なんでもできるとしたら

 

 

 

頭を使う人には水まくらが良いと教えてもらった。ちょこちょこ探しているのだが、なかなか見つからない。通販で探そうにも相場感がないためさっぱり(ブルー軍曹ってこれかと思ったものはあったが)。東急ハンズにも見当たらない。

 

見つからないのは、もしかしたら僕が頭を使う人であるという命題を疑っているからかもな。頭を使うとはそもそもどういうことだろう、という感じで考えていたのは20代の頃で、当時の方が遥かに考え込んでいたが何も発見はできなかった。今はもっと緩い。心に移りゆくよしなし事を言葉という道具もってスケッチを描いているだけのような感じ。

 

人並みに欲求も当然あるし興味もあるが、欲求は充たそうと行動するかは任意だし興味も世間とは無関係。職場の雑談を聞いていると、何人感染したかが今日何を食べるかと同じ重さで盛り上がっていて、ほんとにそんなことに興味あるのかと思う。僕は宇宙の起こりの方が気になる。クォーツとは。あと、英語がちょっと読めるようになってきた。参考書の英文の中身が面白いのだ。

 

流れてきた断片的な情報だけで組み立てると、障がい者が云々っていじめの話なのかな。当人は倫理より興味の方が重い人だから、変な事になったという記事があった。あんまり情報を追う気はないが、なんか色々アレな感じ。僕は好奇心も持ち合わせているが、これを十全に当てる対象は書物とか学問にすべきだという弁えはある。好きな人には、、ごめんなさいをしたいところではある。興味が尽きない。

 

ともあれ。

 

スポーツが盛り上がっているみたいだが、僕は本日汗をかきながら料理を作って、「料理もスポーツだな」と勝手に盛り上がっていた。ちなみに本日の弁当画像に親指を入れたのはわざと。指も色彩の一部として撮った。

 

本日は洗濯もあったため、ゆったり踊りながらつくる訳にもいかず集中して動いた。メインはオリーブオイルにチューブニンニクを少しだけ入れて温め(若干爆発した)、鶏もも肉塩コショウを加えて炒める。レンチンで柔らかくした人参、ほんとは玉ねぎだったのだが、時間がかかるためざく切りキャベツを入れて良い感じになったらウスターソースで味を調え完成。副菜は茄子のポン酢わさび浅漬け。茄子は神秘の食材だよな。煮たらとろとろ浸けたらしゃっきり。きっちり作ったからか、どれも完成度高い。

 

昨日の思考実験の続きで、仮に好きな人に1つだけなんでもして良いとしてみたとき、最初に思い付いたのが、「僕が作り得る最高のオムライスを食べてもらう」だった。しかし、ここ何年も作っていないし、そもそも見てくれよく作れたことがないから、3回くらいは試行しないといけないな。バターは良い物を使って、上に卵が乗っていて切ったらとろとろ卵が流れ出すようにしてみたい。

 

なんじゃそら。

 

次に思い付いたのは「接吻」でまぁ真面な欲求だ。

 

さておき。

 

平熱が2分下がった。何故だろう。その分発汗量が増えた気がする。ふつうに考えると平熱という恒常性を保つために発汗で熱を発散するということで、ウイルスを撲滅するために震えて体温上げる原理の逆。ただ、平熱低い人が必ずしも発汗量が多い訳でもない。エアコンは体温調節のメディア化なのだろうか。メディア化というのは、人間の機能の外化ということ。活字は人間の発話(発話)の機能を外化するもの。

 

もしかしたらずっとぎりぎり微熱状態だっただけかもしれないが。

 

頭を使っていないのだろうなという発想はたまたまではなく、AIの本に「合理性」の定義が載っていて、あぁ、全然合理的に生きてないなと思ったから。曰く、合理性には「認識的合理性」と「手段的合理性」があるとのこと。細かい定義はともかく、どちらも理想とする像が頭の中に在って、それと現実を一致させる作用を言っている。要は意識が現実より先にあって、現実を合わせていくということ。

 

分かり易いのは手段的の方で、自分の理想的な像の為にどういった選択をすることが正しいのか判断して実際にそれをすること。仏教とも繋がることで、理法(願い像)にたどり着く選択を間違えないのが合理性。行動経済学的に言うなら、人間は不完全な合理性しか持たないと言う。ここから、ベイズ確率論というまだ解読できてない手法が出てくるのだが、これは統計学でも出てくる。まぁ機械学習の本だからAIとも繋がっている。

