週間したら凄いことになるだろうなという紫陽花群の予感。これだけの量のすっぴんの紫陽花を見ることもないだろうし、人が居ないことで楽しくなる。稀に先走って一色になっている方もおり、「ありがとうございます」と呟く。森の音に吸収されて誰も僕のことを変な目で見ることはない。

 

自然に行くことをレジャーとして捉える人っておそらく何かエネルギーを得るみたいな感覚があると想像するのだが、個人的には、現世での溜りを発散させてくれるという感覚。好きなものは好きで良いし、ありがたいことはありがたいで良いという、きちんとした循環という自然の秩序に浸れる。

 

人間の秩序にとって、自然はきっと無秩序に見えるはず。ナマの蛇とかオオスズメバチとかもいらっしゃった。池には僕の握りこぶし2つ分のカエルさん。オタマジャクシもいつも5倍くらい大きい。

 

この辺りで想っていたのが、「1人で謳歌できる人は2人でも謳歌できる」というフレーズ。

誰かと生きて減るものはないように生きられる。

 

そうして、アジサイロードが終わると、勝手知ったる我が家みたいに、実家の道ととても良く似た道でまた楽しい。どっちに行ったら駅があるのだと看板を凝視していたら、地元民っぽい自然を愛でてるハイキングのお爺さんが話しかけてくれる。

 

「どこに行きたいのですか」

「どこでも良いから駅に行ければ」

「そしたらあっちの道路を3キロくらい行けば駅に着きますよ」

「ありがとうごぜぇます」

 

徒歩3キロくらいほんとすぐという感覚。ただ、来た道を3キロ戻るのは精神が萎えるかも。物理的な距離でさえ、現実的な感じ方によって伸縮する。現実的相対性理論

 

見知らぬ人と会話できるというのは「陽の者」の性質なのかもしれない。

でも、会話という語義で捉えるなら、インターネットに綴られる独り言だって会話みたいなものだし、陰陽に厳密な区分けは無い。

 

下山道、やたらと寺とかお賽銭を投げるところがあったから、財布に貯まった5円玉を流してきた。実生活で現金はあんまり使っていないのだが、ふと気づくと5円玉が増えている。1説としては、ローソンのハニーラテを現金で買うとご縁が増えるのでは。

 

ついでにそのまま帰るのがなんだかもったいなくてエヴァ初号機が暴走するのではと、パチンコ屋さんに行ってみたが、1人で行くとお賽銭になってしまうらしい。暴走は全くなく、社会にいくらか流した。お賽銭よりは合理的。隣の隣の人がバンバン叩いていて、怒ったところで当たらんですしとか。

 

トータル、とても楽しい1日でした。

保持するより循環が好き。人の実生活も留まっているとも捉えられるが、循環とも解釈できる。

 

思索パート。

 

たまたまnoteで流れてきた記事。理性によって感性が阻害されるという主張。受験生でお勉強が理性を担っていると捉えるしかないから仕方がないこと。感性が詩作にあるというのは目の付け所が良き。ただ、個人的には理性と感性は排他的な関係にはない。

 

左川さんの散文で、詩は言葉の勉強をした上で、思唯の言葉で空間を満たすことというフレーズがあった。何かを感性で捉える為には語彙が要る。

 

言葉を担うのは理性の領分だから、感性を表現する為には理性のバランスがあってこそ。何かを創造(想像でも良い)する余白はなく自分劇場の主人公であることが手一杯という人は多くて、そういう人の見解に依拠する必要はない。

 

まだ先があるのだが、今日はここまで。

 

誰かを否定しても自分は肯定されない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

赦し



 

 

怒りっぽい人は、きっと自分のことを赦していない。

あくまで感情は自身のものでしかない。

 

 

さておき。

 

毎月ある月初めの繁忙期の一週間が終わったのだが疲れていない。物理的な疲れで言えば先週土曜の和歌山駅周辺ひたすら徒歩の方が疲れるし、現実的に仕事で疲れるべきという固定観念はないないした。神経を使うということはあるかもしれないが、割と恒常的に神経は張っている。歩いていて、後ろから自転車来ているなーとか。スーパーの店員さんのかごの置き方の癖とか。

