邪気

 

 

 

なんとなく体調が悪くなっている気がしないでもない。のどの違和感は声が出ないほどでもないから問題はなさげ。昨日のつくねを少しバージョンアップした和風あんかけの準備はできている。

 

ちょっと体調が悪い感じがすると、行動が緩慢になるのが面白い。体温を計っても37度だったし、平熱から考えると全然動けない水準ではないのにあんまり動かないほうが良い気がしてくる。たしかに、外界に対して内臓が若干過敏になる風の兆候はなくもない。内臓にやってくる温度が鮮明というか。冷えたりんごジュースの温度が喉元を過ぎて胃まで残っているというか。

 

 

そういえば、離職票もろもろが元職場から届いた。仕事が早い。僕はのほほーんという人柄だが、行動は早い。無意識に任せている節はあるが、ぐーたらではなさげ。何かをしようと思った頃には行動が終わっている(ジョジョみ)。だから、むしろしないラグがある時には何かの障害があるのだろうなという感じ。それくらい自分のことは信じている。

 

満月さんの名言で、「動機が変われば物語が変わる」というのがあるが、たしかに誰かに物語る節では、説明の為に理由は必要な気がするが、個人的な感じだと人ってそれほど理由があって行動するみたいな流れで動いていないような。まぁこれだと共有というか共存できないし予測も立たないから、自他共にそういう風に生きているという社会的な時間と空間はあっても良い。

 

でも、言い訳的に○○した方が良かったって過去の理由を語られたところで、その人は行動に移せない人なのだなとなるのか、いや、内心にはそういうキモチがあるのかと解釈するか。これは物語であるというのは分からんでもない。

 

こういう現実化されていないキモチみたいな部分は、人の現実と捉えるか否かというのは絶妙に難しいところ。予測がつくところではないし。個人的には存在は不可思議だから(自己観測)、どちらも不可分な感じで、僕は動機不明なところの方が本質に近いと想って居るから、あんまり動機としての因果は気にしていない。

 

送別会で年下上司がバーベキューを開催すると言っていた日が近づいているが何の連絡もないとか。要は、その言葉を発した瞬間にはそういう気分だったということで良かろうな。誠実とか誠実でないとかの領分でもない。

 

 

この話を掘り下げるのはまぁまぁ面白そう。

 

満月さんの話。

あぁ、昨日はイチャイチャしてお互い寝不足。満月さんは自らの咳の動きと音だと思うが。

 

それはともかく。

 

満月さんって、色々元カレさんと僕を比べる節がある。もちろんあんまり気にしていないが、なんというか、好きだから残っているというより、共同生活の基準値として居残っている部分が多そう。

 

たしかに対等って難しくて、ベクトルを合わせるのはほぼ不可能。家事の回数とか家計への投資みたいなことはどうあっても半分にはできない。投資が多ければ家事をしなくて済むみたいな考え方の人と過ごしたら家事負担が半端ないし、かといって、それを求めて家庭としての場を繕おうとする人も居るし。生活って条件という面接でできるようなものでもなし。

 

マッチングアプリの界隈も刹那で一緒に過ごす条件みたいなことを問題にしている感じだが、そこにかけている費用って金銭換算されていないだけで多大な費用がかかっているような。

 

ちなみに満月さんの元カレさんは自分の方がやっているということで癇癪を起していたらしい。気持ちは分かる。満月さんは言葉と行動にラグがある。今回の体調不良はそのラグに体から逆襲されているのかもしれない。

 

 

引き換えに渡すみたいな感覚。

 

僕にはそういう感覚は一切なくて、というのは言い過ぎで、引き換えに渡すものがないとそこに居てはいけないという社会儀礼はなんとなく分かっている。

 

僕は世界に対して何にも渡していない。言葉も行動も存在までは届かない。

漂流はさせている。そもそも存在が動きだとすれば、この膨大な無駄な文章が僕の存在そのものであるとすると、どこが存在なのだとなるな。

 

なんだかこの生活で夜に書こうとすると文字数が減るから、次世代の生活方式にしないといけないのかもしれない。書かなくても生きていけられるのだが、書かないと楽しみが薄れるし、もっと書ける時間を日常的に確保することはありうる。

 

