怒りっぽい人は、きっと自分のことを赦していない。
あくまで感情は自身のものでしかない。
さておき。
毎月ある月初めの繁忙期の一週間が終わったのだが疲れていない。物理的な疲れで言えば先週土曜の和歌山駅周辺ひたすら徒歩の方が疲れるし、現実的に仕事で疲れるべきという固定観念はないないした。神経を使うということはあるかもしれないが、割と恒常的に神経は張っている。歩いていて、後ろから自転車来ているなーとか。スーパーの店員さんのかごの置き方の癖とか。
人は忘れる物だという観念もないないしつつあるかもしれない。
そうそう、全盛期、世界がこんな感じだったって。
昼休憩、1週間の総括でもないが、「牛乳の消費期限を見てから後の物を買う行為」は苦手だと想った。この5日で2回そういう人をスーパーで見かけたし、一昨日読み終わった「アフターダーク」の高橋さんと白川さんもやっていた。
なぜ苦手かというと、合理性を全然感じない。なるべく新鮮な牛乳を入手したいと言っても結局買った後に劣化していくし、消費期限の前に飲み切るはずだから、あくまで個人的な感情の満足の為。もちろんその選択の自由はあるのだが、それもあくまでスーパーの設備的な要因なだけ。牛乳はきっと売れるとしてもなんというか、全体的な経済的な行為ではない。
食品ロスとかいう話でもない。僕はエコロジストでもないし。単にそんなことに注意を向けることが大事だとしたら、色々個人的な感情を基準に損切りしそうだな、苦手だなと想っただけ。牛乳だけにこだわりがあるのかもしれないという説も、こだわりがあるのであれば、イマドキスーパーを購入する場所に選ぶだろうか、通販とか生協とか他にたくさん選択肢があるはずで(関心があんまりない)。
自分だけ特別という観念は問題ないけれど、特別をここで発揮するのはどうなのだろうというだけ。
そんなことはどうでも良くて、美味しい話。
休日に凝った料理を作れるというのは余白が多いからだよなということに倣いたくなる微々たる情動を甘やかす。昼休みに苦手を眺めつつ、チキン南蛮の舌になっている自身を観測したため、甘やかすことにした。僕は自身の意識と微々たる衝動は分かれているとしている。僕の意識は別に何を食べても良いが、あんまりそれをすると体調悪くなる。微々はほんとに食べたい物を欲している。
という感じで、チキン南蛮のレシピを検索し、昨日切れたマヨネーズ以外の調味料はは全部家にある、OK。スーパーで鶏もも肉とマヨドレ(卵を使っていないマヨネーズ)を買う。
完成品は、使い回しの画像の通り。
我ながらほんとに美味くてびっくりする。基本レシピ通りには作らない、というか、料理は生活に含まれるものであって、これだけ作れば終わりではないから無駄になぞらえることはしないだけ。
タルタルソースは玉ねぎのみじん切りが基本だが、料理を生活的に作っている層なら知っての通り、いまは玉ねぎがやたらと高い。残った長ネギで代用。レシピには牛乳も入れるらしかったが、長ネギ使っているしうちのお酢もマイルドだから省略。甘酢ダレの調味料に挙げられている「みりん」。常備してなくて、料理酒も切れている。なので、酒盛り用に買っているクラフトビール(よなよなエール)と砂糖で代用。
小さめとは言え鶏もも肉1枚をさっくり食べてしまった。
僕の中にある微々も満足満足。
自分を甘やかすにも修練が要るらしい。
僕の微々はかなり分かりにくいから、こうやって小さな満足で安心させることによっていずれ大きな願望(野望)も見えるようになってくるのではという試行。
ここから冒頭へ繋がる。
怒る人って、老若男女問わず居るが、同じ現象があったとしても怒る人と怒らない人が居る以上、人一般の性質ではない。ついでに言うと、自由な人だから怒れる訳でもないってずっと想ってきた。
僕の根っこに刻まれた苦手に「怒号」もある。母親がそんな人で、やたらとわめくというか音量が半端ない。ここで自分もそういう風になったらわめいて良いんだってインストールされるべきだったのかもしれないが、そうはならなかった。衝突して相互理解が深まる、「雨降って地が固まる」の、意味が分からない。
長く過ごした恋人さんが浮気して関係がぼろぼろになった時に、第三者的な先輩が、張ったおせば良い、怒れみたいなことを言っていて、さらに混乱。
怒られた相手がすることは恭順か反発しかなくて、感情が吹き上がっている時に理性は働いてない。
仕事でも吹き上がるお客さんというのは居て、何かを訴えたいときに怒号を上げることで伝わると思うって、甘えでしかない気がする。
本日、怒号があったという話を見てふと思ったのが冒頭文。
他人事は自分事だから、自分を振り返る。怒りという表現を外に対してしないが、当時を振り返ると、僕が赦せなかったのは自分だった。浮気をさせるくらいに大事にできなかったことに怒りがあるのだから、相手を張り倒したところで何も改善されない。
怒りを表現して良いというのが甘えん坊の精神性だというのは、変な話、赤ん坊の泣きわめきとの類似があるから。赤ん坊が癇癪を起こすのは、外界(自身の体の違和も含め)が不協だからであって、外のがどうかというより、自分が外に馴染んでいないことが原因。
そうして、僕が楽しく生きられていることになったのは、自分を赦したからなのだろうな。
ずぼらでてきとーで、人と共感的な世界観では生きられないのに人の事は残っているし、選別が曖昧。
人に何も期待していないから怒らなくて済むという説もある。こっちの方が理性的で自他を個別的に捉えていて良きとは思う。期待とは、あくまで自分劇場の世界観であって、相手の劇場を捉えていない。
自己の存在を赦すのは、誰か(例えば神様)に赦されるみたいな他責的なことではないし、スピリチュアルでもなく、ちゃんとただの自分を赦すこと。昨日の話と繋げると、説明がつかなくても良い。
自分を赦したら他人を赦せないという観念は起こらない。
ちょっと穿ってみると、何かに成らないといけないという目的も自分を赦していない故の衝動なのかもしれない。資本主義というかいまの社会システムはそういう意味でよくできている。
「シュールレアリスムとは何か」で、ユートピアの世界観だと人は交換可能な機能になるという話があった。経歴でしか自分を語れない日本がユートピアとかなんとか。
たしかに、みんななにかになりたくなっているのがいまに日本なのか。
外から見た「何か」で存在するより、そもそも自分の存在は何なのかの方が大事と想うけど、個性が捨象されている。
まぁ、他人の個性なんて気にする余白がないのは分かる。赦しの概念は学校でも会社でも教えてくれない。外からの正しさに依拠するのは牛乳の消費期限を気にするくらいのものだと思っているけど、ある程度正しさを習得した上のものだから、完全なアウトローとも違う。
はい、ここまで。
赦せますように。
おやすみなさい。