無定義

 

 

日曜日はだいたい筋肉痛

 

 

朝ごはんは、椎茸と鶏皮と卵で雑炊。胃に優しいとされているが、何かを休めるときに最も有効なのは、そもそも活動させないことなのに、胃腸については何か食べないといけないとして常時稼働させている節がある。単に食べたかったから作ったのだが。

 

昼はパスタ気分と甘味の舌。コンビニで平らな明太子クリームパスタとティラミスを買った。水2リットルと、アイスカフェラテも。ビニール袋も買ったのだが、店員さんは新人っぽくてどう入れるかのパズルにあくせくして、フォークもスプーンも入れなかった。想像力は義務では稼働しない。全然怒っている訳ではない。それくらいの食器は家にあるし、必要な時は貰うし。馴れたら経験則が積まれてその分余裕もできるかもしれない。乞うご期待。

 

コンビニの店員さんって色んな人が居て面白いよな。

特に何も求めていないから観測できるというだけ。

 

日曜日は基本的にごろごろ助。現実とかインターネット世界とかアニメ界とか漫画界をごろごろする。

 

ふと気づいた、苦手なインターネットの記事。目次があるのと、画像が文章の合間に挿入されているもの。読みやすくする配慮であることは分かるが、これは個人的な配慮というより、定型という気がする。

 

目次の付け方、知らない。JavaScriptでもクリックしたらその文字が表示されるという赤ん坊のハイハイくらいのレベルだし。まぁたぶん機能としてハイパーリンクみたいなものだとの想像。たぶん、紙媒体の書籍を模倣しているのだろう。個人的には書籍でもあんまり目次を気にしていないから、目に付くというところもある。ただ、おそらく書籍の目次って、往復できるという機能の為のはず。インターネットの目次は一方通行だからなんか変な感じ。

 

僕が表題より中身を食べることを読むことだとしている偏狭な性質だというだけである。目次飛び飛びで食べても味気ない。情報の記事だとしてもそこだけ読めばいいというものでもなかろうし。

 

 

画像の方はまた別。インターネットの文章は視覚優位で眺めるものだとしている人にとっては何処にいった、何をした、を画像として表現された方がスムーズだし、ニーズにはあっているはず。

 

世界を味覚的に捉えているからニーズが合っていないというだけなのだが、その画像分も文章で表現してくれた方が感官を切り替えなくて良い。なんだか表現をサボってないかという感もあり。とか言いつつ僕も画像を貼ることを採り入れているが、記録としてではないのだよな。言葉を省略できるものとして使っていない。

 

 

ところで、もはやLINEでやりとりしている人は1人しか居ない(独り占められ)のだが、相手にスタンプばっかり送っている昼間は何を考えているのですか、と問われて、何も考えていないと返すしかない。

 

スパイのアニメを見ていた本日。原作で省略されていたお城のボンドマンの下りが最高に楽しかった。流行るのも分かりみ。

 

何も考えていないというのは、ほんとにぼーっとしているとかではなく、意識としての言語的な思考のスイッチを切っているだけで、脳は運動している。意識が考えることは基本的に自分のことだし、語彙も自分の範囲内。何も考えないように意識が操作できることはない。考えているという意識が存在だし。僕は、意識(言葉)を介さない思索の方がよく考えているし世界を観測しているのではという説があり、おこぼれを言語化しているだけという節がある。

 

理論物理学者が書いている本の中に言葉の起源についていくつか説があるという話があった。グルーミングの延長だとか、言葉によって経験則を越えた想像力(神話)としての共通項を得るためとか諸々。面白いなとおもったのが、言葉は内省から始ったというチョムスキー氏の説。馴染む。外と疎通する為の語彙って、そんなに要らない。喜怒哀楽とか事実の描写で勝手に相手の中での言語に変換してくれるし。

 

昨日書いた左川さんのように、自分の中の世界に何があるのかを発見するための道具が言葉(概念)であって、正しいことを識る為のものでもない。そうやって僕は自分のことを分かってきたらしい。

 

僕は左川さんを詩人のひな型と捉えている。ほんとうの詩人の言葉は透明で、時間が無い。共通項を容易く言葉に求めない。それでも人と繋がっている。

 

 

そうして、昨日の理性と感性の話の続き。

あんまり言語化したくないらしい。渋っている。この微々も宥めつつ。

 

僕が法学の資格試験をドロップアウトしたのは、正解を照らし合わせることが詰まらなくなったことがある。思索は正解を求める運動ではないし、過去の情報が未来を決めることはない。

 

そもそも、理性も感性も無定義のなんとなく感じの語用で使われている。

まぁ言葉は使うものであって考えるものではないから、なんとなく他の人が使っている感じを倣って正しいとするものだし、そういうもの。

 

僕はこういう無定義の言葉を正しいと想えることがなんとなく違和なのだが、まぁ良いとしとて。(「感性」で記事検索したらちょっと胃がムカムカした)

 

理性とはなんぞやという一般的語彙を想うに、きっと、正しい判断をすることになる。経済学でいうところの合理的人間性。正しい情報があるのだから正しい選択ができるというよりするべき。

 

こういう誤解は人がインスタントな正解を求めるというニーズによるものだろうが、義務教育の罪でもありそう。正しさを覚えたところで未来には使えないでしょって判断できるのがほんとうの理性のような感じ。

 

学問の本質を語るほど読んでないが、法学は割と読んできたから絞る。

 

法律のルールは、法学教育のない政治家が作っている感じがありつつ、まさに理性の領分ではある。

 

感性で人を排除してはいけないという集積を学問してきたのが法学であって、ルールの公平性を問題としている。未来でも適用できるルールとは何ぞやという学問。王様の気まぐれで犯罪とかの悪いことが決まったらたまったものではない。

 

感性的に犯罪を捉えたら自分の属性とか依る場によってころころしてしまう。

刑法の役割はいまの被害者を救うのではなく、未來の被害者を減らすこと。法学の言葉の扱いはほんと独特だが、統計的に言葉を扱うなら仕方がない。理性的な言葉ルールは、目的によって解釈が変わる。

 

で、感性という概念。ほんとに主観的な感性はきっとない。だって感性が独特であると認定される為には観測する他者ありきだし。感受性だってそう。何かと繋がっているから受けられる。だから、主観を誰かに認められたくなる。

 

言葉で自分を捉えている限り、ちゃんと誰かと繋がっているから安心して良き。

 

どうでも良いが、天星術では、僕は「新月」らしい。生まれた年と日で決まる。繊細で芸術的センス(?)があるとかなんとか。ちなみに高校のクラスで同じ誕生日の人が2人居た。そんなもの。あの2人、芸術的な界隈で生きているのだろうか、なんにせよ、恙なかったら良いな。

 

 

ついでに、人がどういう空間軸で生きているかという本も読んでいる。

絵画(ポスター)において平面なのか、空間なのか、宇宙なのか。

 

これは素朴な人にも通じそう。

言葉をどういう軸で扱うか。

 

 

体を動かさないことによって、自分の動きを捉える。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。