かんかく

 

 

 

豚しゃぶは湯通ししたあと冷蔵庫で冷やすと固くなるらしい。常温でゆっくり冷やしている。白ごはん.comは名前に似合わずカバー力が凄い。

 

ようよう暑くなりゆく夏際。お風呂読書から出ると汗だく。体の荒熱を取るためにタオル1枚で作って冷やしておいたメイン以外のご飯を準備。もう夏だと言うと満月さんに突っ込まれるのだが、夏は季節というより状態に近いという定義とすれば、問題ないような。満月さん以外には言わない時点で一般的に未だ夏ではないというのは分かっている訳だが。

 

 

さておき。

 

文字数が少なくなっているのは、考え事の容量が多くなっているからかもしれない。満月さんは僕が作った副菜をあんまり食べていないような感じがして、あまりお好みでないのか、もう少し濃い味に寄せた方が良いとか、僕が仕事をしだした後にも今と夜の時間帯の動きはあまり変わらないだろうから、もっと早く色々こなせるようになった方が良いよなとか、仕事をしていたときより頭の稼働率むしろ上がっていないか、いまのうちに読めるだけ本とか文章を読んでおいたほうが良いだろうなとか。

 

本に関しては、法律学の古典と言われている本を攫いたい。どちらかというと世界的な起源ではなく日本の古典とされている人達。憲法、はちょっと政治よりだから微妙だが、民事訴訟法とか刑法とか行政法とかそんな方面。まぁ前の仕事をしているときも全然関係ないものばかり読んでいたし、いまも読んでいるから、時間さえ確保できれば問題なかろう。

 

また岡田さん動画がネタなのだが、頭の駆動にはハイとローとミドルがあって、全部大事という話。ハイはぽんぽん瞬発的に考えることができるのだが、頼ると思考が浅くなりがち。状況に合わせて良いようなことを言えたり書けたりするが、あんまり人の話が聞けない。人の話を聞くためには意識的に脳の回転数を落として、相手に共感するようにしないといけないというのは至言だと想った。

 

これって発話しながらとか人と対話しながら考えるときの脳の回転の話だから、全般でもない。でも、発話することによって自分が何を考えているかが当人にとっても確定するというのは面白い。僕も色々書いているけれど、考えていたことを言語に写経した部分はほとんどなくて、だいたいは書いているときに自分ってこういう風に考えていたのかとなるのが大部分。これを人との会話でするというのはとても難しいのは分かる。自分のことを語りたいという欲求がほとんどないのに、あえて相手に時間を取らせるのは天秤としてあんまりない。

 

ここで、対話の話が出てくる。曰く、口下手な人は正確な言葉とか、この言葉によって自分がどうなるかを気にし過ぎだから、普段より3倍4倍くらい意識的に発話すれば良い、相手が勝手にまとめてくれるからって。なるほどと思った。僕はこれを酔っぱらっているときか直近の仕事の時にしかできなかった(文章ではいつもしている)。

 

これは他人を尊重し過ぎていたのだろうなって。もっと素面でも色々酔っぱらってみて良い。中学生くらいまで何を言っているのってよく言われていたから、人と対話する時は注意も思考も無茶苦茶ローギアにしていて、ローにすればするほど相手に共感モードになってしまう。これも厳密に言えば具体的な相手への共感ではなくもっと抽象化された当人の人生劇場の主人公としての視点への想像。自分事として感じることは共感ではなく同情であって、他人事を他人事として痛かったり苦しかったりできる想像が共感だとしておきたい。

 

同情と嘲笑ってとても近い位置にありそう。笑う傍観者になるのか慈悲深い行動者になるのか。

 

次は義務教育の話。行進をしているときに自分の手と足をどう動かしているか分からなくなるのは、もともとの体の動きとはズレていたからかと納得。集団行動を学習させるための義務教育でなければ、皆テストで100点取れるところが水準になるはずだよなって。身分制から個人平等主義ないし資本主義に転換するにあたって、時間を合わす必要があったし、出自やら価値観が違う人を一緒くたにするために一体感を植え付ける必要もあった。

 

知識を学習させるという表のカリキュラムとは別に、集団の時間制労働に馴染める人材を育成するのが裏にあったというのはとても分かりみがある。僕も義務教育時代どれだけ嫌でも行かなくてはとなっていた。その反動で大学は出席を問題としない講義はサボっていたし、逆にその先の仕事では1人で居る限りサボりも遅刻も起こるべくがないという。労働契約なのだから、働くことは権利も入ってくるし、責任って義務に付着しているのではなく権利の方。

 

時代は変わってきていて、メルカリが道徳の授業を担うみたいな話もある。約束を守るということ以外にあと2つあったけど忘れた。この約束論は民法上の契約よりマイルドで、それを破るとあとあとトラブルになるから、自衛のためにネット世界に公開した言語情報は守りましょうというくらいの意味だと思われる。

 

時代が変わっているといえば、ちょうど10年前くらいの講義で、新卒を成績順で採用すると女性がほとんどを占めるのだが、上位の女性には上昇志向が無いし単に上から取ったといっても男女平等にならないからそんなことができないという話。

 

新世代からすると旧世代はアップデートできていないということになるが、旧世代は新世代の考え方が理解できないというのは分かりみ。僕はまぁまぁおっさんなのでバブル崩壊とかゆとり世代とかその先も見てきていて、今というかこの講義で言われていた考え方の方がしっくりくる。おそらくゆとり世代のちょっと手前の教育を受けていて、新卒の就職活動を大学院に行くことで回避した。

