効率

 

 

 

21:50から。

 

 

昼過ぎからぐんぐんと冷え込んだ。

現在外気は1℃らしい。真冬ですなぁ。手袋が行方不明で素手で自転車を漕ぐ帰り道の悴み具合、ここ何年も経験していない懐かしさ。原付で高校に通っていた頃とかの大昔の感じ。

 

まぁ、こんな都会だと暖を取れる場所がいっぱいあるから芯までは冷えない。

 

 

お仕事。

 

成果は出ていないが調子は悪くない。手続的な知識が増えれば増えるほど楽になって仕事に注視できるという過程にある。長縄飛びに乗る前のタイミングの取り方が上手く行っていないだけ。いや、もしくは遠慮があってうまくタイミングが取れていないという感じでもある。

 

まぁ、試行錯誤の余地が出てくる限り、お仕事を楽しんでいると言える。

まだまだ効率化できて、時短した分、関係に力を注げるようになる。

 

どうでも良いが、個人的には大事なお仕事パート。

仕事でしか車を運転しないから日常に試行錯誤は採り入れられなくて、あくまで受動的な動きしかできない。

 

たまたま、乗ったことがないバイパスに入った。昔、教習所で高速道路の実践があったとき、手汗をかいて気が気ではなかった。これって自分で動かす速度感が未知ということで当たり前。このバイパスも広いところでは高速道路みたいな車線になっていて、間違えて入ってしまったのかとヒヤッとしつつ(社用車で高速道路を移動してはいけない)、今は60キロから70キロの幅くらいだったら特になんともなかった。

 

怖いのは馴れてないからであって、やってないだけよなと。

車が多いところでの車線変更も別に無理しなくてもなんとでもなるような感じ。変更できなければ最短ルートを諦めて安全ルートを取れば良いだけ。視野が狭いとここしかないと思って無理が起こる。

 

どれだけ慣れても早く移動するために頻繁に車線変更はできないけど。

だって、信号があるんだから特に早く着く訳がない。電車の中で前に走って移動するような所業なような。

 

たぶん、高速道路もそんなに不安になることなく乗れると思われる。

 

こんな感じでだいたいのことはやったことないから怖いし不安なだけであって、馴れてしまえば人生劇場に含まれてしまう。

 

もちろん、馴れ合って良いのはだいたいのことであって、人生劇場に含んではいけない概念もある。

 

例えば「絶望」とか。「失望」なら失った分を補てんできそうだから良いけども、断たれてしまったらそれ以上願うべくもなく退場することに感覚が寄るのは分かる。キルケゴールさんがこれを「死に至る病」と表現するのも分かる。

 

ここでしか書けないけれど、僕の価値観はやべーから、一般的に自己退場はアリだと思っている。物体的な価値よりも精神的な意志の方が大事。もちろん縁があって具体的に関係している人から相談されたとしたら退場したら淋しいよとは言うと思うが、たぶん僕の範囲内に居る人はそんな感覚にならないのではないかと思う。

 

実際、ここ云十年生きているが、近しい人が自己退場した事例が無い。

まぁ、マジョリティなのかマイノリティなのかは知らない。

 

自分が思い悩んでいることが、僕を見ていると馬鹿らしくなるはず。

 

このパートは、これを読んでいるだろう貴方向けに書いていたり。

SNSが具体的な縁なのかは当人のものさしによると思うが、僕にとっては具体的。だって、よく出自も分かって居ないのに言葉だけで繋がって更新を交信するって単純に面白い。

 

 

 

満月さんも自由に過ごしている。ずっと言葉だけで繋がっていた人と縁が切れて凹んでいたように見受けられていたところ、交信が再開されたとか。ちなみに異性だが、特に何の嫉妬もない。良きことだと思いつつ、流されて気分が落ち込むことを懸念していたのだが、料理が進化しているし、気にしなくても良かった。

 

