効率
21:50から。
昼過ぎからぐんぐんと冷え込んだ。
現在外気は1℃らしい。真冬ですなぁ。手袋が行方不明で素手で自転車を漕ぐ帰り道の悴み具合、ここ何年も経験していない懐かしさ。原付で高校に通っていた頃とかの大昔の感じ。
まぁ、こんな都会だと暖を取れる場所がいっぱいあるから芯までは冷えない。
お仕事。
成果は出ていないが調子は悪くない。手続的な知識が増えれば増えるほど楽になって仕事に注視できるという過程にある。長縄飛びに乗る前のタイミングの取り方が上手く行っていないだけ。いや、もしくは遠慮があってうまくタイミングが取れていないという感じでもある。
まぁ、試行錯誤の余地が出てくる限り、お仕事を楽しんでいると言える。
まだまだ効率化できて、時短した分、関係に力を注げるようになる。
どうでも良いが、個人的には大事なお仕事パート。
仕事でしか車を運転しないから日常に試行錯誤は採り入れられなくて、あくまで受動的な動きしかできない。
たまたま、乗ったことがないバイパスに入った。昔、教習所で高速道路の実践があったとき、手汗をかいて気が気ではなかった。これって自分で動かす速度感が未知ということで当たり前。このバイパスも広いところでは高速道路みたいな車線になっていて、間違えて入ってしまったのかとヒヤッとしつつ(社用車で高速道路を移動してはいけない)、今は60キロから70キロの幅くらいだったら特になんともなかった。
怖いのは馴れてないからであって、やってないだけよなと。
車が多いところでの車線変更も別に無理しなくてもなんとでもなるような感じ。変更できなければ最短ルートを諦めて安全ルートを取れば良いだけ。視野が狭いとここしかないと思って無理が起こる。
どれだけ慣れても早く移動するために頻繁に車線変更はできないけど。
だって、信号があるんだから特に早く着く訳がない。電車の中で前に走って移動するような所業なような。
たぶん、高速道路もそんなに不安になることなく乗れると思われる。
こんな感じでだいたいのことはやったことないから怖いし不安なだけであって、馴れてしまえば人生劇場に含まれてしまう。
もちろん、馴れ合って良いのはだいたいのことであって、人生劇場に含んではいけない概念もある。
例えば「絶望」とか。「失望」なら失った分を補てんできそうだから良いけども、断たれてしまったらそれ以上願うべくもなく退場することに感覚が寄るのは分かる。キルケゴールさんがこれを「死に至る病」と表現するのも分かる。
ここでしか書けないけれど、僕の価値観はやべーから、一般的に自己退場はアリだと思っている。物体的な価値よりも精神的な意志の方が大事。もちろん縁があって具体的に関係している人から相談されたとしたら退場したら淋しいよとは言うと思うが、たぶん僕の範囲内に居る人はそんな感覚にならないのではないかと思う。
実際、ここ云十年生きているが、近しい人が自己退場した事例が無い。
まぁ、マジョリティなのかマイノリティなのかは知らない。
自分が思い悩んでいることが、僕を見ていると馬鹿らしくなるはず。
このパートは、これを読んでいるだろう貴方向けに書いていたり。
SNSが具体的な縁なのかは当人のものさしによると思うが、僕にとっては具体的。だって、よく出自も分かって居ないのに言葉だけで繋がって更新を交信するって単純に面白い。
満月さんも自由に過ごしている。ずっと言葉だけで繋がっていた人と縁が切れて凹んでいたように見受けられていたところ、交信が再開されたとか。ちなみに異性だが、特に何の嫉妬もない。良きことだと思いつつ、流されて気分が落ち込むことを懸念していたのだが、料理が進化しているし、気にしなくても良かった。
自己の全貌が自分に把握できないのと同じく、どれだけ長く一緒に居ても相手の全貌は把握できない。こういう世界観で生きると人間関係が楽になるかもしれない。一貫的に生きるってそもそも無理だし。
そろそろ書き出すとも仰せ。
僕もこういう創作界隈で書くようになれば、切磋琢磨が起こるのかもしれない。いや、僕は誰かより優れる創作物を作るみたいな傾向はないから、気持ちが分かるかもなという意味合い。
やれやれ。
なんだか、哲学のことを書いている人にフォローしていただいたらしく、読みに行ってみた。
哲学の用語、よく分からん。たぶん当人は概念として定義付けられていて人生劇場に含まれているから書けているし、それが読める人しか読まないのだろうなという感じ。
たしかにいちいちかみ砕くと文字数が足りなくなる気持ちも分かる。そういう意味では僕の法学パートと同じような感じなのかもしれない。どちらも日本語で書かれながら日本語の日常の感覚では読めない。
哲学科の1年生向けの記事が面白かった。
プラトンから読まずに、好きなものから読めば良いみたいな。個人的に哲学しながら生きていると思っているが、大御所から体系的に読むということはしていない。プラトンさんも読んだことが無い。
最初に読んだ哲学書はベルグソンさんだったような。「時間と自由」だっけ。
今やっとニーチェさんが読めるようになった。もう一回カントさんを
個人的には哲学の1冊目は「ソフィーの世界」だと思います。
どうやって哲学的な認識が塗り替えられていったかの歴史書という位置づけ。
もう一回読むか。
でも、大学の学部であえて哲学科を選ぶってなかなかの兵。文学部よりレアなイメージ。
僕の中では哲学も法学も認識の更新くらいの意味合いであって、実は別にそこに生きていくつもりはないのだろうなと思っている。
もちろん、本は読むし、趣味とは別の趣なのだが。
現代哲学って、いまの社会とどれくらい整合性が付いているのだろう。
古典哲学ってあくまでその時代の巨匠の哲学だから、そこから試行錯誤するのが学問なのでは。
昔を倣うだけだったら史学と同じ。
ちなみに、史学もまぁまぁ好き。
いま、多崎つくるさんの小説を読み返しているのだが、なかなか示唆がある。
小説の体を取った哲学書なのかもしれない。
たぶん、哲学者さんでも哲学の定義は規定できない。
何か色々考えることより高尚な定義ってあるのかな。
別にディスっている訳ではない。念のため。
色々考えられることが人間の定義だから、人間的試みとして哲学は大好物。癖強い人ばかりだから古典を読むのが大変なだけ。
はい、今日はここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。