必然

 

 

本日は豚丼のリクエスト。連勤でお疲れのようだからお酢クエン酸)プラス薄味で。疲れたときに濃い味を食べたくなるのは分かる。僕も風邪を引くとジャンキーな食べ物を欲する。ただ、これは1日とか短期的なものであって長期的にするものではないという説。

 

副菜はだし巻卵(梅ちりめんじゃこ入り)、白菜の塩昆布浅漬け。

 

 

どうでも良いが。メンタリストの動画をたまたま流している。ある程度散らかった部屋の方が良いアイデアが出るとか、新しいことを受け入れる余地があるという研究結果があるとのこと。もちろん生理整頓がされている部屋は自己コントロール能力が上がるというメリットがあるらしい。あと、保守的な考え方をするという傾向は、人によって良し悪しはそれぞれと思われる。

 

個人的な感じがない情報はあんまり価値がない。僕の前の部屋はある程度とはいえない、普通に誰かが来たらこんな部屋で過ごせるのかという感じ。シンクは常に代謝していたからGさんは現れなかった。なにせ本で足の踏み場がない。ただ、たしかに、参照しながら考え事するときに、そこに近い本が手に取れる距離にあると移動コストがないからスムーズだった。別ジャンルで3冊くらい拡げて読んだりしていたし。ただし、創造とか制作みたいな生産的なものではない、単に自分の中で読み合わせが良いというだけ。

 

 

ともあれ、時間を戻して朝から。

 

遅めの満月さんの出勤に合わせて、仕事場の地元のリゾート地に同行。荷物が多そうで、運び手が要るだろうなと。これを昨日の日記と繋げて都合良く使ってないかという心配をされたが、僕の中ではここは当たらない。行動面で言えば、自分ができることを誰かがやってくれることを求めるのがご都合主観主義の世界観であって、できないことは仕方ない。

 

満月さんの会社はいま現在ブラック寄りになっているから諸々が全然可能ではない。僕がたまたま無職だから可能なことはすれば良いという感じ。いつまでもこれができるとは限らないし、もちろん当人もこれが当たり前とはきっと想っていないのが良き。

 

そもそも保守的ではないし、都合の良さを関係する条件としていないから、当たり前に優しい人物像とかが形成されてくると天邪鬼みたいな性質が起こってくる。この性質って、むかーし、宿題やりなさいとかお風呂入りなさいって親から言われた時に、今やろうと思っていたのに、言われたから萎えるという精神に近い。マイペースでやらせてくれよって。ただ、これが「するつもり」なのか、ほんとうに「する」のかは随分違う。僕は言って来る人が臀部を叩かない方がむしろ早くやるタイプだった模様。今度劇評書く機会があったら1日で仕上げるかも。いや、熟成期間含めて3日かな。

 

促してもやらない人はほんとにマイペースな人か、もしくは、言語(意識)的にやろうとしているだけの人。これはどちらも在りうるから、結果を見るしかない。関係において見るべき結果は、通り過ぎたのに摂り過ぎないことか。

 

 

そうこうして、世間的にGWで忙しい満月さんの仕事場では何も買わなかった。アイスコーヒーは自販機で買って、しらす丼の舌に適う丼ものは見つけられなかったし。

 

ここから車で20分の道のりを歩いてマッピング。今回も3時間くらいは歩いた。グーグルマップの全体像と目印の海を目安に、公道なのか私道なのか怪しい山間の道を歩く。車もまばらで人がほとんど居ない道は歩き易い。本当は、神聖な空き地のような神社にもう一回行くつもりだった。たんぽぽ神社。ただ、スーツの裾直しの完成が本日だから方向性が微妙にずれていたため断念。

 

通学路とか花の匂いがする畑道を縫うように歩く。薬局でビールを1本買って運試しで負けて、なかなか楽しい人生劇場。負けたのは、僕が自分を信じられなくなったからなのだろうなという感じ。

 

マッピングした感想。川に生き物が多いというのは水が綺麗に保たれているということなのだろうなという感じ。あと、愛知県はだいたい歩行者に優しくない。いや、これ岡山県に行った時にもなんなら城之崎温泉界隈でも思ったから、僕があえて歩行者用の通路を歩いていないという説もある。

 

こんな歩行速度のままでスーツのショッピングモールに行くと、時間の感覚がズレて、人の歩行速度がじれったい。そこまで急いでいないから、エスカレーターはちゃんと待てる。待つことでイライラするのは人生劇場における断捨離すべき項目。待つのにイライラしている人はそれ以上に誰かを待たせることにイライラさせているという説。

 

 