自己の全貌が自分に把握できないのと同じく、どれだけ長く一緒に居ても相手の全貌は把握できない。こういう世界観で生きると人間関係が楽になるかもしれない。一貫的に生きるってそもそも無理だし。

 

そろそろ書き出すとも仰せ。

 

僕もこういう創作界隈で書くようになれば、切磋琢磨が起こるのかもしれない。いや、僕は誰かより優れる創作物を作るみたいな傾向はないから、気持ちが分かるかもなという意味合い。

 

 

やれやれ。

 

なんだか、哲学のことを書いている人にフォローしていただいたらしく、読みに行ってみた。

哲学の用語、よく分からん。たぶん当人は概念として定義付けられていて人生劇場に含まれているから書けているし、それが読める人しか読まないのだろうなという感じ。

 

たしかにいちいちかみ砕くと文字数が足りなくなる気持ちも分かる。そういう意味では僕の法学パートと同じような感じなのかもしれない。どちらも日本語で書かれながら日本語の日常の感覚では読めない。

 

哲学科の1年生向けの記事が面白かった。

プラトンから読まずに、好きなものから読めば良いみたいな。個人的に哲学しながら生きていると思っているが、大御所から体系的に読むということはしていない。プラトンさんも読んだことが無い。

 

最初に読んだ哲学書ベルグソンさんだったような。「時間と自由」だっけ。

今やっとニーチェさんが読めるようになった。もう一回カントさんを

 

個人的には哲学の1冊目は「ソフィーの世界」だと思います。

どうやって哲学的な認識が塗り替えられていったかの歴史書という位置づけ。

もう一回読むか。

 

でも、大学の学部であえて哲学科を選ぶってなかなかの兵。文学部よりレアなイメージ。

 

僕の中では哲学も法学も認識の更新くらいの意味合いであって、実は別にそこに生きていくつもりはないのだろうなと思っている。

 

もちろん、本は読むし、趣味とは別の趣なのだが。

 

現代哲学って、いまの社会とどれくらい整合性が付いているのだろう。

古典哲学ってあくまでその時代の巨匠の哲学だから、そこから試行錯誤するのが学問なのでは。

 

昔を倣うだけだったら史学と同じ。

ちなみに、史学もまぁまぁ好き。

 

いま、多崎つくるさんの小説を読み返しているのだが、なかなか示唆がある。

小説の体を取った哲学書なのかもしれない。

 

たぶん、哲学者さんでも哲学の定義は規定できない。

何か色々考えることより高尚な定義ってあるのかな。

 

別にディスっている訳ではない。念のため。

色々考えられることが人間の定義だから、人間的試みとして哲学は大好物。癖強い人ばかりだから古典を読むのが大変なだけ。

 

はい、今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

22:31から。

 

 

 

お仕事。

 

普通は入社半年で普通に独立してお仕事をするということがないらしい。店長が横に付いて変なことを言わないように様子を見ながら修練していくのだとか。店長には放って置かれているが、突き放されている感じもないから、やり方として相性が良い。

 

そろそろ何を聞けば良いのかという知恵も付いてきている。

聞く為には何を聞かないといけないかを知らないといけないという観念って一般的ではないのかもしれない。外向的な人なら相手のことを気にせずがんがん聞けるかもしれないけれど、内向的な人は問いが確定していない段階では何も聞けない。人の成長としてはありうる教育法なのかもしれない。

 

ただ、効率は悪いと思う。ここは聞くように、確認するようにというポイントを絞った教え方が効率的な気がする。これだと教える側にも知恵が必要だと思うが。

 

やってみて、やっぱりスケジュール調整能力とか優先の順番が青い感じ。

なにせ日にちの把握をするつもりがない素朴だから、自分が次にいつ休みなのかを把握していない笑

 

まぁ、こんなのは人格ではなくスキルだから、やろうと意識すれば馴れていくと思われる。

時間感覚とか社会性とかはスキルの問題だと思っている。世界観と直結しているとしても、別にそこだけで生きることはできないし、できないのであれば、やる必要がないと思っているだけでしかない。基本的に社会性はあんまり気にしないが、社会的に何か関わりがあるところはちゃんとする。自分が不利になるとかという意味ではなく。

