基準値

 

 

 

なんだか潜っているというよりは滅裂になっているという気もする。いや、確かに内容が難しいからしょうがない部分はあるか。

 

さておき。

 

月を見たのは何日振りだろう。久しぶりに更新を観測した感じ。もっと分かりやすくすると久しぶりに友人に会ったとかそんなの。この観測できていない部分を客観的存在とするか、自分が見たものだけ存在とするか。月みたいな自然であれば、自分が観測したものだけにしてもとくに問題はない。そういえば、公園の雫を載せたシロツメ草が刈られたのはちと悲しかった。しかし、かつて蓮華草のピンクの絨毯だったものが稲の緑の絨毯になっているのうきうきする。そろそろ網が張られて鴨が放たれるはず。

 

 

ズッキーニが生で食べられるのを知ったからやってみた。キノコの中で生で食べられるものがあるという衝撃程ではないけど、たのしい発見。オリジナルはスライスしただけで塩コショウとオリーブオイルと粉チーズだったけど、いきなりそのままコピーして失敗するもあれだからレシピは変えず先に塩もみだけした。普通にうまし。塩もコショウもまぁまぁ良いもの使っているし、オリーブオイルの良しあしは知らないけど、追加した粉チーズがうますぎる。

 

チーズ好きにはおなじみの緑のやつ。一応もう一種類あった粉チーズと成分表比べてみたけど、あんまり知らない方は、プロセスチーズで、緑の方は原材料が表記されていた。要は、プロセスチーズを粉にしたのか、粉チーズの為に作ったのかの違いというか。

 

人にも成分表があれば良いのにってふと思ったけど、成分表ってすなわち遺伝子とか優性思想とか、カテゴライズだろうな。

 

僕は、人の本音は現実よりネットの方にあるのではないかと思う方。文章書いてくれる人は成分表を開示してくれている。もちろん、成分と現実は直結しないのは知っている。本音以外にも、どうありたいかのコンプレックスの昇華みたいな部分とか、人格の成分ではなくいいとこ取りみたいな部分もあるし、選別が大変。

 

僕が一目惚れしたのは、たぶんてらいがなかったとこなのだろうなと。純度が高い成分表だったところ。人の成分表のサンプルとして至上だった。変な話、自分を研究していた。研究したところで何も利益はないのに。

 

やれやれ。

 

昨日の続き。

 

数学も読んでいるのだけど、なんとなく掴めないのは、体系的に書かれてないからだろうなと。高校までの勉強って、専門家じゃない人が創った学習指導要領のプロセスだから、単元の繋がりが全然分からぬ。これを知っておくためにはこの知識が要るのかもしれないけど、どういった理由で必要なのだって。切り取った断片的に遣えるようになるのはできたからなんとかなったけど、いまだによく分からん。

 

歴史学だって、ただ時系列で記述するだけじゃなくて、ポイントを絞った書き方とできたと思うのだけど、教科書雑過ぎないかって。ただ暗記するしかないじゃないか。例えば僕が気になっているのは、公衆衛生とか法律の遷移。西洋史読んでいるとそうとう洗練されているように見えるけど、医学もインフラも発展してなかったのだから、相当不潔だったと思う。

 

体系的ではないと言えば、哲学もそう。この人の考え方は、この時代のこういう思想に影響されていて、こういう結論に至ったのだとか、まとめてくれている本がない。いやあったか。本の師匠にお勧めされたソフィーの世界で一気に哲学にはまってしまった。哲学は知を愛することだけど、この知って主観知でも客観知でもない。

 

そうして、意志と意思と認識と意識。

 

法律学を勉強してどうも分からないと思っていた部分は、意思表示とか刑法上の故意だったのだけど、やっとわかってきた。別に専門的な話にはなりません。

 

要は、近代の人間観が、人は合理的であるべきだという前提にあったからなのだろうなと。社会科学の標準的人間観。これは人は個人であることで価値があるべきだという個人の尊厳に繋がっている。

 

つまり、一番大きな網の基準が宗教っぽいものから理性とか効率性に転換された訳。

 

良いことじゃんって思うかもしれないけど、これってほんとうに基準に耐えられているのか。

 

分かりやすいのは経済学。人は何かの物質的効用を欲求するものだっていう前提ありきで出来上がっている。物を取得する時に、値段とデザインと重量とか気分とか、人の判断の細かい部分を削り取った合理的経済人という人を創った。

 

このモデルはきっと経済市場では意味があったから学問として成り立っている。確かに読んでても面白くはある。

 

会計学もまぁまぁ似ている。

 

法律学になるとやや違う。認識と行為の一致が問題になってくるから。でもこの認識って当人の言葉じゃなくて、常況という客観性の方が強い。この状況であれば、そういうことを認識していただろうって。この基準がべき観念なのが法律学なのだなって。

 

確かに、第三者として裁判するのであれば、人の中身なんて知りようがないがないから、認識を基準にするしかないのは分かる。

 

 

そうして見たときに、人が人をどう見るのかという素朴な基準ってバリエーションが豊富よなぁ。割と合理性に侵食されている人が多い。理が主観だったらなんの意味もないのだけど。

 

人の言葉には意図が在るべきだっていう基準はなかなか慧眼ではあると思った。けど、この合理も主観基準なのよね。自分が本当にそれに殉じているのか。

 

 

世の中には人の笑顔を願う変人も居るし、良き方向にずれている人も居る訳で。

 

 

ちなみに、合理性という基準は必然的に差別を生む。

 

類型的に捉えることで優劣が生まれるし、それが合理的な区別であれば問題ないというのが公的なスタンスだし。

 

まぁ、素朴な差別は普通に在るから、それが公的になってもしかたがないけど。我が家の飼い猫の方が可愛いとか。確かに散歩している犬さんを見ると可愛いけど観念を解析すると、まぁまぁグロテスクな気はする。自己愛の鏡っぽいしステータス感もあるし。

 

もちろん、こういう成分表は公的にはなんの齟齬も生じない訳だけど、だとしたら、自分を決める意味はいかほどかも分からんちん。

 

では、みなさんが笑ってますように。