結局のところ、人生においてみたいないつ終わるか分からない時間でしたいことより、日常でしたくならないと何もできないと想う。

 

 

本日いちゃいちゃするかは分からないけどもここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

ほんね

 

 

 

昨日書いて居なかったのは、満月さんの体調不良が移ったのではなく、遊び過ぎてラーメンを食べて帰ったらもう寝る感じになったから。

 

もしかしたら、満月さんの症状は例のアレかもしれない。ただ、僕に感染していないし、ミスチスルの「over」の風邪が移るから接吻しないということもない。一緒に体温を計ったら36度7分だったが、これくらいが平熱。免疫力高め。

 

満月さんも喉が痛くて声が出ない以外は通常営業っぽいが、想像としての例のアレは弱っている部分に症状が出るのではという感じだから、あんまり弱い部分を強いるのもよろしくないなって。とはいえ本日もデートをしてきた。お好み焼きを食べて、運試しして。夜ご飯んは満月さんがチキンフリカッセという僕の知らない料理を作ってくれるという予定だったが、喉の調子が悪くなってきたため流れた。朝に洗い物とか洗濯物とかしてくれたし、問題ない。体調不良って他人にはどの程度か分からない。

 

前の職場でも花粉症のアレルギーから声を出すのが無茶苦茶しんどそうな人(有能な新人)が居た。大丈夫かと声はかけなかったが、声って存在と近しいから出なくなったら心配するのは当たり前。声を使う仕事だったら商売道具だし。

 

満月さんが喉の痛みをなるべく緩和するものを買ってきたり作ったりはできる。チキンフリカッセは、僕が作る鶏つくね塩うどんになった。余ったてきとーつくねの照り焼きも僕のではない胃袋に収まる。

 

いいこっちゃ。

 

そういえば、性の話が云々という記事が流れてきたのだが、ここの問題って、そこに代替性があるというところ。たしかに、この意味での結果だけで言えば交換可能。そこに価値が在るとするのは悪手。もっと悪手なのが、自分の性体験ってどれだけ多かろうが一般化はできないのに、普遍的にしてしまうところ。どれだけサンプルが増えたって誰にでも気持ち良い行為はできないと想う。いや、ここを独立して捉えている人には別にあるかもしれないけども、ただ気持ち良いだけの行為って良いのだろうか。

 

僕も言うほどそこまで体験はないが、それが無いと一緒に居られない関係は割とアウトだと思われる。お互い枯れた後に何して過ごすのだって。あくまで余剰の楽しみとして扱うところにギンギンに力を入れるのもどうなのだろうな。現在では生活外に在っても良い部分。

 

レンアイ関係にアドバイスするとかは現実界でも一切しないが、あえて言うなら、相手を交換可能かどうかが最上級の問題だと思われる。恋愛脳フィーバーだとそういう風に脳がアピールしてくるが、脳の感じはあくまで解釈する前の感じ。

 

解釈した後に交換可能か。僕の歴代恋人さんは誰一人として交換可能ではなかった。誰に対しても同じように接していない。だからと言って、一緒に過ごせるかというと別問題。

 

例えば、相手に対して日常的にご飯を作れるというは満月さんが最初。一過性のご飯とかは直近の元恋人さんに作ったことがあるし、長く過ごした恋人さんは結構ヤバイ家計で作ってくれていた。おそらくそのカツカツがしんどかったから次はもっと楽をする生活圏をとなったのだろうな。いま楽をして何しているのかは知らない。退場していないかどうかすら。

 

忘れていないから想っているとされるのは一般的感覚だが、僕はそう想われるのが嫌い。

 

だって、もっとも重要なのはいまどこの時空で過ごしているかなのに、過去語りに嫉妬されたら、自分のことを話せない。満月さんはその辺分かっているからちょうど良い。良く元カレさんと類似されるが、元カレさんのように癇癪は起こさないけどなーとか、そもそもそんなに重なっているかいなとか。

 

(個人的にはトラウマ案件と想っておる。生活的行為の交換で言えばたしかに元カレさんの気持ちも分かる。この合理的世界観だと誰も自分と対等にならない。ただ、そんな対等感なんて相手に求めていない。)

 

まるっと存在を捉えているかどうかは自他に拠る。

 

 

というところで、本日満月さんが見ていたテセウスの船のドラマ。ドラマ自体はともかくとして、このタイトルは哲学的なやつらしい。

 

ある船があって、その部品が摩耗していていって、交換して、全部の部品を交換しまったとき、それはもともとの船と同じ物なのかという話。

 

これって、哲学というよりは、実感的。どこまでを同じものだとするのって、解釈的な境界がどこまであるかという話でない?