 

さておき。

 

満月さんの美味しい料理の描写もしたいところだが、本日は省略。

今後ずっと食べさせてもらえるのでいくらでも書くタイミングはある。料理パートはまた今度。

 

 

社会性の話の続き。

 

うってかわって、法律の話。

あんまり完全に変わっていないけれど。

 

法律の話は満月さんが読み飛ばしているという噂だからあんまり書かない方が良いのかと空気を読む人が筆を止めたがっている。

 

でもここを書かないと進まないので、勇気をもって書く。

 

お父様からの相談案件で調べものをしていて、所有権って全然自由でないことが身に染みる。民法のお勉強をしていると、所有権って完全な自由な感じで書かれているのだが、法律上の制限があるというのが書かれていなくて、実践的には全然使えない知識になっている。

 

都市計画とか建築基準法の縛りがあって自由に不動産を扱えることはほとんど無理という現実。たしかに、物理的な不動産を自由に扱われると困るのだよな。所有権は個人主義の時代になって小作みたいな縛りはなくなったけども、その分同じく所有権を持っている他者との調整が必要になる。物体的に場所を取ることが権利だとっても、利益が取れなければ意味がない。

 

僕の世界観から言えば、特に何かをしたいという動機がなければ所有権なんて持つものでもないという感じ。普通に賃貸で部屋を借りられる人が、住宅ローンで家を買うことはできそうだが、どちらが良いかは分からない。

 

細かい法律の話もお好みなのだが、個々で好みが分かれそう。

 

社会性のお話。

 

社会の関係において自分に制限がかかっているという感覚は正しい。

だって、社会には個々人のグラデーションを全部許容する度量は無いから。

 

社会って、いろいろ枠がある。もともと構成員が居ないと存続しないということを前提としつつ、その社会を存続することの方が大事。

 

僕は世間知らずだから、どの社会に対してもお邪魔しますという感じだが、社会と自分が一致している人に参与するのは結構難しい。

 

社会を完全に知るってきっと研究者でも無理。

定量的に把握できる物体でもないし、可変するし。

 

自分が世の中を知っていると把握できたとする人はうさんくさいと思ってしまう。

 

 

知ることができない仕組みを業者に委託するしかないのが社会なのだが、なんでそういう社会になっているのだろう。複雑化したことで本当に公共の福祉が増大したのかどうか。

 

いや、別に僕は世の中を憂いている訳でもないし、不自由と思っている訳でもない。

特に今の世界に不満がない。念のため。

 

 

満月さんが昔よく交信していた男性と再度繋がったことに対しても何も思わない。

好きにしたら良いよとしか。

 

人の心って独占できないし完全に把握できることもない。それを社会性でもって独占した気になるのは違う。結婚とか。

 

いつでも離れられるという前提があってこぞ、あえてくっつくのでは。

 

これを踏まえた上で、満月さんとは結婚して良い。

結婚を価値としてではなく、使う物とできているから。

 

社会性は同じ社会という空間内で関係するための知恵みたいなものであって、それができなければ犯罪にならずとも仲間外れになるけれど、それって当人が選んだ世界観だろうし、個人的には同情しない。

 

同情はしないけども観測はできるというのは変人かも。

 

とりあえずこの辺で。

 

そろそろはてなぶろぐ卒業かという感じもある。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

安心

 

 

 

21:46から。

 

休日の満月さんの晩御飯。進化している。余り物で時間をかけない料理でも完成度が高い。僕によって変わったのどうかは知らないけども、僕と居て変わるような人はなかなか居ない。

 

この辺りは微妙なニュアンス。僕の為に何か自分の時間とか労力を使って無理している感じではなく、単に可動域が拡がっているという意味合い。

 