 

人は忘れる物だという観念もないないしつつあるかもしれない。

そうそう、全盛期、世界がこんな感じだったって。

 

昼休憩、1週間の総括でもないが、「牛乳の消費期限を見てから後の物を買う行為」は苦手だと想った。この5日で2回そういう人をスーパーで見かけたし、一昨日読み終わった「アフターダーク」の高橋さんと白川さんもやっていた。

 

なぜ苦手かというと、合理性を全然感じない。なるべく新鮮な牛乳を入手したいと言っても結局買った後に劣化していくし、消費期限の前に飲み切るはずだから、あくまで個人的な感情の満足の為。もちろんその選択の自由はあるのだが、それもあくまでスーパーの設備的な要因なだけ。牛乳はきっと売れるとしてもなんというか、全体的な経済的な行為ではない。

 

食品ロスとかいう話でもない。僕はエコロジストでもないし。単にそんなことに注意を向けることが大事だとしたら、色々個人的な感情を基準に損切りしそうだな、苦手だなと想っただけ。牛乳だけにこだわりがあるのかもしれないという説も、こだわりがあるのであれば、イマドキスーパーを購入する場所に選ぶだろうか、通販とか生協とか他にたくさん選択肢があるはずで(関心があんまりない)。

 

自分だけ特別という観念は問題ないけれど、特別をここで発揮するのはどうなのだろうというだけ。

 

そんなことはどうでも良くて、美味しい話。

 

休日に凝った料理を作れるというのは余白が多いからだよなということに倣いたくなる微々たる情動を甘やかす。昼休みに苦手を眺めつつ、チキン南蛮の舌になっている自身を観測したため、甘やかすことにした。僕は自身の意識と微々たる衝動は分かれているとしている。僕の意識は別に何を食べても良いが、あんまりそれをすると体調悪くなる。微々はほんとに食べたい物を欲している。

 

という感じで、チキン南蛮のレシピを検索し、昨日切れたマヨネーズ以外の調味料はは全部家にある、OK。スーパーで鶏もも肉とマヨドレ(卵を使っていないマヨネーズ)を買う。

 

完成品は、使い回しの画像の通り。

我ながらほんとに美味くてびっくりする。基本レシピ通りには作らない、というか、料理は生活に含まれるものであって、これだけ作れば終わりではないから無駄になぞらえることはしないだけ。

 

タルタルソースは玉ねぎのみじん切りが基本だが、料理を生活的に作っている層なら知っての通り、いまは玉ねぎがやたらと高い。残った長ネギで代用。レシピには牛乳も入れるらしかったが、長ネギ使っているしうちのお酢もマイルドだから省略。甘酢ダレの調味料に挙げられている「みりん」。常備してなくて、料理酒も切れている。なので、酒盛り用に買っているクラフトビールよなよなエール)と砂糖で代用。

 

小さめとは言え鶏もも肉1枚をさっくり食べてしまった。

僕の中にある微々も満足満足。

 

自分を甘やかすにも修練が要るらしい。

僕の微々はかなり分かりにくいから、こうやって小さな満足で安心させることによっていずれ大きな願望(野望)も見えるようになってくるのではという試行。

 

ここから冒頭へ繋がる。

 

怒る人って、老若男女問わず居るが、同じ現象があったとしても怒る人と怒らない人が居る以上、人一般の性質ではない。ついでに言うと、自由な人だから怒れる訳でもないってずっと想ってきた。

 

僕の根っこに刻まれた苦手に「怒号」もある。母親がそんな人で、やたらとわめくというか音量が半端ない。ここで自分もそういう風になったらわめいて良いんだってインストールされるべきだったのかもしれないが、そうはならなかった。衝突して相互理解が深まる、「雨降って地が固まる」の、意味が分からない。

 

長く過ごした恋人さんが浮気して関係がぼろぼろになった時に、第三者的な先輩が、張ったおせば良い、怒れみたいなことを言っていて、さらに混乱。

 