 

ここで言われていたのは、私有財産制の不都合性。

財産が固有であるということによって経済が効率化していないよねという慧眼。シェアできる物はすれば良い。

 

個人的には車の整備を個人の責任にしたら事故率上がるだろうし、ちゃんと整備をしている車を使う時だけ、皆で使った方が、車検とか保険関係もすっきりする気がする。ここに移行できないのは、それをすると車が売れなくなる自動車産業の圧力なのでは。もちろん地方だとこれで移動するしかないからそれはそれで良かろう。我が実家界隈だとそんなこと絶対できないし。

 

 

 

少し遊んで帰ってきました。

 

まだいろいろある。面白いクリエイターさんの動画を見つけた話とか。社会風刺に寄っているからこそいっぱいの人に見られているのだろうが、個人的には雰囲気が好き。同情を集めないようなバランス感。

 

 

今日はここまでで良いか。

 

また明日。

 

おやすみなさい。

良い夢を。

 

 

きょこう

 

 

 

寝たり歩いたり。昨日の雨は紫陽花の花の栄養になった模様。元気に開いている。日本の古文の笑いの表現は開くということで、花のように笑うとかなんとか。ベルグソンさん流の嘲笑も開くことだが、日本の表現の方が好き。個人的にはいつも閉じながら笑っている人より、通常形態では不愛想な人が時々開いて笑う姿態のほうがお好み。

 

笑いとか感動というのは、やるせなさにある。岡田さんがロードラマとハイドラマを語っていて、前者は24時間テレビとか世界の中心で愛を叫ぶとか君の名はみたいなことで、後者はETとかターミネーターからしい。感情を誘導していくか、鑑賞者の気持ちの動きがどうなるかを投げっぱなしにできるのか。予測と外して何かを波打たせる作品は凄い。

 

 

さておき。

 

アニメが捗っているのはとくに怠けている訳でもない。いや、社会的には怠けているのだが、社会的なところで生きていないからこそ、頭が働くというか。いやいや、仕事している時分でもだいたい余計なことばかり読んで考えていたから、通常営業ではある。

 

満月さんイチオシのスケットダンス。シュールな笑いみたいな感じで好きなのだろうな。あんまり読んだことはないが、主人公の出自があまりに悲惨すぎて共感されないようにあえて描いているのかもしれない。喜劇と悲劇の落差が凄い。バランスが絶妙なのだろうな。

 

 

あと、虚構推理が個人的にスキ。おそらくラノベ由来の怪奇SF。ヒロインのフォルムが良きというのは怒られそうだが、そうでもなく、物語の構造というか、合理的虚構が面白い。事実とは矛盾がない説明があれば依頼者は納得するというやつ。僕も前職でよくやっていた。正しさを追求すれば無駄に時間がかかるから、正しいかどうかはともかくとして相手の不安を解消する合理的説明で答えを回避する。真実なんて知る由もないし、説明が付けば問題ない人は多い。真実が不安を解消できるかどうかなんて分からないし、だいたいは辻褄が合っていれば安心する人が多い。

 

別にカウンセラーでもないけども、クレームで他責にする人はそういうのが多い。納得できれば虚構でも問題ない。

 

 

そもそも虚構と現実の違いってなんだろうという話。

 

 

合理的な説明って考えれば考えるほど否定に寄る。岡田さんが言っていたのだが、人はネガティブが通常で、ポジティブな奴は酔っぱらっているからだという話。たしかに。真面目に合理を考えればネガティブばかりになる。

 

このネガティブの合理って無駄だな想うのだが、現実を考えようとするとそうなる。まぁ脳(無意識)としては、そういうネガティブ要素を意識することで生存率を上げようとしているような。物理的な生存率というより、アイデンティティてきな存在律のよう気がしないでもない。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

敷居

 

 

 

朝ごはんは納豆かけ梅干しご飯、昼にはコンビニで袋ラーメンを買ってきて放っておいたら液体になってしまうもやしと、キャベツと焼豚を加えていただく。気を抜くと野菜成分が足りなくて欲求不満になる。夜はやたらとトマトが食べたい気分。おつとめ品のトマトを昆布茶で和えて、昨日ささみで巻いた大葉の余りを千切りにしてまぶした。野菜成分とは別にきのこ成分も足りないということに気付き、しいたけ、えのき、ぶなしめじでレンチンマリネを作った。

 

たんぱく質や糖質、脂質、炭水化物みたいな必須ではないからこそかえって野菜やらきのこが好き。僕の存在を食卓で喩えれば野菜(副菜)にも至らない調味料だとしている。調味料がなければ食材が口に入るに至らないとすると、なかなか重要なポジション。

 

 

やれやれ。

 

無職時間を謳歌している。運試しも飽きてきて文字を読み漁っている。ところで、前職のバーベキューの予定は明日だったが何の連絡もない。おそらく職場のスケジュール調整が上手くいかなかったのだろうな、管理能力というより、あの職場の良さはイベント事に強制参加性がないところだから問題ない。イベント事だったら硯がやってくるぞという宣伝をしたかどうかも不明だし、同僚でなくなった僕とまだ会いたい人がどれほどなのかも不明。

 

仮にバーベキューの世界線が現実化したとして、この1ヶ月何をしていたかと問われたら、散歩で自己の肉体で生活圏をマッピングしていたと応えるだろうなという思索。スマホの歩数と移動距離が証拠になるし、日焼けしているのも補強になる。まったくもって非生産的な挙動だが、散歩しながら迷子になることって、ある意味、現実的な場の領域を把握する挙動でもある。電車とか自動車だと空間把握がバグる。いや、バグっていることこそ現代的には常態でもある。