 

生物学的に人間の物体的細胞は代謝して過去の自分であった物体はとうになくなっているのに自分は統一的であるというのは解釈問題だし、その解釈を正統としている以上、テセウスの船は部品が全部交換されたとしても同じ船。

 

自分の過去を蔑ろにしている人ほど他人を蔑ろにする説。

自分が拙かった時代を無いものにできれば暫定的完成型として自分を誇れるけども、そんな生き方は結局ぶり返しがある気がする。

 

 

全然本の話書けなかった。

まぁええか。

 

満月さんがまだ起きていたらいちゃいちゃしてきます。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

もうちょっと

 

 

 

本日は海鮮豆乳鍋。レシピを探っているとトマト缶を使ったコンソメベースの美味しそうなのがあった。これに豆乳が分離しないコツを加えてオリジナル。たぶん美味しいはず。

 

味見した。分離してしまったが、味的には大丈夫。副菜はきゅうりとみょうがのごま油和え。これも美味しい。

 

 

さておき。

 

 

僕の人格は変人というより、ボタンを2つほど掛け違えているという満月さんの言。的を射ている。現実のボタンの掛け違えはいくらでもあった。パジャマからワイシャツから人間関係やら。なんだか満月さんの顔を見ると泣けてきそうになった。意味不明だが。

 

意味不明という話。

 

本日はアニメの鬼滅の刃は追い付いてしまった。漫画って解釈しようとすればいくらでもできるから、あんまり紐解くことに意味を感じない。1つの説の読み物として楽しむのは良いが、漫画を食べる醍醐味って辻褄合わせの理由を理由付けではなくて、単に美味しいかどうかどうかなような。

 

いま見ているのがドクターストーン。こっちは確かに合理漫画。科学は因果が誰にでも説明できる現象。若干ヒカルの碁感もある。科学(囲碁)が分からなくても読める漫画。

 

現実界だと、数学も読み物なのだろうなという感じ。ベクトルが向きと長さ(力)の集合であるのがやっと読み取れて来た。情報として処理できるものではなく、概念を読み取れる器が準備されているか。いまや計算問題を正解的に排出することが目的ではないから、ここを気にする必要がない。

 

ここの感じで読み物への嗜好も変わって来たというか戻ってきたというか。

 

お風呂読書の好み。箱男とかエドガーアランポーさんは問題ない。結末が問題ではないから。村上さんが終わって満月さんの段ボール書棚から、宮部みゆきさんの{RPG}を引っ張りだして読んでいたのだが、もう読めないなとなってしまった。宮部みゆきさんの本ではステップファーザーステップが好き。ホームアローンの泥棒と和解したバージョンみたいで、結論はどうでも良く面白く読めた。RPGは結論に至るカタルシスみたいな方向への書き方。こういうのが駄目になってきた。もちろん読んでいるし、情報としては読めるのだが、それが文学的に意味あるとは読めない(怒られる)。宮部さんって東野圭吾さんと近い読み味なのか。

 

代わりに吉井由吉さん。意味が分からなくて面白い。

意味分からなくも読ませる文章って言葉の本質に近そう。これを体現しているのが詩人なのか。

 

もともとこんな文体で居たかったのかというのは微妙なところだが、いったん文字数が少なくなっているのは、別に停滞でもない。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。

 

足らず

 

 

忙しくなかったのに喉をやられた満月さんの朝方の体温がやたらと高い。自分の不調を察知したらしく、体温を計ると38度7分。個人的には身体が発熱するだけなら邪気を発散する為の正常な機能だと思っている。昼頃にはやや下がっていたみたいだし、たぶんそんなに問題ない。

 