どうでも良いが、お風呂に入る前に半裸でうろうろしていたら、一昨日より腹筋があるらしい。特に筋トレはしていないが、日によって筋肉が違うらしい。力こぶもできるし、「人間なのか」と聞かれた。

 

隠すものでは無いのに、社会的に出してはいけない裸。聖書でアダムとイブが追放されたシーンでそういう下りが冒頭にあるが、これだと、神様は人に社会性を得させずにちゃらんぽらんで居て欲しかったという解釈になりそう。定説はどうなっているのだろう。

 

ちなみに、特に裸族でもない。冬は寒いし、夏でも肌が直に布団に触れるとか好きでは無いし。

 

社会性って秩序の前に恥ずかしさにあるような。

 

そんなことすると恥ずかしいと言われても、子供にはあんまり分からない。大人には説得する前に強制力(犯罪になるとか)だから、何故駄目のかという意味は実際のところ不明確な気がする。

 

僕はあんまり社会性を強制することで秩序が保たれるとは思ってない。

刑法の本で、最低限のぎりぎりを示すことが大事というは分かるのだが、結局のところ空間的を維持する以上の法が保護する利益はないような。

 

強制わいせつみたいに物理的に肉体が触れてしまうところには縛りが必要だとは思う。ここは社会の前に個人間だから。個人情報も個人の肉体の延長だから守られるべきというのは分かるし必要。ただ、セクハラ、パワハラアルハラ、みたいなハラスメント系になってくると社会性の色彩を帯びてくる。社会性の領域って、加害者も被害者も無いような。ちゃんと参加するなら、不都合なこととか当たり前のことをなぁなぁにせずに考えれば良いだけ。

 

逃げ道を作りたい人はいくらでもこういう概念を都合よく使う。当たり前にハラスメントをする層と同じ階層。

 

社会性ってあくまで今生きている環境でしかなく、そこに属して居れば認識がアップデートされるようなではない。受け入れて過去を悪者にすることができるくらい。

 

僕は無思考に昔は良かったとか、今の方が良いみたいに捉える考え方は苦手。

個人的には特に何も変わってないような気がする。僕が変わったからいまを楽しめているだけであって、昔に戻ったら今ならその時代でも十分楽しめる。自分を攻撃したり足を引っ張ったりする人とは無関係に、もっと本を読めるし、世界を楽しめるだろうな。

 

 

さておき。

 

お仕事の話。

 

若干調子が良い。社会性が無い僕が営業をするなんて無理ゲー感はあるのだが、社会のことが分からないという意味では同じ人達がお客さんだし、一緒にお勉強しながらやっていると、シンパシーみたいなことになる。

 

なんなら、僕の存在にほだされて、あんまりお金のことを気にしなくなる。

営業って自分を売ることだから、きっと間違って居ない。僕がそんなに気にしない世界観だから、営業で相手の資金を搾取するみたいな感覚がないからなのか、単なる人間力なのかどうかは不明。

 

お金より安心の方が遥かに大事。

 

スキルも順々と習得中な感じはあるが、なんというか、自分にもともと無かったものを習得している感じがない。当人の認識上の世界観のまま、やんわり道を逸らしてここがその人の劇場内だとしながら、こっち側からの都合が良くする。別に粗悪品を提供している訳でもないし。

 

変な話、お金と人の縁とどちらが大事かというと、僕は圧倒的に後者なのだが、前者の人も居る。お金は裸の肉体みたいなイメージなのかな、自己として守らないといけない領域。

 

口説くスキルで言えば、結構高いような。

女性にすると恋されると怖いから自粛して(ナルシストかよ)、お仕事で言うと男性に好かれる方が多い。この人なら社会性の外のことを言っても良いよなって。個人的に、今の時代において社会性のレールに乗っていることが当たり前とは思っていないから、どんな事情であってもあんまり気にならない。

 

やれやれ。

 

社会性って、割と知識がないと参与できない領域がある。

 

この話はまぁまぁ面白い。

 