 

別にここまで話すことはなかろうし、20キロ徒歩したなんて功績ではなく引かれるに違いないから開示できない。この開示できないというのは一般的な社会性という場がありき。移動に徒歩を手段とするのは非合理極まりない。

 

本の話も話せるかなというのは都合良過ぎだが、何かを読むというのが生活圏内だとすると、それに基づいて思索するというのは頭を迷子させるということになる。思考の本質は散歩と近そう。そうじゃないと僕はきっと言葉を読めない。散歩させてくれない文章が読めなくなっているのはそういうことなのか。そういう文章がどういうものかという類型化は僕のお仕事ではない。端的に言えば共感だけが求められているという感じ。そういう風に表現を使うのはやめた方が良いようなとは思うが、好きにすればよかろう。

 

 

 

ここからが本題。

 

本日はPDF論文を2本食べた。濃厚なご飯のインプットは容易く吐き出せない。

 

ベルグソンさんの「時間と自由」を昨日段ボールから発掘して読んでいる。この人は哲学者の中で分かり易い論考をしている。

 

ここから先の論考は酔っぱらっているから書けないというより、読まれたところで場的に意味が無いだろうなという感じ。でも、自分の散歩場所なのだから、好きなだけ書いて良いはずという、何の論拠も無い暖を熱量にして。

 

 

笑いの論文で徒然草と併せて論考するという大好物なのがあった。兼好法師さんは日記的文章を世の中に公開して良いのだなとなれた師匠。公開される徒然の記録って、存在を認証される為に書かれるものではなく、単にその人にとって世界がどう見えているかの表現であって、良い感じにするのも卑下的感じにするのも違うよなぁって。

 

自然の移ろいが状況ではなく現実であるというのが、古文の文章。」

 

ベルグソンさん流の笑いって、優越性の原理がだいたいを占めているらしい。いじめと繋がりそうな理論だが、喜劇にある笑いは、社会からした人間的ではない機械的な反復みたいな話。僕が優越性の原理を読んだはじめはからくりサーカスだったのだが、なるほどと思う。道化が社会的な通常からずれた機械的動きをすることが滑稽だって。

 

ベルグソンさん理論でいう笑いは、嘲笑であって、昭和のコメディで良くあったやつ。

ネットでは未だにあるかもしれない。傍観者であることによって社会的不適合者を笑えるという冷笑観。

 

これと、徒然草の「をかし」を繋げてくるのがこの論文を書いた人のオリジナル。優美であるとか、単なる面白みとは別次元だよなぁって。

 

 

満月さんは僕が笑いかけると馬鹿にしているということをやたらと言う。たしかに笑いの本質ではある。自分が相手より上だから笑いかけるというのが優越性の原理。僕はそういう原理では笑わないのだが、そうやって笑われるというのも分かる。自分を傷つけない対象だから笑顔になれるというのがペットとか動物動画で笑える心理。

 

安全圏だから笑えるというのが喜劇における笑いでもある。

 

僕が笑っているのは、相手がどうこうではなく単に自分が嬉しいからであって、「をかし」の構造とも言える。をかしの構造には肯定と否定の両義があって、単純に良いみたいな話でではない。

 

ちゃんと笑えない現実を経験しながらそれでも笑って過ごせるという話。この文脈での笑顔は、無邪気ではありえない。

 

面白い。何かを単純に楽しむなんてできなくて、楽しみは虚ろが両義的に存在しているというのが一般的解釈。徒然を観測する中のおかしみとかたのしみは自己との相対性とはあんまり関係気がするが、自分が天動説だとあくまでどうあれ世界は絶対的なことになる。

 

笑いは古文の世界だと開くことで、花が開くのと笑いを類似にしていたというのを読んで、良いなぁって。本日なかなかの雨具合だったが、それで紫陽花が笑えるのであれば良いこと。

 

ここで、大昔の高校時代、古文はできたけど英語があんまりできなかった理由について考える。古文は法則が少ないというのもあるが、法則が少ない分、なんとなくニュアンスで読めてしまう。日本語の文章も単語の意味が読み取れなくもだいたい分かる。英語は法則がともかく、単語に意味があるから、単語が分からないと太刀打ちできない。日本語の単語もそんなに分かっていないのに、外国語の単語を読める訳がない。といって、英文を読み取れるようになりたいという欲求もほとんどない。ドイツ語なら読みたい。法律とビールのメッカだし。笑

 

言葉とか概念とか構造のメカニズムみたいなことを読んでいくにつけ、やっぱり世界はそれほど確立したものではないよなというのが自由で良くなった。

 

構造主義とかポスト構造主義とかの話って、たぶん読んだ人が外から分析した括りでしかなく、ほんとはそんなことを表明したかった訳でもないような。

 

まぁ、したいように書物を辻褄を合わせるように照合していくというのが研究であるというのであれば、面白そう。

 

雑になって終わるのもあれなので、アレだが、ちゃんと他人が居ない(観測者を想定していない)文章って、あんまり面白くない気がする。世界において読む人がお客様であるというのであれば、分かりみだが、少なくとも僕は僕の文章を読んでいる人をお客様とは思っていない。

 

ここが「をかし」

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

日常

 

 

 

案の定、出がけの満月さんに「働かざる者食うべからず」と弄られながらお見送り。この辺のユーモアがあるのは面白い。現代社会最低限食うくらいは保障できそうだけども、食うことが生存以上の産業になっているからどこが最低限かというのが分からなくなっている。