とはいえ、しんどそうなのは確か。朝一でポカリスエットの追加と風邪薬と雑炊とゼリーを買いに行く。薬局に雑炊の素がなかったため、レンチンご飯だけ買って帰ってからツナとネギと卵の雑炊を作った。風邪薬は間違える。自分が薬をほとんど買わない(常備薬もない)から、抗ヒスタミン配合の運転をしたら違法になるものを購入してしまった。風邪薬にはほとんど入っていそうだが調べたらこれは鼻づまりに利く成分で、今回の満月さんの症状である喉と発熱と頭痛には外れている。更に調べると入って居ない風邪薬もあるらしく、追加で買いに行った。薬剤師さんにも念の為聞いたから問題ない。

 

 

夜ご飯には大阪名物肉吸いうどんを所望されたので、なるべく完成度高い感じで。副菜は喉と風邪に利きそうな大根とはちみつで梅肉和えにしてみている。風邪でも仕事に行った満月さんが食べられるかどうかは定かではない。風邪って邪気が溜まってきているから安静にしろよというサインだからこういう時に休める職場が良かろうに、それが赦されない。味覚に障害はなさそうだから食欲はありそう。食欲があれば身体は生を欲している。

 

という感じで、心配はしたところで仕方ないからできることをするのが愛の行為ではないかという実践。別に僕がされたいことをしているという感じでもない。僕はあくせく何かされるより放って置いて欲しい感じ。元気なときに一緒に居たいし。僕が居てできることを埋められれば良い。別にそれに何かが返ってくれば良いという感じでもない。

 

ただ、こういう風に生きたかったのだよなという感はある。

情けは人の為ならず。何かが返って来るという合理的理由で動いていない。だから今までズレて居たのか。

 

これがひねくれなのであれば、良きひねくれだろうな。

 

あ、帰って来た。

 

 

ともあれ。

 

鬼滅の刃を見ていた日中と、現在見ているバクマン。ジャンプには友情・努力・勝利という表のテーマとは別に、血統・才能みたいな節がある。もちろんそこに憧れるという意味では夢を提供する漫画として素晴らしい。この文脈だとジャンプ漫画だと「ハイキュー!」が好き。「スラムダンク」も泣けるが、後者はもともと恵まれていたのを努力で開拓した感じ。

 

漫画の話はともかくとして。

 

 

本質なき疎外の話。これはとても消化しきれていない概念。「暇と退屈の倫理学」の中にあった。

 

何とか主義の理想像の話は昨日書いた気がする。もうちょっとえぐくすると女性主義の考え方のやつも、女性が変に低く捉えられたり高くなったりしている。歴史上どうだったかはともかくとして、現在なら優遇寄りの方が多いのに、蔑ろにされた歴史上の女性性を自分事としているのはだいぶずるい。そんなこと言われたら何にも返せないし。返せないように保身されると何も言えることはない。

 

もう少しえぐると、自分の本質が理想像と経験則像だとすると、そんな本質は無いと言って良い。これは別に誰かを否定している訳ではないし、今までの自分を否定するでもない。

 

色々気になって文字数少ないが、書けないから少なくなっている訳でもない。

 

 

ここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

つごう

 

 

 

右耳から窓を打つ雨、左耳からは寝息の音を聞きながら寝入る夜。

 

 

本日の夜ご飯のリクエストはネギトロ丼と茄子の揚げ浸しと茶碗蒸し。レシピの幅が拡がる。白髪ねぎとか初めて作ったような。1人だったら、こんなに手間かけない。茶碗蒸しを食べたくなることもないし。こういう拡がりが人と過ごす意味なのだろうと思うけども、一般的には違うような。できることをしたいではなく、できなかった、しなかったことができるようになること。

 

書き出しは捗らなかった。何やら眠くて。個人的に自分に対してはしたくないことはしなきゃいいと赦しているから問題ない。この余白のなさは何だろうと思わなくもない。ほんとになくなったら本が読めなくなる。

 

本質の深いところに至ればあんまり言葉がない世界がある。ソシュールさんなのか構造主義言語学者全般がそうなのかは定かではないが、言葉が世界を構築しているものだとすれば、言葉以前の世界は世界より前に存在している訳で。

 

 

ちょっと難しくなってきた(自分が)から、今日観ていたアニメについて。

 

刀語」。西尾維新の言い回しって好きだわ。言い回しが好きだということは世界観が好きということ。いや、この続きもアニメを見ていない人には語れないことなのか。語れるけども、あんまり通じない。いや、通じないから何なのだろう。アンバランス。