僕は社会知らずだから、お仕事において店長にそんなの当たり前だろうと鼻で笑われるようなタイミングがいっぱいあるのだが、あんまり気にしなくなってきた。聞けることは聞けば良いし、社会性に浸っている見解はあんまり気にしなくて良い。

 

社会性の領域というか、きっと全領域のお話なのだが、何かを聞く為には聞くことが何かを特定する知識が必要だし、聞くことによって自分の評価が変わるというのも気にし過ぎ。

 

人との関係性においてあんまり自己の世界観がズレていることを気にしなくて良い。

 

 

ほんとは、都市計画の話と多崎つくるの小説の話がまだ行列しているのだが、本日はここまで。

 

今日は充分書いた感じ。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

書きたいパートが描けていない

 

 

 

22:46から。

 

 

本日は夕方までだらだらモード。将棋の天才の漫画を読んでいた。夕方から動き出し、満月さんと卓球に行く。運動神経が良い。お互い良い歳なので長時間はできなかったけども、打ちあえるの、楽しい。

 

バドミントンの方が上手いらしいからそのうちしようと思う。硬式テニス畑だとバトミントンのラケットは軽すぎるのだが、今だとちょうど良いかもしれない。

 

競争で上がるような運動神経は持ち合わせていないのはこれまでの歴史で分かっている。勝ちは譲っても問題ない。ただ、自分の身体と対話する感じの運動は今更好き。自分の思った通りに体を動かすとか。お散歩とか自転車とか、車の運転もちょっと近い。あんまり意識はされない運動に目を向けている。

 

キャッチボールとかもしたい。物を投げるって人間の自然の動きではないから、最初は上手くいかない。中学校の体験入部でのキャッチボールでキャッチできなくて鼻血を出したのは良い思い出。今の方が体をきちんと動かせる気がする。肉体に負荷をかけるつもりは無くて、単に自在にという意味。

 

 

さておき。

 

もう本日も時間が無い。

まぁ、この書く時間って特に何も価値がないから、ちゃんと自分で確保しないと容易く流れていく。なんだか個人的にも負荷がなくて書くというのは微妙な気もしている。きっと楽しいからやっているだけなのだが、それだけだとステップアップは無いよなと。

 

書くことにおけるステップアップがどこに至るのかはよく分からないけれど。

いっぱいの人に通じるようなことを書けるようになるというのはありうるけども、個人的にはそこまで楽しくはなさそう。

 

もっと自分に寄ったことを公開できるような文字に変換できるというのはアリ。

 

この時間が確保できなくなっているということは、別にここで生きなくてもイイよと言われている気もする。もっと他で文章を書いても生きられるのではみたいな。

 

満月さんはほんとに僕のここの文章好きなのかな、書き時間は大事にしてくれているが、書かれた文章に対する感想は、自分が登場しているパートについてがほとんど。

 

満月さんの世界観が一人称であるかというと違うのだが、結構私を大事にしている節はある。

 

 

やれやれ。

 

昨日はお父様が土地を買って云々するという調べものを依頼された。行政書士の資格を持っているだけの一般人にはやや重い案件だが、個人的には都市計画課に電話して聞いたりして面白い。

 

不動産の所有権って何も自由ではないなというところ。

建て替えとかでも申請とか確認が必要になってくる。僕がお金持ちになったとしてもそういう世界では生きたくないな。使えない余剰は寄付して断捨離する気がする。

 

ほんとはもっと細かく書きたかったのだが、どうも短く収めるしかなくなっている。

 

これって、もしかしたら垂れ流しはそろそろほどほどにせよという啓示なのかもしれない。

垂れ流さない部分は他に回るだけだから僕が滞ることもないし、そろそろ自分のホームページ一択で良いのか。

 

明日の僕がどう判断するか分からないけども、かつかつになった時にどうするかが人間の本質だろうし、ほんとはもっと気にしないようなところで書きたいのかもしれん。

 

知らんけど。

 