 

やれやれ。

 

 

世界とは何ぞや。

 

個人的にはいつまで経っても鳥肌が立つような感動があることだとするけども、おそらく共感されない。本日十二国記の感想文が出てきてぞわぞわした。なんでこの作者の世界観にリアリティがあるのかというと、そういう文化人類学者さんだから。研究しているから成り立ちがどうやってできているかが分かっている。

 

あと、1Q84の終盤でちょっと泣けた。話の筋とは関係ない、言葉でも行動でもなく繋がっている関係ってファンタジー的に良いよなぁって。20年の歳月が一瞬で埋まる時間の感覚が共有できる関係は素晴らしい。

 

今に連ならない世界を共有できるのってもはや神話の類。

 

僕がこれだけ経年していても経験則とは別物に感動できるというのも神話めいている。

 

まだありそうだが、満月さんが帰ってきたのでまた明日。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

考え事

 

 

 

本日のメインは満月さんが仕事から帰って来た後に明太子パスタを作ってくれるので、副菜を準備。いつものベビーリーフサラダはごま油と磨り胡麻ベースのドレッシング。セロリときゅうりのシンプルなマリネ。あとは、明太子に合う物として連想した白だしだし巻き卵。全盛期は卵1個でもお弁当用にくるくる巻けていたのになかなか衰えている。前回よりはうまく行ったから次回はうまくできそう。

 

きちんと試行回数をこなさないとうまくいかないのが自分。ここは初期値が随分と低い気がするが、初期値の低さよりも上限がどこまであるかの方が大事。まだあんまりここが分かっていない。上限って試行(思考)を辞めたときではという世界観。

 

 

ぐだぐだする1日。うたた寝をしたり、漫画読んだりする。とはいえ手足も動かしているからか、頭はそんなにぼんやりしない。昼ご飯はラ王の袋担々麺にもやし、椎茸、ネギを追加した。気になっていてまだ読んでいない時間栄養学的に言えば、朝、昼は稼働のための炭水化物で、夜は低脂質なたんぱく質。ビタミンやらは毎食添えてという感じ。もちろん、何かを食べていれば良いではなく、生活習慣とセットで調整していくもの。美味しさがもたらす幸福感は時には栄養価より大事と想う(非科学的だが真理に近そう)。

 

 

本日読んでいた漫画は、「ジョジョ」と「ヒカルの碁」。ジョジョは個人的に絵柄が好きではないのだが、漫画としての腕力が凄い。台詞回しとかポーズとか現実離れしていて特に何も考えなく読める。「バクマン」の分類で言えば天才型なのだろうなって。天才型の漫画は分析して読む物ではない。いや、個人的には全ての読み物をいちいち分析しながら読んでないけども。感じで読んでいるだけ。絵柄的には鬼滅の刃とも似ている感じがするのだが、あくまで個人的感覚。

 

ヒカルの碁はなんというか凄くメタ的で考えさせられる。漫画的な主人公劇場でもないし、囲碁が分からない人(僕もそう)を取り込むストーリーテラー。僕が現役でジャンプを毎週買っていた時代にあったから、なおさらということもない。僕が買いだしたのは黄金時代の後くらい。買っていたのはジャンプだけだけど、女きょうだいがいたから、りぼんとかなかよしとかクッキーだっけ? も読んでいた。

 

戻って来て。ヒカルの碁って、色々主人公が居るが、だいたいの事象が主人公を成長させる為に演出されているという箱庭観がある。これこそが物語の醍醐味であるという感覚も分からなくもない。誰かの登場人物を推すことによって、現実から逃避するというのは言い過ぎだが、世界は都合良くないという世界観が共有されているから、漫画という娯楽で都合良さを消費するみたいな。せめて娯楽ではハッピーエンドでって。

 

メイン枠がだいたい美形ないし醜系なのも漫画の劇場観はある。

 

 

この辺りで夕方になったから、百均で育てる水草用の霧吹きを探しに行く。時間がある時には人は歩いた方が良い。頭が回るから。本日も1時間ほどは歩いた。

 

歩いていたとき思ったこと。人生劇場において当人の世界が主観であるというは当たり前。メンタリストの動画がYouTubeに上がってきて人気なのはたしかだが、あくまで自分の劇場がどうなるかということを問題としている。人間関係を断捨離すると新しい関係ができるnoteの記事の人間関係論も、相手がどうかという話は全くないし、自分が主人公という話しかない。

 

 

良いというか、主流の世界観だから特に文句はない。

 

 