 

個人的には大人に3食+おやつはカロリー過多だと思っているが、食が物理的な身体を保持することを越えて人生の楽しみに越境しているのだからそれで構わない。食べたい人はいくらでも食べたら良い。問題はカロリー云々より、おそらく罪悪感。罪悪感を抱くとき脳からドーパミン出ているのかもな。だから止められない。

 

ちなみに僕はお酒を飲んでいることに対して罪悪感は皆無。飲酒運転もしないし、仕事中から飲みたいとも思わないし、次の仕事が決まったら調整が入るし。煙草も吸うのだが、歩き煙草みたいなみっともないことはしない。みっともないとは何ぞやとなるがともかく。

 

本日の晩餐はリクエストされた台湾風焼きそば。あとは麺を入れてタレを吸わせてニラともやしをシャキシャキに炒めて完成。その前にリクエストされていたのが豚肉の大葉揚げで、台湾風焼きそばに豚ひき肉を使うから止めたが、そういう舌になっているのだろうなというのと、自分が食べたいのを組み合わせて、鶏ささみの大葉チーズ揚げ焼きにした。給食のささみのチーズ焼き好きだった。あと副菜として茄子の浅漬けを作ったのだが、やたらと塩味が強い。今日暑かったしお風呂読書でいっぱい汗かいたし、ちょうど良いのは確か。

 

飯生活。僕が仕事を再開したあとどうなるのだろうなというのを想定している。仕事さえしていれば肉体を維持するための食糧はなんでも良いのも分かるのだが、個人的な価値観として、物理的な肉体に近いものほど厳選していくものだと思っている。シャンプーを高価にするとかは普通にあっていい生活観だし、口に入る物を単に美味しさを感じるもので占めさせるのは生活とは言えないようなって。舌ざわりの美味しさだけを追求している外食産業は娯楽としてのものであって、生活ではないって。

 

お米が潤沢だったら普通に弁当作るのだけどなと思いつつ、満月さんも特にお米もお弁当も欲していない。まぁ昼ご飯を食べながら職場の別店舗の人とコミュニケーション取っている節もあるから食費というよりは交際費でもある。いや、満月さんが日常的にお昼を食べてるお店、すげぇ美味しいのはたしか。岩牡蠣とかタコの踊り食いとか、そりゃあ高価で当たり前だわという感じ。おそらくほとんど利益ないだろうなって。

 

しかしながら、満月さんは来月異動になるとのこと。職場は近くなるが、他店舗の人との関係は1からで遠くなるから、食べることとコミュニケーションが一致しなくなる。せっかく買ったお弁当箱が稼働する世界線に移動してきた模様。卵焼きとか副菜の箸休めくらいなら日常生活の中で作れる。生活軸によってはなんならお弁当を歩いて届けることも可能。

 

 

働く場所って条件よりどれだけ生活圏と近いかと思っているのだが、サイコパスの岡田さんも同じようなことを言っていた。ニュアンスは若干違う。岡田さんは生活圏に近い仕事場で働いていれば自己存在の肯定的評価が高まるよねという感じ。僕は通勤時間という賃金が発生しないところは無駄だからなるべく少ない方が良いよねという感じ。生活の定義って、1日とは言わずともプライベートがある程度の期間で循環することであって、8時間労働+出勤諸々では生活がままならない。おそらくこの制度が専業主婦なる概念を創り出したのだろう。いや、働くよりも職場の人のとの賃金が発生しない関わり時間の方が多かった可能性もある。

 

個人的には徒歩圏内かつフルタイムの8時間労働であればお風呂読書もできるし自炊もできるという前職の3年間だった。休日には遠征して迷子になることもできる。

 

仕事と言えば、ちょっと台湾風焼きそばを仕上げてくる。

 

蒸してきた。

 

 

これも岡田さんの言なのだが、仕事って自分を生かせるみたいな自己主体ではなく、自分の資質を必要としているのがどの分野かという視点をずらした方が楽に決められるとかなんとか。まぁ何にせよ人と関わらないといけないから、関わらなくても良い仕事なんてないというのがコミュ障としては絶望的な世界。僕もコミュ障ではある。

 

というか、特に人との疎通で暖を取っていない人物。

これで小中高大と恙なく過ごせたのは素晴らしい。いま具体的に接している満月さんも僕の事を小躍りするやべぇ奴だと言う認識だし、自分を解放すればこんな感じになる。満月さんがぷりぷり怒っていても特に気にしない。だって怒りって相手と自分の波長が合って欲しいというぐずりだし、それをピンポイントで改善したところで次の怒りがまた出てくる。

 

もちろん他人とは調律はする。価値観が流されるという節もあった。

制限しないと関われないというのはずっとあった。色々分かっているという天才ではなく、迷子的な意味。神妙なシーンの神妙さが良く分からないなりに感動したり悲しくなったりしていたが、これって結局、場における感情の礼儀でしかない。これがサイコパスなのかというと微妙なところ。告別式に行ったらその対象を忘れるということもないし、距離が近いとか遠いとかで他人の価値を判断しない。

 

どうでも良いが、個人的な読み味として、まぐわい描写を少しでも書いているアカウントの人は誠実に世界を描写している感じがする。性的タブーって難しい。僕みたいなおっさんが特定の誰かを性的に好いているという文章は気持ち悪くて仕方ないだろうし。個人的にはなんらかの価値だけでそういうことをつらつら書くのも男女問わずだいぶやばいと想っているけども。