怒られた相手がすることは恭順か反発しかなくて、感情が吹き上がっている時に理性は働いてない。

 

仕事でも吹き上がるお客さんというのは居て、何かを訴えたいときに怒号を上げることで伝わると思うって、甘えでしかない気がする。

 

本日、怒号があったという話を見てふと思ったのが冒頭文。

他人事は自分事だから、自分を振り返る。怒りという表現を外に対してしないが、当時を振り返ると、僕が赦せなかったのは自分だった。浮気をさせるくらいに大事にできなかったことに怒りがあるのだから、相手を張り倒したところで何も改善されない。

 

怒りを表現して良いというのが甘えん坊の精神性だというのは、変な話、赤ん坊の泣きわめきとの類似があるから。赤ん坊が癇癪を起こすのは、外界(自身の体の違和も含め)が不協だからであって、外のがどうかというより、自分が外に馴染んでいないことが原因。

 

そうして、僕が楽しく生きられていることになったのは、自分を赦したからなのだろうな。

ずぼらでてきとーで、人と共感的な世界観では生きられないのに人の事は残っているし、選別が曖昧。

 

人に何も期待していないから怒らなくて済むという説もある。こっちの方が理性的で自他を個別的に捉えていて良きとは思う。期待とは、あくまで自分劇場の世界観であって、相手の劇場を捉えていない。

 

 

自己の存在を赦すのは、誰か(例えば神様)に赦されるみたいな他責的なことではないし、スピリチュアルでもなく、ちゃんとただの自分を赦すこと。昨日の話と繋げると、説明がつかなくても良い。

 

自分を赦したら他人を赦せないという観念は起こらない。

 

ちょっと穿ってみると、何かに成らないといけないという目的も自分を赦していない故の衝動なのかもしれない。資本主義というかいまの社会システムはそういう意味でよくできている。

 

シュールレアリスムとは何か」で、ユートピアの世界観だと人は交換可能な機能になるという話があった。経歴でしか自分を語れない日本がユートピアとかなんとか。

 

たしかに、みんななにかになりたくなっているのがいまに日本なのか。

 

外から見た「何か」で存在するより、そもそも自分の存在は何なのかの方が大事と想うけど、個性が捨象されている。

 

まぁ、他人の個性なんて気にする余白がないのは分かる。赦しの概念は学校でも会社でも教えてくれない。外からの正しさに依拠するのは牛乳の消費期限を気にするくらいのものだと思っているけど、ある程度正しさを習得した上のものだから、完全なアウトローとも違う。

 

はい、ここまで。

 

赦せますように。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

説明

 

 

明日で今週の仕事も終わりか。来週も行くのだが、今週末も紫陽花を見に行く目論見。何回眺めようが鮮やかさは変わらない。来週は愛知で場所も決まっていて、今週は鈍行カードで何処に行くかは決まってない。行ったことがないところということは決まっている。アジサイとビールはなんだか合いそうだから、乾杯できるところが良いな。

 

僕の文章で言うところの現実的と物理的の違いは何ですかと問われたが、出勤で歩いていたからまとまった文章が綴れる環境ではなかった。割と微妙な区分けではあるが、重なる部分もあり離れている部分もあるというベン図のイメージ。

 

物理的というのは、物理法則に支配された世界で、物を投げたら落ちるし、エネルギーを加えても重力と摩擦で止まるから燃料を与え続けなきゃいけないというある程度、相互理解がある世界観。ただ、この世界がほんとに分かりやすく予測が付く世界なのかというと天気予報然り、微妙なところ。

 

現実的は知られた物理法則以外に主観が構築した世界が含まれる。物理的な法則になぞっている部分もある。蒸気機関みたいに、やる気とか意志のような燃料が必要だとされるところ。物理としての人間の仕事量を決めるのはカロリーしかないはずだが、非物理の要因で運動量が変わるという世界観は重なりつつずれている。

 

文例としては、「物理的に動けるのに現実的には動けない」とか。

人は物理的な人間すら使いこなせていない。思考に使われるカロリーは将棋の棋士みたいなプロでない限り微々なはずだが、現実的な部分がすぐ疲れてしまう。

 