ただ、僕が徒歩でスーパーに行っている中で考えたのは、世界を主観的に捉えるだけの劇場では全然足りないというところ。多かれ少なかれ理不尽を経験したことがない人なんて表現をする人には居ない。俯瞰的に捉えることで世界が完璧になるとも言えない。俯瞰って結局社会的な準則でしかない。とはいえ、この社会的準則が今を生きているとい実感をもたらしているということもあるから、ここから離れ過ぎてもいかん。

 

人間関係をどう扱うか。僕としては、自分にとって有用かどうかだけで人の善し悪しを判断するのは悪手だと想った。片側からしか見ない仲間内は、その人にとって相手が良いかどうかしか捉えられないし、逆からもそうなっているのだろうとは思うけども、僕はそもそも独りで寂しい世界には生きていない。

 

継続していく関係を捉えるのって、自分にとって相手が良きなのかとは別枠で相手にとって自分が相手の為になっているかという視点も要る。相手の為に奉仕することで好きを表現している関係はあくまで当人の劇場。相手が自分にとって都合が良過ぎるというのも然り。

 

もちろん交換的に何かを返したら良いという世界でもない。自分の存在が相手の為になるかどうかもある意味ギャンブル的な要素があるから、正解はない。

 

 

正解がないカオスを不安と感じるのか、遊びと感じるのが人生劇場の違いなのだろうなという次第。僕の今後の人間関係が拡張するとすれば、義務でも既定でもないところにありそう。

 

こういった変なことを考えても良い人生になったことが、僕が遊んでいるということ。僕が遊んでいるだけだから、他人の劇場に口を出すべくもない。

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。

 

 

 

 

かどう

 

 

天気が良いから迷子になることにした。

 

 

2人しての焼肉の脂に胃腸をやられている目覚め。満月さんの遅めの仕事の出発に合わせて特定記録で郵送したい物があったため出発。コンビニの店長さんにご挨拶。このコンビニは話好きの店員さんが集まって来る模様。暦の感覚がなくて郵便局に着く直前に祝日なのに送れるのかと不安になったが、ゆうゆう窓口がやってくれた。

 

夜ご飯のリクエストはいただいてその食材の買い物も一緒に行ってきているから予定が空きっぱなし。そのまま直進して、どこに着くかをやってみる。方向性としては分かっているから、意図的な迷子。少し進むと川があって、草ぼーぼーの河川敷に獣道というか誰かが通っているだろう剥き出しの土の道があったから、どこまで行けるか迷ってみることにする。先月お花見した川。ピンクだった桜は緑になっていて河川敷もほとんど緑。ぽつぽつと紫やら白やらの花とか、雀やらカラスやらの鳥とか迷彩色の亀やら鯉やらの色がある。

 

何処まで歩くか分からない足裏にとってはアスファルトより土の方が優しい。歩いていると橋の上からヘルメットをかぶった男子中学生だか女子中学生の群れが僕の方向に手を振って来て、応えないのは失礼かと振り返したらたまたま方向が同じだけの川に沿って向かって合流しに来ている人に向けて振っていただけだった。恥ずかしいし変質者ちっくでもある。まったくそんな意図はなく、一期一会的な意味合いしかなかったのだが、外れると恥ずかしい。

 

ただ、僕はもっと恥ずかしいことを恥ずかしがらずにした方が良いのかもなとも思う。いや、やらためったら他人に越境するという意味ではなく、「恥」の観念って要は一定の社会規範から外れたことに対して起こる感情であって、この社会的に外れないようにする規範って自分でそこからずれないようにしたいと思う意志の前に、育ってきた環境の当たり前だから。もちろんどれだけ自給自足しているつもりであっても社会とは連鎖している訳で、他人と自分は切り離せないけど、それがもともとの当たり前なのか、自分が決めた当たり前なのかは随分と違う。結果としての現象が変動しなくても、内部の世界観の彩が鮮やかになる。

 

そんなこんな川を下ること5、6キロ。目的地が近い様相。迷子の面白さはここが何処なのかという情報を能動的に収集して位置を把握できること。グーグル先生に聞けば一発なのだが、自発的迷子の時間を問題にしないときに文明の利器は不要。新幹線の沿線が見えてきて、目的地である豊橋駅の方向性が分かる。新幹線だとぴゅーんただ、歩くとなると道がない。新幹線に沿って道ができていない合理的理由はいくつかあるだろうが、線路が低いから、何か石が置いてあって跳ねてきて頭にでも当たったら、一発でこの世から退場だからという理由を考えた。沿線に住んでいる人は潜在的に退場の可能性が高い。そんなこと起こったら大問題だが、高速で走り抜けていく新幹線を間近に見ると危険だとしか感じない。