 

どうしよう。

 

ちょっと想ったこと。

怒りの感情って当人にとっては理不尽な炎のようなものだが、怒りの感情の構造自体は凄く合理的に構築されているような気がする。僕がほとんど怒りの感情を起こさないのは人間的にあんまり完成されていないからだろうな。怒って良い場があんまり分からない。怒らずにやり過ごした方がとんと楽。

 

復讐が何ももたらさないというのは「うしおととら」の名言で、でも、世の中の人は逆襲というカタルシスを創作に求める人も多い。先にやったのは相手であって、やり返すのは合理的な正当性があるという物語。現代社会ではこういうかたき討ちみたいなことは認められていないから刑法上両成敗になるが、合理的な感情は慰撫されない。人間の心理としてみたいな感情論は村上さんの「アンダーグラウンド」の理不尽な事件への合理的感情操作を読んでいて思う。

 

合理性というのは結局のところ、なんてところまでは分かっていない。ただ、他人を責めながら一緒に居る関係は在り得ないという感じ。

 

暫定的には、合理ってあくまで当人の世界観における理屈でしかなく苦しんでいるのもそうしたいからというくらい。他人に対して自分の合理が通じるというのは、経験則は一般的に合理性があるという感じだが、僕はこの意味で人にアドバイスはできない。

 

それがそうだという世界観でやったことはあったが、たぶんその後輩たちの誰にも何にも通じていない。ほんとの伝授は当人の生き様の非言語を採り入れることであって、言葉での知識ではない。

 

 

本質なき疎外という概念。

 

これは「暇と退屈の倫理学」の倫理学にあったもの。リヴァイアサンとか資本論とかは理想的な人間像が作者にあったのではなく、読んだ人によって本質というか理想像があったという説。

 

 

理想ってなんだろうな。物事の考察において、理想像から逆算することは良いこととされる。目的とかあるべき社会みたいな。個人的には、ここの危うさは世界の現実と自分が乖離しないかというところ。現実は理想通りにはいかないし、理想ではない自分を認めずにネガティブになる。

 

そこに対して何にも思わなくなっているのは楽しい。

僕は無合理だから、人の合理性を吸収していくしかないのだろうなぁというのは書き過ぎ。

 

文字数をもっと書きたいのだが、今日はここまで。

 

もうちょっと消化できたら今度。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

てんかい

 

 

 

嵐のような雨降りの1日。部屋の空気はこもっているが、気分は全然じめしめしていない。条件に左右されない心持ちというのはある意味最強なのでは。

 

 

本日は冷やし豆乳坦々うどんをご所望だったため材料を買いに行きがてら少し運試し。また食費を稼いでくる。遊んで暮らすのが当然という世界になっていいものか。良いのだろうな。

 

早めに帰って来ると言っていた満月さんがさらに早上がりになった。ご飯の準備はもうほとんどできていたから問題ない。美味しそうにぺろりと平らげてくれた。良いことだ。レシピを調べて作ったが調味料が完全に一致できないから勘で調整する。この調整もてきとー。鍋ご飯もうまく炊けるようになってきた。これもてきとー。

 

ここでいうてきとーは量産できないということ。小さじとか使わないし、分量が定量化できない。共有できないしレシピの紹介もできない。料理は科学という話も分かりみだが、なんというか文学でもありそうな。行間の工程化できないところに秘訣があるということ。巷のレシピだって、塩少々とか中火とか、実際は感覚的なところがあるし。普通にやっている人用の材料表というイメージ。

 

 

あぁ、満月さんがブラッキーな連勤でストレスを発散したいもようなので少し付き合ってきます。運試し。

 

また後で。

 

 

帰ってきた。僕は負けたが、満月さんが大勝したからトータルでは勝ち。僕の本日の運は枯渇していた模様。もしくは文章脳のときはそういう感じではないという解釈。

 

 

こうやってぐだぐだ過ごしているようだが、生活ですることはこなしている。掃除は毎日するようなものではない(水回り以外)と想っているからあんまりしないが、ご飯は作っているし洗濯もちょこちょこはしている。時間が無い時にもここら辺はきっとできるのだろうなという準日をしているような。距離の移動の話で書いた、物理的移動がほとんどない所作だから問題になるはほとんどが意志の部分。もともと結構マメだから、必要を気にして細々心が動いていた。心が動くということはそれに準えて現実も動くということ。

