こうどうがく

 

 

 

通話が終わって考察動画を眺めつつ寝落ちした昨日。若干顔に元気がない気がしたが問題無かった。自分の仕事ではなく部署というチームの仕事という考えは視野が広くなるが、下手すると自分の回された仕事が回らなくなる。時間がかかるという意味で重たい案件を先生にお願いされて、タイミングを計っていたら遅くなってしまう。

 

ある程度お構いなしでえいやーとやった方が良いし、それによって評価が下がる訳でもないから問題ないのだが、変に気にしい。でも、これに対して特にストレスがない。中身は全然いっぱいいっぱいでないから。自分をいっぱいいっぱいにするのもあくまで自分でしかない。

 

問題児の新人さんのそんなことより、これをちゃんとしようかというところも見つけてしまう。全然真面目でもないしやる気がある訳でもないじゃんって。割とどうでも良いところなのだが、まさに自分ルールでいっぱいいっぱいという感じ。何歳か知らないが、白髪が目立つ。いや白髪自体が悪いのではなく、内的な時間経過が早いとそういう代謝も早いのかなというだけ。僕は自分の毛が全部白くなっても文句はない。むしろちょっと楽しみ。

 

時間経過の意識化をおろそかにしたのかどうかは知らないが、知らぬ存ぜぬしていた頃に二箇所白髪部位ができた。体感的にたしかにいっぱいいっぱいだった頃のものだから、何か繋がりはあるのかもしれない。代謝といえば、爪やら髪やら伸びるのがやたらと早い。毛量はもともと多かったが、爪はキーボードを打つ時に違和感があるなと思うのが週1くらい。別に人が爪を伸ばしていても問題はない。塗られている爪ってそうしたいという意志が宿っていてちょっと官能的だし。まさに細部に意志が宿る。

 

あまりに人が他人の細部を見ていないからそういうものだろうなと学習してスルーするようにしていた無意識だったが、そんなの倣わなくて良いと気付いた。気付いたところで言うかどうかは別の方向だが、気付くこと自体は赦して良い。

 

 

お昼ご飯。公園のベンチでお弁当を食べる。今のシフトは完全に大多数の人の普通の勤務時間だから、座れるか心配だったが、昨日雨が降ったこともあるのだろう、ちょっと空いている。隣のベンチで電話しているビジネスマンが居るなぁと気付いていたら、唐突にベンチの上で腕立て伏せが始まった。そこにセブンイレブンで買ったカップコーヒーを持った別のビジネスマンがやってきて、腕立て伏せをしているベンチにカップを置いて、隣の遊具で懸垂が行われる。筋トレブームなのか?

 

知り合いかと思ったが一言も交わさない。

 

休憩時間に凄いものを見た感。壮観だった。

 

個人的に体を動かすことは好きだが、鍛えるためだけに動かすのは何か違うと思っている。まぁこういうのって体を鍛えるのではなく自尊心を鍛えていると考えれば、ありだと思う。映えのために加工技術を鍛えるよりは健全な運動かもしれない。好きに生きればよろかろう。実感を何で得るかも人それぞれ。

 

 

 

そうして仕事が終わってからの一頻りの思索と行動。

 

明後日が休みで、明日仕事が終わってから愛知向けて新幹線に乗るから、本日の弁当は作らない方が洗い物分出発を早くできる。これが合理性なのだが、判断基準はそれだけでない。

 

時間を早くするために休憩時間に何処かで並ばならければならないのであれば、数分出発時間が遅くなっても意味があるのではとなる。たしかにこちらの方がトータルでは省エネになりそう。弁当と兼用しない夜ご飯ってほとんど食べなくても良いし、それではよろしくない。

 

となってくると、明明後日のことまで考える。もともと明後日家に着いた頃の時間を作るために、本日2枚のシャツにアイロンがけをすることを考えた(した)。副菜どうしようかなとなって、そういえば、満月さんが僕がストックしているレシピのきのこレンチンバターゆかりが食べたいと言っていたから、明後日来たときに食べられるように多めに作っておけば良い。これ材料さえあれば、レンチン時間除けば3分弱で作れる。レンチン時間入れても十分弱。まぁ味付けが秘伝というか感覚だから、誰にも同じメニューができるものでもないけども。感覚任せの料理ってそうとう危険。まぁ、本日もなんとなく上手くできた模様で良かった。

 

という感じで、当初の合理的予定よりも良い備えになった。

はたしてこれが合理性と言えるのかどうかは定かではない。

 

 

で、ここから生活とは無関係の思索。

 

経済学ないし行動経済学における人間の合理性って変だなと感じる。何かが足りない。この足りなさって何だろうという疑問が本日ちょっと分かった。要は、「効用」を軸にしているから抜けている部分がある。もちろん学問ってミクロな部分を切り取ってモデル化して研究するものだから、学問自体に文句がある訳ではない。

 

人って効用だけで行動したり判断したりしない領域がある。傾向的にそういう風に判断することが多いから学問が成り立つし、効用外のことは心理学の領分かもしれないが、こちらも基本的には傾向に焦点がある。

 

個人的に変だなと感じていたのは、「効用」の中のこと。素朴な語彙にすれば意味とか意義とかであって、行動に係るものだから文学とか言語学上のこれとは違う。

 

要は、傾向的な視点における効用は大事だしそれを判断基準にできるのが大人。でも、これに従う判断とか行動はミクロの世界線において、正しいかどうかは分からない。それなのにミクロを越えた未来とか他人もこういう判断をした方が正しいみたいな世界観ってほんと変。

 

僕はもともとの性質が外れていたということでもなく、そこに合わせて生きられる人だったのに効用的に外れたから、もともと仲間外れになってしまった人の暖を取るつもりもない。むかーしはやっていたけども。

 

そもそも、経済学って何を目的としているのだろう。

例えば、僕がずっと読んで来た法学だと、共同生活におけるあるべきより良い法(ルール)とは何ぞやというところで一貫はしている。一目で分からないルールになっているのは社会が複雑化しているから。

 

なんとなく、一種の政治思想が前提とされているのではないかと思ってきているのだが、こんなこと経済学の権威の学者さんに聞いたとしてもきっと分からない。社会の発展とか、効用の最大化みたいなことを想定してみても、それに従った世界は今やこうなっていることを考えると、どうしたものだろう。

 

人が不安を抱きながら生きていかないといけない世界って全然効用も漫喫されていない。

 

そもそも人の括り方として「効用」ってズレていたのではないかと思わなくもない。

人って効用外でも動ける存在だし、僕がこの人はと捉える人はたまたま効用外で僕と世界線が交わっている人だし。だからと言っていちいち物理的に会ってみたいというのも何か違うのかも。

 

だって僕の文章を読んだところで僕の効用ではないし、貴方の効用にもならない。

僕は薄情者なのか知らないが、自分の文章を時間使って読んだことに対して特にありがとうとは思えません。その時間は貴方が使ったものであって、僕がそれに対して感謝をすることはない。もちろん、読んだ人に対してしては読み返すという返礼めいたものはあるが、これはありがたみでも効用でもない単なる興味。

 

もっと情報的に効用がある文章はいっぱい巷に溢れているし、そういうところで関係していたら良いのではとは想うけども、なんか需要があるのだろうな。

 

時間という心労をかけた作品に対する評価としての好きという意味での関係なのかもしれないけど、別に苦労して書いていないし、食べられることもお裾分けで別に自分が減っていない。

 

こんな感じで申し訳ないですが、飽きるまでは貼ろうと思っています。

 

今のところ日記書くのを楽しんで居る。

記録でもなく、単なる描写。

 

はい。

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い人生劇場を。