 

なんとか新幹線の沿線沿いに歩こうとしていると、農業ゾーンに入った。牛とか田んぼとか。お花を摘みに行きたい気分になってきたが、コンビニが一切ない。遠目に赤い鳥居が見えてそっちに行ける道路があって、いや、これ通り抜けできるのかとなりつつ歩いて早々に左の畑に蛇がいた。1時間くらい前の河川敷と畑の間のゾーンで看板に夏から秋にかけてマムシに注意というのがあったから、刺激しないように引き返した。蛇には自然の畏怖がある。鳴き声みたいなのもしていていたし。

 

 

そうやって、畑ゾーンと川を2つほど越えて、脚が疲れてきた。流石に経年で体力落ちてきたのかとがっかりしつつ、少し座って休む。スマホで時計を見たところかれこれ3時間半くらい歩きっぱなしらしいということに気付く。そりゃあ疲れる。無理もない。

 

でも、この前満月さんと弟さん(これから「勇者」というあだ名で書く)と難波から心斎橋界隈を歩いた時の方が遥かに疲れている。前日に送別会でしこたま飲んだというのを差し引いても、人混みで歩くのって自分のペースでは歩けないから速度調整にエネルギーが遣われる。視覚情報も多い。疲れの本質って、この自他における差異ではなかろうか。

 

そうして目的に着いて、社会的にあんまり推奨されていない場所で稼いでくるという遊び人。帰りはバスで帰ったし、特に何か稼いだからいつもと違う行動をしようという感じはない。楽しく生きて良いのか。でも、たしかに、僕の人生上、苦労が返って来るという劇場は無かった。苦労をしたというチップで交換できる物事がない。1週間もやしでしか生きられないという生活はやったことあるが、それも苦労とは想っていないという。

 

満月さん帰って来たな。

(音で分かる)

 

僕の経験則は誰かが辿ったら良いということではない。4時間ほど徒歩するなんて正気の沙汰ではないし、明日は山方面に歩こうとしているし。ただ、体を動かしていない思想だけの話の薄さは然るべく。思想って大事だけど、説得できる合理的理由なんてところで人は動いていない。

 

 

やらやれ。

 

解釈が開かれていない文章はだいたいやばいという説。村上さんとかエドガー・アラン・ポーさんとか安部公房さんとか、やっぱりすごい。よく分からなさが半端ない。

 

 

とりあえず、ここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

かけら

 

 

遊んで暮らしている。

 

 

豆苗の「みょー」に水やりをしつつ、送別会でいただいた「育てる水草」も育てることにした。良い感じのグラスに土を入れて湿らせて、まずは発芽を待つ。20〜30日で生えてくるらしい。それまでにはきっと生活が変わっているだろうな。

 

 

特に生産的なことはしていないが、インプットとアウトプットは怠っていない。自家製ドレッシングの腕前も上がっているらしいし。生活は継続ではなく変化を伴っている。変化とはすなわち遊び。

 

運試しで勝ったあぶく銭を遣ってスーパーで晩餐用の焼肉を買ってきた。副菜には、蕪の浅漬けとほうれん草の胡麻和え、ついでにベビーリーフサラダもあるから、ビタミンも足りている。自分の為だけに使いたいお金ってあんまりないから、稼いでも漂流させる分が増えるだけな気がする。本だって充実した図書館が徒歩圏内にあるからあえて購入する必要がないという意味で言えば、面白い古書店が生活圏にあった前よりも発展したとも言える。ほんといい図書館。国立国会図書館ほどにセキュリティも重視されていないし。

 

行きたいところと言えば、もともとの実家のところに誰かを連れていくとか、鳥取に旧友探しに行くとかあるが、これはお金というより意思の話。個人的には、「檸檬」とか「猫町」みたいに、変化は物理的な移動距離ではなく、当人の世界観によるという立場寄りだから、移動だけに変化を求める人間性はそんなに好まない。

 

遊んでいると頭が義務化しないからクリアになる。クリアになった頭だと、社会の基本とされている価値観がかなりハリボテというか、撮影スタジオ(最近シン・エヴァンゲリオンを見た)の様相だなという感じ。別にアウトローになる気もない。儀式めいたことに無駄に感情を流されることはやめようかというだけ。

 

職探しも培ってきた人格をチップとした運試しでしかない。適性とか条件より遥かに大事な職場に属している人達との相性が就活している外部者には分からないのってほぼギャンブルの領域だと思われる。こういう努力で左右できない領域はスキルではないからアドバイスしようもない。だから、条件とか統計とか振る舞いとか外側の事象に頼るしかない。