はい、おやすみなさい。

 

 

みじかい

 

 

 

21:53から。

 

 

文章を書くことと車の運転をすることはどちらが難しいだろうか。昨日社用車を運転している時にふと思った。

 

僕としては今のところ後者の方が圧倒的に難しいのだが、これって毎日できないから。車の運転もだいぶ馴れてはいるし、たぶん高速道路に乗っても大丈夫だろうとは思う。速度域が上がるだけだし、上がっている以上、道路も広いし信号もないし歩行者も居ない。ただ、細かい車体感覚とかは日常でやってないと身に付かない。見えないところにある車体がどこまであるのかみたいなことが希薄な中、ふわふわしながら運転している。

 

ふわふわ繋がりで、車を運転している時って、時間軸が変わる。この話、普段車でしか移動しない人には意味分からないと思われる。あくまで感覚的な話。早歩きで歩行移動もするし自転車通勤もしているからかもしれないけども、それぞれ時間の流れ方が違う気がする。

 

完全に相対性理論の体感化。時間の流れは速度によりけりみたいな話。歩行移動が一番好きなのは、世界がきちんと身の丈で捉えられるから。電車とか飛行機とかも乗っているだけで自分が動かしているという意味では割と時間は止まっている。これも楽しい。

 

景色の移り変わりの速さとそれを動かしているのが自分なのかどうか。

時間って肉体感覚として絶対的なものではないよなというだけの話。

 

通じるつもりがないと話が捗るなぁ。

 

文章については、通じるかどうかも気にしていないし、自分の中の試行錯誤だからとりあえず形式だけ整えて(?)、自分の存在感覚の中でしか書かないようにするだけ。

 

文章に虚飾はあっても良いと思うから、別に嘘ついても良いと思う。

言葉って嘘を付ける機能も付与されているから、この嘘が創造性にも繋がっているし。

創作外の現実で言葉上の嘘をつくと、それは当人に返って来るけども、嘘にならない語用もあって面白い。

 

前置きが長くなり過ぎた件。

もっと長々書いて読み物として成り立ちたいのに、こんなの普通のブログっぽい。

 

 

現実としての所有権。

 

この話は個人的に面白いのだが明日に回すことにして、ここまでにしとこう。

 

 

では、また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

なんともなんでも

 

 

 

 

22:24から。

 

親子丼と汁物をリクエストされたもんで、脂肪分が少ない豚肉の切り落としで豚汁をこさえた。昨日のジャージャーうどんはやんわり不評だった。中華系は練度が低いから仕方ない。1口食べたが、たしかに味が纏まって無かった。

 

和食は練度が高いからきっと大丈夫。

和食の神髄は出汁とバランス。そのうち自分で取り出すかとずっと思っているが、そこまでの精度は求めていないらしい。

 

親子丼を作りますとお仕事の帰り際に先輩女子に言ったら、「私もたべたくなった」と言う。ここまでは良い。僕が、「まぁ簡単に作れますからね」と言うと、「焼いて卵でとじるだけですもんね」と返される。てきとーに流した。親子丼は焼くタイプらしい。

 

僕はしっとり系で作るもんで、それなら焼き鳥の卵とじ丼だと思うが、満月さんに話したら、そういう作り方もあるらしくて更新された。

 

お仕事の話は、非現実で部屋探しをしている人の相手をするより、現実で行動できたり、社会的な思惑を把握できる人の相手を重視した方が良いという一塊があるのだが、なんとなく省略。脳内で移動しようとしている人って、最優先事項が自分の事情だから、他の事情に対して許容できない。そんな視点で見る世界は、自分にどれだけ都合が良いかということで価値が決まる訳で、こちらもお仕事なので、そこまでその人の世界に阿ることができないという。

 

できることは可能な限りしようとするけど、社内規定とか諸々の事情を加味してお客様のご都合に完全に合わすことができないのがお仕事だし、その事情を世界とできない人に対しては、クレームならないくらいに距離を置くしかない。