 

 

なんだっけ。

 

もう眠い。

 

お勉強の話で、岡田さんが、マルチタスクをすると作業効率が下がるというのがあった。何かに集中してしまうと捕食者にやられるから外界の色んなことに注意を散漫させるように脳ができている。これの結論で、スマホを触らない、寧ろ教室には持ち込ませないことによって効率が上がるという話になったのだが、個人的には集中できるってそんなに良いこととは思わない。なんというか、現実的ではないから。何かの成果を出すために集中をしてなんとかなるのは一握りの天才であって、凡人はむしろマルチタスクでの効率性を追求したようが良いような。日常では洗い物しながら洗濯して干してというのが常態だし、机に腰を据えて本を読むような集中時間を確保する余裕はないから、読み物は集中できる時間を確保してやるべきではなく、日常に組み込むべきよなって。

 

マルチタスクの中で読んだ上で消化するのが普通の人がやるべき生活。

 

その方が色々持ってこられて楽しいような。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

切断

 

 

 

2人で遊び惚けた1日。

 

 

夢。ポケモンGO(やったことない)みたいな感じで海に巨大なポケモンが泳ぐCG映像が出てくる。壮大だが海と巨大生物のセットは怖い。その後は論文試験の添削をされるシーン。60km以上が及第点で、全部53kmで微妙だと駄目出しされる。点数の単位が独特だったが、文章が走っている速度みたいな意味合いなのだろう。知らんけど。

 

朝ごはんは食べずに午前中はぐだぐだしつつ洗い物など。昼過ぎに浜名湖付近にげんこつハンバーグを食べにいく。道中満月さんのお母様とハンズフリーで少し通話。働かざる者食うべからずから失業手当が出ると言っても早く仕事を探しましょうと諭される。この格言とベーシックインカムの関連を少し考えたので後で。

 

ハンバーグ屋さんは凄く混んでいた。美味しいし接客スキル高いし人気なのも分かる。50分待ちだったからグーグル先生に教えて貰った古書店ぽいところに行ってみたのだが、辿り着いたのは何も無い住宅街だった。たぶん情報が更新されていないのだと思われる。

 

あと、別に文句とかではなく単なる観察で、色んな人が居る。6組しか店内で待てませんと張り紙があって、何組待ちかも分かるのに、席がたまたま空いていたから順番待ちの紙を取ってそのまま座る夫婦。たしかに本日暑くて車の中で待つもの大変だが、読んだら分かる注意書きを読み取れないというか読もうとしないのって活字離れなのだろうか。いや、寧ろ活字離れを嘆く世代に見受けられる。もう1組は建設業なのか作業着っぽい男性グループで、自分達が待っている番号が飛ばされたと言っていた。普通に考えれば飛ばすことなんてほとんどありえないし、呼ばれたタイミングで店内に居なかったか、もしくは雑談に没頭して呼ばれたことに気付かなかったくらいしかないよねとあとで満月さんと話していた。要は、ここでこの人は飛ばされたとニュアンスではなく、申し訳ないけど今呼ばれているより前の番号を取っていますと下手からのニュアンスで話すよな普通という感じ。

 

目に付いたというより目に留まっただけだから、ここに人間はどうあるべきという倫理観はない。知識とか能力の話でもないし、評価なき風景として眺めていた。自分とは違うことを良い悪いで判断していたら精神消費にキリがなくなる。

 

 

そうして、帰りにケーキ屋さんに寄って、近頃ずっと溜まったままだった満月さんのケーキ欲を解消。僕もプレミアムチーズケーキをいただいた。うまし。食べたあとケーキ欲は解消されたかと聞いてみると、解消していないとのこと。迷いに迷っていたし、ショートケーキも捨てがたかったみたいなことを呟いていたから、当て勘で「ショートケーキ欲ですか」と聞いてみたら当たりだった。この質問をしなければ今度の誕生日にショートケーキを勝手に買っておいて、この前ショートケーキも食べたそうにしていましたねと独断的サプライズをするつもりだったのだが、当たってしまったしハローワークの近くのお店だったもので、前倒しして今度行ったときに買っておきますということにした。

 

別に僕が人に対して気遣いができるというニュアンスでここを書いた訳でもない。僕はそんなに良い男でもないと自負している。ではなくて、この一連の内心は論理的判断でもないし、経験的判断でもなくなんなら満月さんを喜ばしたいという動機から来るものでもない。観測からやってきた当て勘の感じなのに、動機ありきだと満月さんが喜んでくれなかったらせっかく買ってきたのにって不具合の感情が生じる。結果的に喜んでくれれば嬉しいが、それは副産物。

 

論理的判断ではないというのは、ショートケーキも捨てがたいと発した言葉の解釈って色々あって一義にならないから。ショートケーキも良かったけど今回選んだアールグレイショコラが美味しかったから問題ないとか、ケーキ欲が解消されていないという発言と併せても、発言外で目移りした他のケーキが本命として残っているかもしれないし。あえて僕に向けたショートケーキ発言だったら信ぴょう性は高くなるが、単なるひとりごとだし。

 

経験的判断でもないというのは、僕は基本的に人生上(性質上)そんなに裕福になったことがないから、プレゼントで喜ぶような女性とあんまり接していないというところ。ここはあくまで副次であってメインではない。プレゼントってお金があれば誰でもできるし、物が欲しかったら誰から貰っても同じ(いや贈与における貰い手の義務感ないし罪悪感みたいなのは変わってくるかもだが)。僕が誰かに送ったもので最も喜ばれたのは、手書きのお手紙だったような。お金をかけてもこれは作れない。まぁこれで喜ぶような価値観を持っている人でないと僕のような奴は選ばないと思われる。

