媒体とコンテンツ

 

 

読み返して思ったがやはり当日の文字化は荒くて薄いな。日常パートをこれ以上精緻化するつもりもないが。

 

本日は休養日。もも裏が筋肉痛になっていた。正しい筋肉を使って歩いていたらしい。砂利がじゃりじゃり主張してくるものだからしばらく下を向きながら歩き、移動していく視界の中に果たして何粒あるのだろうと考えていたのを思い出す。感涙しつつ漫画を読んだり、雨の中衝動的にカルピスを買いに行ったり。

 

どうでも良いが、書く行為はどちらかというと無意識に属するものかもしれない。編集すれば意識化だが。

 

進撃の巨人」のファイナルシーズンを1話ずつ見ている。エンディングテーマが安藤裕子で、また切なさが。良く歌っていた。「のうぜんかつら」とか。どういうアレだこれ。整理して進めということかなんなのか。ということで、本日のBGMは決まった。

 

さておき。

 

昨日書いてなかった読み切った文庫本。米澤さんは、アニメの「氷菓」から知ったが、ミステリーの皮を被った「個々人」の合理性というか行動規範がテーマになっているように読める。人間の薄皮を剥いだところに在るその人。氷菓のほーたろーも無気力に見えるが行動規範は割としっかりしているし、ヒロインも自己の興味を規範にしている。今回読んだ「犬はどこだ」も、なかなか人間がえぐかった。ネットストーカーが現実まで入り込んできて、法律の規範にバレないように現実から排除(殺害)するという剣呑さだが、なんとなく分からなくもない。ちょっと心が痛いというか、僕は大丈夫かという再考した部分は省略し、本気で人が何かしようとしたとき、外在的な枠はあまり問題にはならないよなということ。僕はそこまで物理界に重きを置いてないから、あえて飛び越えるようなことはしないが、気持ちは分かるという意味。

 

割と京都に行くとき選びがちな作者である。昨日の帰り際、読みながら別の本が思い出された。これも人当たりは良いが中身はサイコパスみたいな人が出てきている。

 

物理界に繋がる夢界。家族で車に乗っていたら、父親の運転がめちゃくちゃ雑になってきて、何回か崖から落ちつつ運転は続いている。助手席に座る母親は止めようとするのだが、そのうち「みんなで〇ねるならそれで良い」と恍惚状態に至ってしまい、最終的に絶対助からない高さから回転しながら落ちる。姉は見えなかったが、後部座席の隣に妹が座っていて、この極限状態で僕は何故か妹の頭を撫でた。なんでそんなことするのだと聞かれたが、遠心力により感覚がわやくちゃで答えられない。そうして、あぁ〇ぬんだなと思いつつ、ちょっと安心している自分が居た。やっとこの意識も終われるみたいな。結局生き残って夢は終わるのだが、目が覚めて、父親は生き残ってないだよなと醒める。

 

自分が生きることと誰かと生きることは全然違うことなのだろうな。父親は僕と18年間生きたが、僕はちっともこの人が分からなかったし、恋人関係だった人達もそう。物理界における一緒に生きる人って当たり前になるから自分の生活に含まれるのか。いや、当たり前にしない世界線もあるのかもしれない。経験がないからなんとも言えないが。

 

別に悲観的になっている訳でもない。むしろ、本を読んでいるときにちゃんと書かれていることと具体的に対話できるようになっている思考回路に気付き、同じ読み物でもなんで今までこんなにスルーできてきたのかが不思議で仕方なくなってくる。別にあえて関係まで拡張する気はないが、僕の世界への参加の仕方はこれだったのだなというだけ。「考える」の定義も随分と変わってきた。

 

1つの手法としては、考えるは自分の精神世界に空白をつくるための挙動。常に俯瞰的に考える自分が居る。このやり方であれば、考えれば考えるほど身軽になれる。

 

まぁ良いとして。

 

今読んでいる学問で言うとトップ3は、法学、メディア論、行動経済学行動経済学は、行動の原因がマクロでどこから来ているのかを探る学問で、外在的な情報に行動が容易く左右されてしまうというのがよく分かる。かといって、外在的情報に影響された自分の行動が意志的なものではないかというときっとそうでもない。意志はまるっとこういうものも内包するとても器が大きい言葉。影響値を分析しなくても「自分が選択した」という意識が大事。

 

行動経済学で面白いのは、古典的経済学は人間が完全な合理性を有しているとするのだが、「合理性」の定義がかなり雑い。合理性の説明として、裁判ではもっともらしいという意味で用いていると雑さをアピールしつつ、効用を最大化するのが合理性であるとする。ただ、効用の中身が定かではない。でも社会現象を一定の水準で記述できたという意味では成果か。

 

僕は法学寄りだから、裁判が用いている合理性のもっともらしいは結論であって、本質は利益較量にあると言っておきたい。天秤に載せるためにはまず天秤を作らないといけないし、どういう風に天秤を作ったら公衆に納得されるかという話。昔は確かに雑かったと思う。裁判所の判断は正しいという規範があったから説明をする必要があまりなかった。この時に用いられた言い回しは合理性ではなく相当性だが。個人が考える合理は自分が天秤だから外に対して特に説得力がある訳ではない。論理的思考には自分を天秤として精緻化させるという向きもあるのかもしれないが、僕はあんまり信じていない。判断は今までの自分の集積の結果であり、天秤どうこうは結果に対する理由付けに過ぎないという立場。先の判断のために自分の天秤を再構築するなら分かるが。

 

メディア論。

 

ほんと面白い。どきどきする。人間の三大発明が何かという知識はどうでも良いとして、マルクハーンさんは印刷技術がメディアとして社会に何をもたらしたかということを研究したらしい。「グーテンベルクの銀河系」も丸善にあったのだよな。さらに高価な7800円。こういうのを自由に買えるようになるためには稼がないとなとふと思う。

 

ともあれ。

 

グーテンベルクが発明された活版印刷が人間をどう作り変えたかというと、時間と空間が同質化(均一化)したとか。ここで僕が思ったのは、この文の意味よりも、この領域ではこういうこと考えていいのだ、だった。僕の考察だと時空の感覚は固有なのだが、均一化はここから来ていたのかって。

 

文章は音読するものだったという観念も面白い。目よりも声とか耳に重きが置かれていた社会がかつてあった。文字がいくらでも複製できるようになったことにより、情報として一過性だった聴覚が、永続性を持つ視覚に置き換わる。伝達メディアの発展。

 

あと面白いのが、メディアとはメッセージだという文脈で、媒体と内容(コンテンツ)は常に分離しているという話。文字化されたメディアの内容は発話だし、写真というメディアの中身は現実の瞬間だし。最高なのは、もともと発話と文字は完全な別物なのに、一致していると思い込むというところ。言葉というメディアが遣われているのは共通項だが、もともと全然違うというのは、いつか、話すように書けないし、書くようには話せないと書いたはず。この界隈の学を習得していない素朴な自分が学問の見地に辿り着いているというのは楽しい。

 

これでいうと、考えることは言葉でしかできないというのもメディア論的には嘘くさくなってくる。言葉はメディアの一種で、メディアは媒体でしかなく、内容は完全に別のところにあるということ。まぁメディアは人間を作り変えるものだから、そこに依拠してしまう精神性も分からなくはないが、やっぱり文字化されたメディアとしての本人よりもっと前に内容は在ると思わずにはいられない。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。