 

この世界観って別に知能とか知性とかではなくあるから、なんだろうとは思う。

その人も内側の世界で人間関係はまともにできているはずなのに、対外になると途端に敵対化するという。

 

考えなくても良い項目に対してはどれだけ文句を言っても良いというのはあるのかも。

 

僕は経年すればするほど、どの方向に対しても文句は言えないなと思う。

コンビニが並ぶのは店員が足りないからだし、お役所仕事のレスポンスが遅いのは上に決裁を求めるからだし、自分の素朴な世界観では居れらないのが社会。

 

人を介すれば介するほど、リアルタイムにはならない。

 

それを踏まえた怒りなら分かるけど、怒りのほとんどは世界がままならないお子様のぐずりと疑似なような。これを読んでいるような人は誰かからそういう風に怒られたことが多いタイプな気がする。知らんけど。

 

やれやれ。

 

全然日記が進まないのは、魂レベルが上がっているかもしれない。

 

魂レベルのスピリチュアルの話はなかなか面白い。

 

相談事を受けることが多くなるとか。

ちょっとお父様とお話して、今の僕では対応できなさそうな案件というか宿題が起こっている。できる限り調べるし、お仕事ではないから失敗もない。単に、知り合いへの相談事という感じ。越えるべきハードルというプレッシャーも無い。

 

別に満月さんとの関係を保証する為の父母ではないし、満月さんを介してたまたま出逢った面白い人達という感じ。

 

スピリチュアル系の話は最近よく流しているのだが、この話の魂の解釈って、結局、交換できない資本主義の引き直しなんだろうなと見ている。この世界観で僕は生きることはないなーとしながら、面白がっているだけ。

 

人が輪廻転生して、魂が修行する為に肉体を転生しているっている世界観。一昔前の僕なら分かっていたのだが、いまや、そもそもなんで修行しないといけないかが分からない。

 

魂というか、当人の存在自体を更新する為になにかしらの行動が必要だということは当たり前だと思うのだが、魂という不可視なものに天秤が触れすぎなな感。

 

ポジティブな傾向に成れば良いみたいな世界観っぽいけども、これって世界の前提が悲観的であるからなのだろうなと。

 

なんでポジティブにならないといけないのかの意味も分からない。

 

僕は肯定的に世界を過ごしているけども、前向きである必要も無いと思っているし、前向きと人と関係したいと思わない。

 

この世界観だと、魂レベルが上がれば上がるほど苦しくなる模様。

 

人と関係すればするほどかつかつになる。

 

結局は、どういう世界観においても、自分が楽しめるかどうか。

安定でも安心でもなく、なんなら修行みたいな苦しさでも無く、自分で在ることを楽しめるかどうか。

 

世界が苦しいみたいな世界観のスピリチュアル系は採り入れることはできても、ほんとに高次だったらもっと他の世界を呈示できのではという気がするから、読むことはできるけど、世界線がずれているのだろうなと思う。

 

どうでも良いけれど、本日は世界線のズレの脳内文章は起こらなかった。

 

なんだっけ。

 

僕は修行しながら生きることはしたくないから、あくまで楽しくなるように生きるだけ。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

脳内は非現実

 

 

 

22:29から。

 

遅い訳ではない。仕事が忙しくなってきてずれ込んでいる感じ。

 

本日は帰ってきてから洗濯をしながら、タケノコ水煮入りジャージャーうどんと鶏モモ肉と豆腐としめじとネギの煮物とレタスとブロッコリーとトマトのサラダを作った。

 

食材はふんだんに食卓にあるのが良いのは、田舎育ちだからかもしれない。

 

 

お仕事。

 

ちょっと消化不良な感じ。

 

エネルギーだけ使って、甲斐が無いからかと思っていたけども、ふと異説が出て来て、そういうことかと自分の腑に落ちている。

 