 

だからなんなのだという話だが、人生劇場において因果関係がはっきりしている事象は半分にも満たないのだろうなというところ。因果関係ばかり問題としていると、その外に対応できない。もちろん対応できなくても当人の人生劇場は貫徹できるから問題ない。問題は当人の他人の扱いにある。

 

満月さんの本から狩猟できるから、お風呂読書が捗る。「境界例」という精神分析の本。この本を選んだのはなかなか闇深いが、その闇深さからはもう脱却してそう。僕が居るからなのか、そういう世界線になったから僕と過ごしているかは未分離。

 

未分離というのがこの本のテーマで、人との境界が未分離な人が他人を物として扱うというのがあるらしい。生命保険を得るために子供を退場させる人は人を手段としているのは明らかだが、引きこもりの子供の相談で、人が宇宙まで出て行ける科学の時代に子供を学校に出させることはできないのですかと聞いた母親に対して、こういうのは(愛っぽいが)、他者を操作できる物として扱っていないかという話が冒頭。

 

たしかに、世の中のことが分かっていない子供に対して物理的な命を守るという意味での操作は必要なこと。ただ、子供って大人より余白があって賢いから、ほんとに自分の為に言われているのか、大人の保身の為なのかというのは肌感で分かっている気がする。ほんとに危険だからではなく、大人が嫌だからという感じ。下世話なアニメを見させないとか。

 

我が家はそういう操作はなかったが、母親の気分によって穏やかな世界と嵐のような世界の二元論が激しかった。

 

都合の良い人は誰にとっても理想的かもしれないが、僕はそもそもこういう家庭で生きてきたから自分にとって自分がどう都合良いかという世界観がない。たぶん操作しようとすればできるのだが、それで操作された人ってペットみたいな存在でしかないし。他人をペットとする世界観は頻繁にある。自分がしんどいとしていることを埋めてくれるとか、自分の生活観に相手が合わせてくれるということがすなわち愛だ、みたいな感じ。それは奉仕であって愛ではないという説。

 

この文脈で言うと、満月さん一家の美点は他人を特に操作しようとしないところ。自分が自分を外から操作しなくて良いという価値観は割とある。ただ、他人に対してもそうなれるかというと、そうはいかないことが多い。人生劇場が完結した壁に囲まれた街であると、その壁に入って来られる人にしか寛容になれないのも分かる。

 

パートナーが良い人だって語る記事は多いけど、ほとんどが都合の良さで書かれている。ある意味ペットなのだろうなというのはやや言い過ぎだけど、少なくとも僕はそういう風に語られたくない。だってこれって、都合が悪くなったら切り離される存在でしかない。この世界観だと、当人も相手からさよならされる。まぁ、たしかに空気の入れ替えって大事だから、劇場としては分かる。

 

劇場ではない人って、要は、影響は受けるけど物ではない人。

人は物ではないという人権論の話はしていない。人権論って人を物扱いしているとか言い出すと人権団体が大挙してくるかもしれないが、無個性でも価値があるという考え方自体がまぁまぁの物扱い。物理的、法的な扱いを均すというのはそういうことであって、本質的な当人の物でではない人格はどうでも良いという扱い。

 

満月さんも僕を操作するつもりがないみたいだから、コンロの掃除もできる。

 

個人的に、誉の為に動かなくても良いという意識はとても自由。

こんなに広くて良かったのかって。僕の読者さんも僕のモチベーションを上手く捉えて居る。これってどうでも良いと紙一重なのだが、少なくとも読んでいる徴みたいにスキされるように僕の文章を読んでいる人には萎える。

 

mixiにお弁当画像載せていないからそろそろ載せまいかと思うのだが漫画の先生はそこは特に気にしていないから好き。

 

僕が好きな人は、基本的に僕のことを物扱いしていない人。直近の職場で言えば退職した駒とバーベキューに参加するのかという感じ。

 

僕が母親とあんまりやり取りしたくないのは、僕の存在が母親の人生劇場において駒っぽいから。僕がどうかというより、そもそも当人の存在劇場が駒っぽいから、人生自体がそういう世界観になっている。費やした分が返って来るというのは愛がないと返ってこない。

 

 

対価が返ってこなくても良い領域で遊べるか。

仮に満月さんが僕のことを嫌いになって、追い出される世界線もある。

 

なんでもいいところに居てくれる人が素晴らしい。

 

今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

よい夢なり嫁なり現実を。

 

また明日。

 

 

 

 

 

余暇

 

 