 

必要は大事だが、ほんとうの動きなのかというと微妙だなぁと想う。

 

どうあれ、空いた時間に何をしようかという話。

 

本日は午前中アニメ(刀語)を読んでいたのだが、午後食材を買ってきたあと1時間くらいぽっかり空いた。何か考え事をして思考を書き出したいなという感じが起こる。手書きの手応えが恋しくなってきたからスーパーでルーズリーフを探したのだが、食料品メインのスーパーだったから無かった。

 

仕方なく、wordでまとめながら民事訴訟法のテキストと小六法を読む。PCだと記録して読み返せるから、テキストにある余計な情報も無駄に書こうとしたくってあとから見ると何も書いていないようになってしまう。でも、本日書いたメモはなんというか、行間を埋める感じで自分好み。考え方を収集するのは、定義を文字通り覚えることではなく自分なりにかみ砕くこと。こういう風に考えたかったのだろうな。

 

 

細かい話はどうでも良いと思うし興味は無いと思われるのだが、なんとなく。

民事訴訟法自体が法学の中でもマイナーで、勉強している人達の中でも「眠訴」と揶揄されるほどで、本日読んでいたのはさらにマイナー(でも割と重要)な補助参加の話だった。当事者同時で訴訟をするのが本来なのに、第三者がそこに入り込めるのはどういう条件(要件)なのか、という話。

 

ここで、そもそもの本来当事者同士で裁判するのは何故なのかということになってくる。裁判で法的判断がされることで、法律上の地位が変動する、もう少し言えば、判決によって強制的に法的地位を優位にする価値があるかどうか。専門用語で言うと「訴えの利益」という。要は利益が動かないところに、公的資源を消費する必要はないという意味で、司法は全ての紛争を掬うようなものではないということを前提としている。

 

僕は結構こういう合理性は嫌いではない。

こまごました定義もその為にあるというのが面白い。

 

 

 

 

これを踏まえた上で、行間を埋める言葉を書き出していくべきだなという感じがある。メモを取るのではなくてただ書き出すだけだからその後は捨てて良い。もともとのてきとーな感じをもっと言語化していくという試行ができる時間だなと。

 

もともと合理的で生きてはいないが、言葉は合理だからこの矛盾をもっと楽しもうかなと。メモ帳160枚を調達してきたから、色々書いてみよう。

 

ちょっと短いけどここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

赤月

 

 

4時くらいに目が覚めて二度寝できなくなったからリビングに移動してソファで漫画を読みながらうとうと。満月に近い月はさすがに2つにはなっていなかったが、なぜか真っ赤に近い色。向かいの病院の窓も赤みを湛えていて、窓に不審なカゲでもうつってきたら怖いなと思った。

 

そういえば、1人で眠るのが怖かったのはいつまでだったか。今考えたら子供部屋の二段ベットで姉とか妹とかと寝るのは物音で無理な気がするが、昔は誰かが近くに寝ているとむしろ安心だったのだろうな。この恐怖を分析すると、根源的には死への恐怖な気がする。意識が途切れた延長に死があると素朴に感じてしまうのだろうな。小さい頃の金縛りはなかなか半端ない。零感人間だから霊感的な意味ではなく意識は覚醒しているのに肉体は寝ているというだけと解釈しているが、寝るのが怖くなるのも仕方ない。

 

ここを延長していくと、最終的には最初の恐怖に戻るのかもな。

 

 

ということを考えていた朝方を終えて。

 

本日もなんだかんだ2、3時間は歩いた。またマッピングが拡がる。

 

まずは散髪。美容院で2回切ってもらった人が異動になってどこかと思ったら、全く遠くなかった。少し迷って行って雑談しながら切ってもらう。日焼けはバレる。ここで散歩焼けと言える自分はなかなか僕になっている。どれだけ歩いたかはいちいち説明はしなかった。引かれるからというより、そこまで説明する必要性を感じないだけ。あくまで切って切られている間の時間繋ぎの対話。かといって、おろそかに話しているということもない。これはこれで面白いし。