最近某メンタリストさんの動画と併せてスピリチュアル系の動画も見ている。

人間には魂がある人と無い人が居るとか平等主義の人間観だとけしからんとなりそうだが、個人に視点を寄せれば、なんとなくホログラムな人とそうでない人という分け方は、脳容量的に当たり前なような気がする。

 

通りすがりの人も含めた全ての人を個人と捉えるなんてキャパオーバーということをなんとなく意識高い感じで語っているだけな可能性もある。でも、こういうアングラ、いやハイスカイか、の話も美味しいところがあると思っている雑食。

 

この界隈の話は、実生活にはあまり使えないのだが、意識の中で参考にはなる。

 

陰謀論も面白いけど、だからどうしたら良いとかどうするのかみたいな話にならない以上、2チャンネルの掲示板の読み物な感じ。

 

読む分には優劣はなく、単なる味の好み。

 

意識高い系の記事とか、ダイエットの記事とかを読んで知恵が付いただけで、自分が変わったつもりになる人が居るかもしれないけども、これって世界線の可能性が拡がっただけであって、そこまでだったら実際に世界線が動くことはない。

 

意識って実体とは別だから、おそらく世界線の可能性だけで満足できる。

 

肉体は魂の器であって、3次元的な苦楽を感じるための乗り物みたいなものであるという説がBGMで流れてきて、個人的には分かりみだが、こういう話の難しさは、魂が検証も鑑賞もできない概念であること。言葉で定義できない人間の物理外の領域があるのは当たり前で、そうでないと、人間世界はここまで発展しなかっただろうし。

 

憎しみとか苦しみも、結局のところ人間劇場の中でしか通じない概念。

何もできない時間が苦しいとか言ったら、セミに怒られる。

 

こういう話は信じるとか受け入れるとかではなく、楽しく使えそうな部分だけ採り入れて実践すれば良いような。意識的に取り入れるかどうかではなく、ちゃんと実践するかどうか。頭の中というか意識は高次元なものを採り入れなくてもだいたい5次元くらいだと思うし、ちゃんと肉体に乗っているのであれば、その肉体を動かすと恙ない。

 

ともかく。

 

今日のお仕事での消化不良の異説。

 

応対が終わって帰った後に、もっと方向性変えられたよなと、想定的問答が起こる。

昔は頻繁に起こっていたから当たり前としてあまり気にしていなかったけど、これって無意識からの世界線がもっと楽しい方向に移動できたという示唆なのかもとなった。

 

この無意識は、解釈によっては神様としている人も居るかもしれない。

神社で何かを願うときの神頼みって、いったい何に願っているのか。僕はお参りするときはこうなるんで見といて下さいみたいなことしか言わないようにしている。

 

僕が楽しいのは、僕を使って相手の根っこにたどり着いて盛り上がるところ。

その延長に成果があるし、そこを目指すお仕事なのも分かっているけど、過程が欠落すると個人的につまらないし、相手も面白くないだろうなと。

 

過去に向けた想定問答も、未來に向けたこれも、脳内に展開される人は世界線がブレていて、あんまり自分に馴染んで居ない人としてみる。

 

別に、ほんとうは言いたいけどこれだと相手を傷つけるから避けるみたいな話ではない。

ここだと世界線はブレてないから言わない方が良いと思う。言ったら変わるけど、それで変わる世界線は未知数。あぁ、この界隈でも変革はありうる。

 

例えば、同棲の為の部屋を探している人に対してどうでも良い話として、僕も同棲のお部屋で住んでいるという相手にとっての相手(僕)のことをもっと語った方が僕も相手も面白くなっただろうなという世界線に乗らなかったからエネルギーが無駄消費されていたというお話。

 

あんまり意味分からないと思うけども、自己以外の視点を検証するような学問をやってきた人なら通じるかもなという次第。

 

ここにはエネルギーほとんど使ってないから、読まれるか読まれないかはほとんど気にしていない。読まれるから書くという需要供給ではなく、書いていることが読まれるのが単に嬉しいことだという一方通行。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。