豆苗の「みょー」の2回目へのお水を与えて始まる朝。

 

本日は満月さんがお休みだったためデート。朝ごはんは昨日のもつ鍋を流用して満月さんがおうどんを作ってくれた。うまい。

 

 

近所に最近できた大型イオンモール。満月さんが属している会社がタイ焼き屋で出店していてしれっと顔バレ。この先のためのスーツを購入。捨ててきた今までのグレーのスーツはくたびれていたらしい。今回は黒のスリムな感じ。とりあえず面接で最低限の見てくれがあれば良き。

 

本屋さん。イオンモールには珍しく地元の書店が入っていて、正直法学棚はあんまり充実していないが、他が面白そうな感じ。なんでもあるでもなく無難でもなく、ピックアップされている。図書館と近いのは、何か地元の大御所書店として関係があるとかなんとか。

 

そんな感じで運試ししつつ、グーグル先生が46分の徒歩時間だと予測している時間を時短して30分くらい生身を動かして、引っ越しの荷物がやっとやってきた。法学分野と育てる水草が補充される。お風呂読書のラインナップが充実する。

 

満月さんの蔵書と合わせて新規がほとんど要らない。

 

自分が読んだ本を「読んだ」という記録だけで通り過ぎている人は印象ではないところを大事としているから、硯の文章も読んだ気になるだけ。いや、読んだ気になれるような文章はそんなに書いていないような気もする。

 

今日は短いけども、これは充実した生活を送っているからとも言えるし、そもそも文章で存在を表現ようなやからでもないから。ただ眺めてくれる人が居るのが素晴らしい。

 

明日からはもうちょっと長くなるかもしれないが。文章量の多少で人生は決まっていない。

 

という感じでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢なり現実を。

 

 

混同

 

 

満月さんの出勤時間に徒歩10秒くらいの車まで傘を差して行こうとすると、「そこまでしなくて良い、王子様ですか」と言われる。起き抜けにおでこに接吻した時には天然の女たしと言われる。これが素だけど、パートナーにさえあんまり発揮すべきではないのはなんとなく分かる。

 

ちなみに、僕は別に尽くすタイプの人ではない。自分を犠牲にして何かすることに愛はないだろうという立場。余白というか余剰が常にあるようになっただけ。自分を犠牲にして貴方に費やしたと言われたら罪悪感でもやもやしてしまう。それが愛だという世界観の人にはもっとアピールすべきだったが、そんな余裕がない世界に生きたくなかったからここに来ている。

 

満月さんにお返しは特に求めていない。求めないからできるという世界観は我ながら随分ひねくれているのは自覚している。

 

犠牲という世界観だと、おちおち本も読んで居られないと思う。他にすることというかできることがあるだろう、読書で時間を犠牲にするより他に有用なことがあるのではという罪悪感が出てきて、よほど余白時間がないと本が読めなくなる。本を読むより現実のために休んだ方が良いとかなんとか理由は無限に付けられるし。

 

あ、そろそろご所望のもつ鍋を作っていくタイミング。

あと2分で何文字書けるかな。

 

という感じで、8時間仕事した後には寝る為に帰るしかないという記事を見かけて、ここ4年ほど8時間労働の後に毎日夜ご飯兼弁当を作ってお風呂入りながら何十冊か並行読みして、文章もほとんど毎日つけることに疲れって特に感じなかったなぁとなった。もっと長時間の仕事の時は確かに寝る為に帰っていたようなものだが、それでも読書と文章を書いていたか。

 

たしかに素朴な肉体時間が社会時間と調律できない人もいるから何とも言えないが、時間が足りないと言う人って、時間が足りていてもきっとそんなに何か可動できることはない。辛辣ではなくて、時間の感覚って結局は日常生活の延長だから、時間が在るか無いかは日常のものさしが決めている。時間を意識するともともと過ごしてきた幅が前提になるから、今後どれだけあっても足りなくなる。いまなにができるかだけを意識すれば、時間は貯めたり確保したりするようなものではなくなる。じゃあ何なのだというと、当人の存在の一部でしかないもの。少なくとも客観的な物質ではないのに、皆で前に横に下に倣えするのって若干怖いところ。

 

 

 

やれやれ。

 

コメントされるのだったら、もうちょっと感想文を真面目に書いておけば良かった。昨夜さんの文章、現実には悲観的なのに文学には楽しそうだから、現実も文学的に捉えたら良いのではという気がしなくもない。日本文学の理論は知らないが、満月さんが大学院時代に読んでいた文学理論の教科書には、文学は価値観を拡げるものだというフレーズがあった。ただし、意識的に拡げようとするのは政治とか宗教になるから警戒しないといけないとも。