 

人が感じる距離って物理的な誰にでも説明できる距離ではなく、時間と意志と目的の相関なのだな。この後家電量販店に行きたいと言ったら理容師さんが道順を教えてくれたのだが、言い添えて「車じゃなかったら遠いですよ」って。たしかに、一般的な歩行距離としてはちょっと遠い。たぶん30分くらいはかかる。ただ、ここ数日歩きまっくている僕の足はむしろ近場だろうという感じでずんずん歩いてくれる。見た目とか触ったところでこの細身の足がこれだけ歩けるのかは分からない。

 

僕の健脚はともかく、遠いかどうかは目的と意志にかかるのだろうなという思索。要は、目的地まで徒歩で行くという時間をかけられないということ。車があれば時間は短縮できるし、移動そのものを目的にしていない。厳密に言えば時間が無いというより、時間の優先順位上身体を動かすことより目的地に早く着くことの方が大事。こういう考え方は分かるのだが、だったらその空いた時間で人は何をしているのだろうとはなる。別に全てを生産的な過ごし方をする必要はないが、無意志的な時間が増えるのはあんまりよろしくない気がする。好きにすれば良いけども。

 

しかし、ここの生活圏内、道が平らで歩き易い。前の生活圏は登り坂が多くて、自転車もほとんど電動だった。ここだったらママチャリでたやすく活圏内が5㎞拡がるなぁとか想いながら、昨日の日記でやらかしたのではないかという想いがふと浮かぶ。

 

浮かんだということはやらかしていた。十二国記の作者さんは文化人類学者ではない。文化人類学者なのは、同じく好きな作家さんである守り人シリーズの人だった。世界の作り込みが同じくらい好きだから存在が混同していたというやらかし。

 

家電量販店に向かう道中凄く恥ずかしくなる。一刻も早く訂正せねばという衝動が起こってくる。でも、これを訂正するのは何かおかしくないかという逆張りも起こってきて。

 

この恥ずかしさって僕の歴史上にいた正しい情報警察なのだろうなと思うと、むしろこのまま残すのが自然体。正しい情報警察の原初が母親というのがなかなかの人生劇場。親戚一同でオーストラリアに旅行に行った小学生高学年時、空港のファミレスの「レディース」という言葉が分からなくて単に美味しそうだと想って「レディースセット」を所望したら、親戚一同の大笑いされるという歴史。トラウマというほどでもないが、外れると恥ずかしい目を見るのだなという経験則を得てしまった、小6くらいの時分。

 

たしかに正しい情報を前提とすることって大事だし、文章を書く人がまず気にしているところかと想う。変に書くと正しい文法警察がやってくるだろうし。僕は変に言葉を覚えていたとしても伝われば良いという立場だし、そもそも正しさって情報が更新されていくものだし、どうでも良いところ。

 

そうして訂正しないことにしたのは、そもそも僕の文章を読んでいる人が正しい情報を求めていることなんてあり得ないだろうなというところから。情報として採り入れて自慢したら、相手の親切さが測れることになる。違うよって優しく訂正してくれるか、馬鹿にするか。正しい情報警察の人達は人を馬鹿にすることを目的として正しさを取集しているのではないかという気がするし。いや、厳密に言えば、自分の置き所が正しさにしかないから、せっせと自分を正しさで守っているという感じ。

 

僕はいまのところてきとーにしか書けない。劇評として雀の涙ほどの収入を対価として頂いたときだって同じこと(引用する時は文章が間違っていないかと何回も確認したが)。

 

書かれている情報より書かれている内容が大事だとすると、そこの情景は主観的な創作であって、客観的な情報ではないということになる。それが良いかどうかはともかくとして、文章で現実を厳密に描写することは不可能、という意味でてきとーにしかならない。

 

この不完全性が大好きだから書を読めるという感覚を共有できる人はどれくらいだろう。

 

 

やれやれ。

 

とはいえ、頭が腐っているのではないかというとなって、最寄の本屋さんで小六法を買ってきた。シーフードカレーを作るとか洗濯をするとか時間が押していたからあんまり読めていない。侮辱罪が重罰化するって、社会が人格を大事にしているのが変わってきている感じ。もちろん、ここでいう人格は社会的なところだけど。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。