 

個人的に、自身は好き嫌いの対象にはならないし、自分が誰かにとって他の誰かより価値があるみたいなことを考えることは不毛だと思っているもので、巷で言われている自己肯定感もなさげ。気ままに楽しく生きること自体が肯定だから、あえて自分という概念を実体とは別に創出する必要もないのではという感じ。自分という概念に固執しないといけないのは、自他の境界が曖昧な故のような。

 

 

運試ししてフィニッシュ。よく分からないがフリーズというものを引いたが、その後が不運で、最終獲得は満月さんの方が多かった模様。いいこっちゃ。

 

満月さんと出逢ってからの僕はどんどんと気ままになっているらしい。満月さんのお母様が通話で8000歩犬の散歩をしていると仰っていたが、5月3日の僕の歩数は2万歩を越えていた。距離にして20キロほど。僕以外の人がそれをやっていたら逆に大丈夫かと思ってしまいそうな狂乱歩き。

 

 

やれやれ。

 

まだまだ書くことはある。頭が腐らないようにという動機でもなく単に文字成分がnoteの記事を追うだけだと物足りなくなってきて、Google ScalarのPDF論文をスマホでも日常的に読むようにしようかなと。お風呂読書ももちろん。

 

僕が書評とか1つの概念で1つの記事みたいなことを書けないのは、本とか文章との境界はあっても自分が読んだ内容にとって境界線がないからだろうな。感想文とか考察を1つの領域に絞ると窮屈になる。

 

朝小六法で刑法をぱらぱらしていると、懲役でも禁固でもない拘禁という言葉に塗り替えられていて、なんぞやとなって少し調べた。懲役は作業という労務があって、禁固は作業なく牢屋に入っているイメージ。では拘禁はというと、懲役と禁固のブレンドのような概念で、何か作業をさせることもできるという柔軟なニュアンス。専門的なところでの特別予防(犯罪を犯した人が世の中に馴染むように矯正する)が従来の制度では成果が芳しくなかったという背景があるらしい。気になるのは拘禁刑の期間を決めるのは裁判所だとしても、その先の判断って誰がするのだろうというところ。おそらく精神科医とかの領分になるのだろうが、特別予防的に向上するのかな。

 

 

あと、シュールレアリスムとか瑕疵担保責任とか錯誤論(刑法)もあるのだが省略。

 

 

ベーシックインカムと働かざる者食うべからずの話で最後。

 

働かざる者食うべからずの格言って、おそらく現代的な社会福祉制度が未発達のかなり古来由来。細かな共同体が食いつないでいく最低限の生存において生産活動に従事しない人は食べてはいけないではなく、食べさせてはいけないくらいのニュアンスなのでは。そんな人に生産を消費させていたら、その共同体全体が共倒れになるみたいな。

 

お母様が言っているのはもう少し現代的なニュアンスで、働いていないと頭(精神)が腐るという価値観。締めるところと緩むところみたいな代謝が個人にないといけないし、共同体(社会)的に、働いていない人は日中何をしているか分からないという得体の知れなさがあって、仲間にできないみたいな。

 

ここで、本日読んでいたPDF論文のベーシックインカムの話と絡ませる。財源をどうするかの話も面白かった。制度が被る生活保護は削って良いよねとか。それよりもベーシックインカムが国家制度として正当性をどのように設定するか。人間個人には目的がなくても良いが、国家の仕組みは目的がないと存在できない。

 

働かざる者食うべからずの格言を古来の概念で持ってくると、そもそも個人の物理的生存を確保するためには働かないといけないという話で、国家がどうこう以前の話。この意味で働かないといけないのであれば国家との社会契約ってなんの意味も無い。

 

まぁ、日本の国家はオリジナルの社会契約とは別物だけども。島国だから国境で国が分かれていないし。

 

ともかく。

 

日本の憲法には25条で生存権が保障されているから国家には健康で文化的な生活を国民に付与する義務がある。27条には勤労は国民の権利であって義務であると書かれているが、これって普通に考えれば労働契約を締結する権利と、締結した以上契約に則って働く義務はあるよねという話なだけで、日本国民だから働く義務があるとそこだけ切り取るには無理がある。

 

ここだけもベーシックインカムで全国民に最低限の生存を守るための基礎的な給付を行う正当性はありそう。現実的にできないだろうという話ではなく、理念的にはそうであるべきという話。

 

で、22条に職業選択の自由が書かれている。移動の自由もセットだから、もともとは職業って場所と近い(今もか?)概念だったのかなという感じ。これを勤労の権利義務を合わせると、働くのは前提でどの職業を選ぶかが任意みたいなニュアンスになってベーシックインカムに相反しそうだが、自由の概念ってそれを選ばないことも含まれるのが他の既定。例えば信教の自由には無神論者で居ることも許容されるし、表現の自由には当然表現しない自由もセット。職業「選択」の自由とあえて書いているからもともとは働くのが当たり前という観念はあったと思われる。

 

なんだろうな。個人的に働くことってそんなに嫌いではないのだが、生存の為ではなく、他人の為に動くことだとした方が稼働しやすいと思うだけ。ベーシックインカム制度は生存と労働が切り離されるからもっと人間的に動けそうだなという感じ。別に単純に収入が増えるみたいな話でもない。

 

なかなか書いたのでここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

画餅

 