 

北海道に行くことがあれば昨夜さんと飲んでみたい(世界線の越境)。

 

この文学理論で面白いのが、モダニズムとかポストモダニズムはともかく、言語は現実をまるっと表現できる機能を持っていないのではないかという疑問が出てきたところ。たしかに言語って現実か虚構化の二元論で言えば、明らかに虚構に属する。発話という行為は現実だが、発話の中にどれだけ現実が含まれているかというと、そんなにない気がする。

 

僕がずっと嫌だなと感じていたのがこの辺りという話はもう書いたっけ。

別に誰かの劇場の登場人物で居ることには馴れているが、だったら僕も選んで良いよなという感じ。

 

村上さんの感想を真面目に書くと、この世界観って読む人に開かれている。

こういう風に書けるのは修練ではなく、もともとの人間性というか、天才性。全時代的に読まれても問題なさそう。

 

タイトルにある、街と壁がどういう存在なのかって、どれだけテキストを読み込んでも解読できないと思う。

 

よなよなエールうまい)

 

テクストて読めるかというと、全然そうでもない感じ。読み手の世界観によってプリズムになるだけで、もともとの真実はないような。昨夜さんは確か承継みたいなことを読んで居たが、僕の中では、承継されないものをテーマとしているように読める。

 

(満月さんはまだ読んで居ないから、物語としてのネタバレは禁止)

街は主人公とヒロインが世界を設定した空想としての現実として語られる訳だが、この街と壁って、なんというか、まるっと個人の現実感だなって。肉体は時間の流れに不可逆に置いて行くけど、精神は可逆的に生きられる。

 

 

この現実感ってなんぞやと考えると、まんま、「世界はどういう風に存在しているか」という考え方そのものなのだろうなという感じ。この世界観を習得できたのは、文学界のおかげかも。

 

僕も良いオトナなので、諸々の現実的な濁りが現実であるという捉え方も当然分かる。その濁った眼で見られたら、僕の存在はほとんど無価値。でもこれって変な話、僕の存在が誰かの現実感から離れても大丈夫かという現実的認証感があったような。だから極貧で何者にもなっていないかというと微妙なところだが、ほんとにそこを求めいたとしたら僕で在ればとっくになっていたような気もして。ここは今の所負け惜しみみたいな感じだが、負けた気がないのが変人。

 

ともあれ、この世界観を前提に村上さんの新作で読み解くと、ここにある世界のほとんどは習慣という秩序で構成されている。生活という秩序が壊れるところか物語が展開する。紐解けば全ての村上作品はそうかもしれない。その移動が面白い人は、もっと普通の小説のダイナミズムを読むだろうな。

 

村上作品を読めない読書家は、たぶん読書に普通ではないことを求めていて、自分の普通を感じることをタブーとしている。普通に世界線が移動することは従来の世界から動きたくないという無意識の抵抗だし。

 

宗教的な意味でもスピリチュアル的な意味でもなく、なんなら科学も社会学的でもなく、今の時代って、きちんと自分で居られる世界なのかもしれない。

 

僕の中での現実って物理的な現象ではない。特に人間関係をしていると、相手の現実感が問題になってくる。

 

現実って、ほんとはなんじゃろう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

つごう

 

 

 

継続のために必要なのは意志のような精神論ではなく環境である。環境は意志によって自発的に造ることができるため、結局は意志であるということにもなりうるが、環境自体には特に継続がなく、あるとすれば時機のみとなる。

 

僕がこうなった理由は基本的には環境によるのだろうな。文章はたまたまSNSで書いた日記が人に読まれて良い風に観測されたというところからだと思われる。僕の文体が存在できたのはここからだが、そのうちもともと誰かに読まれるために書いていないというか、特に相補性はないよなというところから、コミュニティ系のSNSではなく書くことで存在している場所で棲息することになった。ちなみに自分の文章が特に上手だとは思っていない。上手いかどうかは特に問題としていないから。上手さってたぶん多くの人に読まれる結果ないし見込みくらいの水物なのかなと。意味が伝わるという意味合いだと隅から隅まで言語化された仕様書のようになるが、そんな文章誰にも読まれない。

 

引っ越しの箱詰めはプロが認めてくれたからこっちの方が上手いかもしれない。料理も満月さんが美味しいと言ってくれるから上手だと言える。要は、上手さはあくまで相対でしかない。本日のご飯は焼うどん、トマト(おつとめ品)の塩昆布和えとサラダと蕪の浅漬け。生活料理に対してはなるべく安上がりで美味しくという感じ。生活外のご飯に対しては気にしない。この自炊は作らねばという意志ではなく、作らざるを得なかった極貧時代という環境がある。その環境の中でも楽しんでいたから試行錯誤ができた。いまは2人用の料理の試行錯誤を楽しんでいる。