人って自分の言葉の外の意味は気にしても、中身は気にならなくて、自明だとしているところがある。そこに注意できる人の文章って何か違う味がある。まさに歴々の哲学者ないし詩人とか、歌人もそうなのか。

 

 

苦手で語る自己紹介。

 

僕について、「苦手なものが多いイメージ」と評された。たしかにその通りだと思う。辛い物も苦手だったし、コーヒーも飲めなかった苦苦手だったし、文章を書くのも苦手だったし、セロリもパクチーも苦手、料理を作るのも苦手、とろみ付けも苦手、エトセトラ。

 

ここまで列挙したのは、既に苦手ではなくなったものごと。むしろこれは僕が元来苦手だったということではなく、馴れて居なかっただけ。それが得意・好きだった人との相対からしてこの評価になっていて、運動してみればそんなことはなかった。

 

要は、苦手というのはまだ行っていない領域みたいな意味合いでしかないのでは。

行ってみて苦手だったものってあまり意識されていない。

 

いまの苦手を列挙してみる。

 

固定観念」、「偏見」、「断定」、「心配」、「機嫌によって価値が変わる」、「強めの香水」、諸々。

なかなか観念的なところだが、括ってみれば「(一般的な)人」が苦手ってことにならないか。個人的に人に馴れてはいけないという価値観があるから、一生苦手かもしれない。

 

ほんとに苦手なことあった。「満腹」。空腹が最高のスパイスだったら、満腹は言わずもがな最悪。

 

三者の何が良くないかって、もはや他者を取り込めない満腹状態だから、お喋りができない。でも、それほど確固とした観念を持ち合わせている人格もそんなに居ないのではという説もある。だって、物理法則すら、一意で未来を決められないのに、社会とか文化とか医学的見地で正しさなぞ決まってない、更新可能性があるもの。

 

強固だと思えている人は外が変化すれば容易く観念が移動される。

こんなのに付き合う筋合いはない。

 

理屈とはなんぞやということがふと浮かぶ仕事時間。

法学がまさに理屈の学問なのだが、一意に正しい理屈があるのであれば世界はこんなに複雑化されていない。

 

何か現実化した結果についての説明の道筋が理屈・論理だとしてみたら、説明の仕方は一意にはならないし、説明をする視点によりけり。現象は1つだとしても説明する言葉は無数に在る。

 

いや、僕は法学のお勉強を辞めたことで、法学の言葉によるルール化のことは好きなのだろうなと想った。共通項にするためには曖昧にするしかない。

 

論理的な共通項としての説明としての言葉は、その説明が他の現象にも通底できること。1つの現象を筋道通して説明できるような次元ではないということ。

 

説明としての言葉はなんとでもなる。個人として大事なのは不文の一貫性。

ふらふら迷子になっているが、人格はもとから動いていない模様。

 

僕は別にこの社会の固定観念に倣っても人生劇場を謳歌するくらいの器はあったのに。

苦手だからと言ってできないわけではないし、特に何か現実的にずれている訳でもない。

 

トラウマではなく遺伝子レベル。

 

そんなこんな、「アフターダーク」読み終わって、次はどうしようかとなる本日の昼休憩。

 

文庫本にはあまり惹かれなくて、ハードカバー棚。伊坂さんの最新刊を買って村上チルドレンの世界観にしようと思ったところ、なんとなく物足りなくて、上橋さんにした。

 

上橋さんの作品は個人的に、安心のライトノベルという読み味。

ここで言うライトノベルは別に悪い意味ではなく、世界観が現実とは離れているという意味。作者の恣意では世界が動かないくらいの別世界が確立している。

 

香りに敏感な血筋みたいな話らしい。遺伝子。

「香りの声がうるさい」っていうフレーズはなんとも良い。

 

残業あったのにもぞもぞしたりJavaScriptやっていたりしたから日記時間が減ってしまった。申し訳ねぇ。(そんなこと思ってねぇ。笑)

 

続きはまた今度。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。