 

 

昨日は遊んでいて最後に餃子の王将でたらふく食べて帰ったら寒いわ眠いわで眠ることにした。満腹と文章は合わない。

 

寝ることにしたのになんだか寝不足。慢性的になると隈の辺りのはだが荒れるから指標になる。昨日持ち帰りにした完全栄養食の餃子を満月さんといただく朝食。マスク社会万歳。そろそろ無くなっても良いと思ってはいる。髭剃りの手間はなんとでもなるし、マスク美人ももう見飽きた(失礼)。すぐ切り替えられないのも分かる。

 

ミーティングに向かう満月さんを見送って、ハローワークに行ってきた。徒歩で1時間くらいを見ていれば次回以降も問題なさげ。実家から幼稚園と小学校の登校時間と同じで当時は最後の坂が地獄だったのだが、今だとどれくらいで歩けるのだろう。おっさんが歩いていたら間違いなく不審者扱いされるような道のり。やってきた大人と知り合いであることが高確率だけども。それくらいほんと狭い世界。狭さの意味が現代とは随分違う。インターネットが導入されていたら世界線が変わったろうに。

 

期間満了は会社都合扱いで失業手当が来月には支給される。社会保険って憲法27条に基づく権利を満遍なく薄く保障するような仕組み。働いているうちは凄く引かれる感じだが、再就職したい人になりうる人が雇用者だし。無職なのにお金が入ってくると揶揄してくる満月さんには負けない。いや、満月さんも特に僕を卑下している訳ではない。ただいじってきているだけ。いちいち気にしなくて良い。

 

 

ハローワークの職員さんと話して他人と話す脳が活性化される。面白い。前職でどういった仕事をしていたかを聞かれたとき、これしか無いではなくて、どこまで話すかなになっている。別に営業秘密の固有名詞めいたものは使わなくても、いくらでも説明は詳細にできるが、そんな応答はここで求められていないの分かるし。抽象化というより一般化しないといけない。言葉の用途はもともとここにあるとしても、相手が処理できない情報量を発話したところでまとめるのが大変になる。だから、何がポイントなのか重要。端的には電話応対での操作案内なのだが、専門のシステムで道筋はひと通りではないから、案内というよりは相談を受けて相手に答えを見つけてもらうという感じ。

 

特に発話をしていないけども、職員さんはコンサルな感じなのかと解釈してくれて、コンサルが何なのかはよく分かっていないが、流石の歴戦の職員さん。再就職楽しみ。

 

その後満月さんに会ったら、いつもより話しているから他人と話している硯を見たい、何を話したかトレースしてくれと言われたが、しなかった。あんまり話さなくても通じる人にあえて発話する必要はない。そこでやきもきされているのも分からなくもないが、満月さんも随分省エネしている気もするし、それで良いような。お互い勝手に風呂掃除して二重になる感じだし。だいたい相手が何をやったかは分かられている。

 

 

やれやれ。

 

アニメパート。バクマンは終わって、今は三月のライオンを見ている。僕は将棋も少しは齧っているのでなんとなく将棋パートも分かる。でも、ヒカルの碁と比較すると、碁漫画で碁パートほとんどなく表現したのとは随分違う。この辺りは好き好き。

 

いじめのパートは個人的になんだか泣けてくる。明確にいじめられたということはないのだが、学校のヒエラルキー陽キャではなかったから。今はふぇいふぇいしているキャラだからなんともない。誰かと関係していることがどうでも良い。

 

いじめの証拠という話。そんなものはないのが当たり前というのは分かりみ。被害者が声を上げたのが1つの証拠であるというのは、感動ものだがやや微妙。言ったもの勝ちで悪用される可能性もあるし。もちろんこの漫画の文脈だと、無証拠に特定の人を敵としているという空気感が前提だから、証拠は全体の空気にある。

 

証拠は言葉なのかというのがまずもって無いと思っている。

言葉が響かせるのは現実ではない存在であって、裁判における供述証拠もその人にとって現実がどうであったかという描写であって、真実はそこだけでは決まらない。

 

綺麗に自分のことを書くためのお化粧が言葉というのもありうる。僕は詩作にはとんと疎いが、詩とか文章を自分を綺麗に見せようとして書いている人はいっぱいいるよなということに気付いてきてしまった。

 

良い風に見せるでも悪い風に見せるでも、言葉は結局言った(書いた)者勝ちだから、そこに人物像があると思われがち。言葉って基本他人用のものだから、誰かがまるっと自分の人格を描写できることなんてない。

 

(なので、自己紹介文章は基本的に信用していないです)

 

まぁ、でもここって、自分をなんとするかという話になってきて、自在だと思ってきて面白い。一応僕もここまで人生を送ってきて人とも接してきているから、相対的な自分像はまぁぁまぁ確立してきて、とはいえ相対を必要としない自分もやっとこさ現れてきて、あとはどう可動するのかという感じ。

 

誰かとか何かの為にしか稼働できない自分はどうも違いそう。

 

この話分かりますか?