 

でも、他人が同じようにすべきみたいなことは全く思わない。これは自分がするように他人はできないという意味と、他人がするように自分ができないということが分かっているのと。基本的に不器用で雑でてきとーだからやっとここまできたかくらいにしか思わない。丁寧にするところはできるようになったというくらい。だから仕事中にお花を摘みに行く同期が椅子を仕舞わずに出しっぱなしにしていることが気になる。良い人なのだろうけど、なるほどとも思う。

 

かといって、気になるところを直せば良いとも思わない。それが生き様なのだから好きにしたら良いという立場。僕が同期の上司だったとしても優先順位は仕事の円滑であって、人格的な領域に踏み込むのはタブー。仕事の円滑の領域の遅刻常習犯だったら言わざると得ないが、そこまで社会生活ができない人でもないし。社会時間に合わすのが人格と連動している訳でもない。

 

たぶんかつての僕だったら、自分の効率に合わせて欲しいとなっていた話。これは相手の世界に合わせて来たからと両義。満月さんは食べた器とか飲んだコップとかを置きっぱなしにする。これは洗ってくれる人が居るかどうかとは無関係だから生活スタイルなのだと思われる。別に良し悪しではないから指摘もしないのだけど、流しで水に浸けておかないと実際洗う生活時間が増えることになって、自炊の意志が減退するに違いない。

 

僕がシンクを空っぽにしておきたいのは、料理の初めが洗い物だと萎えるなというだけ。別にそこに合わせて貰わなくても良い。満月さんは生活において仕事が重いからしていないだけで、やろうとすればできる人だし、僕がずっと一方的にご飯を作る生活にはなりえない、はず。

 

僕って結構相手にとって都合良い存在として生きられる。意志というか自我を特に問題としていないから、自分ができることは自分がすりゃあいいよなって。この境地になったのは最近で、昔は相手の世界観に調律していた。しんどい人に対しては自分がしんどくならないととか。他人との関係って自分の世界の事なのだから、他人事にできない。

 

満月さんはなんで今までの恋人さんと長く過ごせなかったのかと疑問なようだが、僕は自分が相手にとって都合が良いだけなのが気に食わなかったのかもしれない。理想からずれたら一瞬で冷められてきた。生活条件としてもなかなか何を重視するかによって彩がプリズム。聡明とかイケメンみたいなことはできるが、そんな条件で選ばれても困る。

 

 

やれやれ。

 

村上さんの新刊を読み終えたから、昨夜さんの感想文を読んだ。流石の文学畑という感じだが、文章があとがきに寄せられていないかという感じ。感想文の枠というのは確かにあって、何を読んだかを紹介する文章なのだが、実際読んだ人にとって、ストーリーの中の筋部分が多いと引っかかってしまう。いやもう読んだけどって。

 

クレームを付けている訳ではない。なんか他に作品から外に離れる印象があるのではというだけ。この印象を求めていなければ、人格が確立したイイオトナが小説を趣味するはずがない。印象要らずで需要するだけのコンテンツが世の中に溢れているし。

 

 

僕が読んで感じた印象は、この小説、村上さん以外が出版社に持ち込んで独立した作品として書籍化するのは難しいだろうなという感じ。物語として知り切れトンボだし、村上スタイルが世の中に浸透していないとたぶん読まれない。処女作の「風の歌を聞け」も大御所さん達から批判が多かったと聞いたことがあるし。

 

文学批評とは関係ない印象がもう1つ。人の人生劇場のスタイルって言語化できる習慣よりもっと無意識の領域で確立されているのだろうなというところ。

 

言語で意識化できるのは氷山の一角でしかないというのを表現しているのが村上さんで、現実的にも僕がいちいち行動を意志して決めている訳でもないし、きっとどんな人もそれぞれそういう劇場で過ごしているのだろうなって。

 

これは巷の標語の「人それぞれ」とは違う。この文脈ってあくまで当人の人生劇場で認識できるそれぞれであって、人それぞれを標榜している人のほとんどがたぶん自分の劇場の外に居る人を認知できない。できないことが悪いのではなくて、できない無垢さを大人としている人はヤバイというだけ。

 

満月さんが帰って来ないから、終わってしまった。

いや、今バックしまくっているから帰って来た模様。

 

もっとある気がするのはまた明日として今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い現実を。