 

分かったところで別に仲間になる訳でもないけども。

 

 

本の話は今日も書けなかったか。

読んではいます。

 

こんな感じでおしまい。

 

おやす

生身

 

 

本日は早めに上がる予定の満月さんがボロネーゼパスタを作ってくれるとのこと。セロリと玉ねぎとトマト缶を買って食材を準備した。ついでにおつとめ品に茄子があったため、副菜として茄子の揚げ浸しを作っておいた。薄味でうまい。ボロネーゼに使うかもしれないから少し余らせて、

 

もともと生活料理のスタンスって、何かを作りたいという料理(動機)を決めて行くと食材が高騰していると高くついてしまうから、実際に行ってその日安い食材を見て、そこから作る料理を決めるという感じで作っていた。時々非日常として料理を決めてから行く。近所のスーパーはポイントカードが無さげだが、おつとめ品が無茶苦茶優秀で、おつとめ品から逆算(順算か?)して作るのにとても合う。昨日は胃腸具合で生のベビーリーフを消化できそうにないから何かないかと思ったら60円でブロッコリーが売っていたから、塩ゆでしてハーブソルトをかけただけの野菜メニュー。本日は茄子1.7本が100円だった。

 

こんな感じだから、何が食べたいのかと聞かれても唐突に答えられない。食べたいものがないのではなく、できる物を作る日常を過ごしていると、選択肢は動機としての起点ではなく材料ありきだから、迷子以外は勝手にできないようになっている。

 

もともと何を食べたいって聞かれると色々気にして答えにくかった。別に肉が好きな男子高校生ではなかったし、なんなら夜食の袋麺で美味しいくらいの感じだったし。いまはそういう気遣いは無くなったが、特に食べたい料理が浮かぶことがほとんどない。昨日はたまたまお好み焼きの舌になって美味しくいただいた。

 

変な話、僕は同棲生活は2人目で、1人目のときに料理の領域にまったく手を出せなかったから、次には自分も協力できるようにという無意識が働いた説。3年越し再会した時にベクトルが完全にズレていたのがある意味面白かった。オイスターバーに勤めているのに部屋には冷蔵庫すらなくて、レンチンご飯で過ごしているという。僕は共同料理できるように鍛えてきていたのに、料理することがしんどかったのだろうなと。あと、自分が何を相手にできるのかではなく、相手が自分に何をしてくれるのかという方向性にシフトしていて、なんかすまんやでと想いながら泣きながらお別れした。

 

一回目のお別れの時に何を学習したかで世界線が随分変わってしまった。もちろん未だに嫌っていないし、通り過ぎた人生劇場の人とも想ってない。もう一回くっつこうかと提案されたら、一夜くらいはあるかもしれないが、きっと生活はできない。たぶんこの人にとっても僕は人生劇場において通り過ぎた人だからとっくに忘れていると想う。僕の存在はこの人に存在を忘れられていても別に問題はない。

 

 

料理って、たしかにイマドキ男女共に必須スキルではない。倹約ないし趣味のカテゴリーになると思う。冷食で栄養バランスを気にしてくれるパッケージもあるし、主婦というカテゴリーも、料理を作ってくれるパートナーの価値も下落しているから、パートナー関係における条件に家事のバランスが置かれなくなっているような。

 

でも、自分の生活パートの労力を減らしてくれる人という価値は未だにきっとあって、僕はそういう風に選ばれたくはない。できるのだがこの可能をもって当たり前とされるとなかなかアンバランスになってくる。

 

減らすという観念でパートナーを探すと碌なことにならない。満月さんは僕が誰かと共同生活をする世界線を想定して鍛え上げてきた上澄みを攫っているから、硯が他の人と共同生活できない訳がないとなっているが、やっとここまできているというだけ。

 

家のことをほとんどさせてもらわなかったから、食べた食器を水に付けないと後で洗うのが大変とか分からなかった。むかーし実家に帰ってそれをやったら母親に〇が家事をするようになったと感動されたのだが、学習する場所が無いところでできるようになる訳がないのだよな、ということが分かられていない。

 

可能性が閉じられているところでは僕は動けない。

上限が想定されているところでもまぁまぁ動けない。

 

これで動けるようになるのが生活の醍醐味だと思うが、生活をそういう風に捉えている人はほとんど居ない。

 

いまのところ、早朝の時間で日記を書いてしまえば良いのではと想定してみたりしているのだが、朝の文章は夜の文章より保守的になる気がする。

 

やれやれ。

 

本の話というか、表現の話。本日はサイコパスの岡田さんの動画を流し見していた。この人の説を信用できるのは、自分の言説を正解としていないところと、なにより少年漫画の最高峰に「うしおととら」が挙がっているところ。あと、ネガティブなことを言わないのも良い。もちろんポジティブなこともあんまり言わない。凄いってポジティブではない中立的な表現。

 

うしおととらの作者さんが書いた漫画家論が紹介されていて、どういう映画が好きか嫌いかを理由を付けて語るようにしなさいというのがあった。自分の表現が存在と癒着しているのを引っぺがすためにこういうトレーニングが必要だとか。たしかに対話の為には理由が必要だと思うが、ある作品が好きな理由ってきっと統括できなくて、細部に好きなところがあるという感じだと思われる。

 

対話がパッケージとしての好き嫌いしか語れないのであれば、理由を表現する意味もない。

 

僕の文章を読んでいただいている人が、ここの表現を好きなのかは知らない。ただ、読み続けることに違和がない継続が好きということであって、特に論理的に説明はできないと思われる。

 

それで良いし、僕の文章を読めるということはまぁまぁ元気なのだろうなと勝手に捉えている。

 

非論理的に読まれるのがここだとすると、もともと理由があって書かれているという訳でもないという、言語の存在価値からすると矛盾だが、それでもいいやという感じ。でなければ、認証が全くないのに継続なんてできない。

 

このスタンスは良い加減表明しておきたいところだった。

 

本日いちゃいちゃするかは不明。

咳込んでふぇっふぇっふぇしているし。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。