 

どうだろう。自分は合理的な選択をしているという自覚はあるのだろうか。選択の時に情報が十全であることなぞ絶対にないから、その不十分な中でなるべく良き選択をしたいというのはふつうか。

 

僕が合理的ではないという論拠は、どの時系列においても良き選択があるとはしてなかった。選択しなかったことに対して後悔がとんとない。あっちはあっちで面白かったかなというのはあるが、今が楽しいから可能性で遊べる。

 

ほんとに深刻な選択なんてほんとはそんなにないのではと思う。深刻さを演出するのは外の事情でしかない。別に選択するときはどちらの方が楽しそうかで選べば良いなんて手放しで言えたりはしないが、何を選択してもなんとかなるのが人生な気はする。

 

僕の欠陥は、理想像とか願い像が漠然とし過ぎていて、目的にはなりえないところなんだよな。例えば冒頭の水まくらの話でも、より良さげな水まくらを選びたいみたいな理はなく、選んだものが縁だろうという感じだから、口コミとか人気とかでは判断できない。いっぱいの人が選んで正しかったとしても、それが僕にとって正しい訳ではない。

 

人生上の選択でも、自分にとってこれが正しいとかではない。

対人だったら、僕の選択より相手の選択の方が重いし、対現象だと僕の意識が現実と一致するようにという選択はそもそもない。そんなことしていたら巨木とか池には逢えなかったし。好きな人も見つけられなかったかもな。

 

漠然とした願い像としては、賢く在りたいというはあるが、賢くなる為には知識を収集すれば良い訳でもないし、本を読んでいるのはある意味完全な非合理の動きでしかない。

 

自分の中の正しさを思考するという行為は希少価値があるのはたしか。そもそもここをきちんと考えている人はほとんどいないと思う。一般的なところの中での正しさならあるかもしれないが、一般的には思考もエネルギーを消費する資源だし。

 

個人的には思考は資源ではなく挙動であり波でしかない。

僕の思考を開示してもそれは僕そのものではない。

 

そういえば、あんまり関係ないが、著作権の話が流れてきたから、著作権法ももう1回読まないとなと思ったのだった。

 

知的財産法は歴史的には新しい分野で、知的な創作、発明、方法論みたいなものを土地のように確立した物質への権利になぞらえようという試み。特許とか意匠はなんとなく分かるのだが、著作権法って毛色が違うなぁと思っていた。定義とか細かいところはすぐ出てこないが、著作物であるという認定も細かい。法的ルールからではなく芸術学的な方面の視点で読み返したいところ。

 

権利と承認されたことによる弊害というか、倫理化されるのもどうもなとふと思う。

著作権って、著作物を創作したその人にあるから、その権利者だけが侵害者に対して文句が言える。権利ってもともとそういうものであるのだが、有名人の不倫が犯罪であるみたいにまくしたてるような人にとっては、ここの区別はあんまりないよな。あえて教えてくれる人もいないし。

 

犯罪だって、現代の国家において私刑は許されていない。

まぁ、悪いことだって一方的に認定することは、とてもとても簡単だ。自分には現実的に関係ないし。いや、自分に関係があると思っているから憤っているのかもしれないが。

 

なんとなくこの辺りに善良っぽい一般的感覚の闇深さを感じるのだが、こんなこと誰にも言ったことはない。

 

ちょっとハリーポッターを持ってくる。

ハリーの叔父さんのダドリー夫妻は、当人達が思う「まとも」な世界で生きている訳だが、子供が誰かをいじめていたとしてもまともの範疇である。ハリーをネグレクトしていても意に介さなかった。

 

これって現実世界と無関係なのかな。

自分の中の善に反することに対しては徹底攻撃して炎上させる現代世界ととても近いような。

 

ほんとに自分に生きているのだろうか。

何万の敵に打ち勝つより、自己に打ち勝つ方に価値があるというのが原始仏典。

 

「モモ」は孤独の話になり、過去が出てこない。

誰かと分かち合わないと、という話だったがほんまかとは思う。

 

分かち合えるという現象が貴重であるということなら分かる。

あれ、僕は僕をお裾分けしたことはあるが、分かち合ったこと、記憶にないような気がする。

 

あくまで誰かの人生世界の中での登場人物でしかない。

 

そもそも自分を分かち合うってなんだ。もうこれを食べないと餓死する食物をあえて分けるみたいなイメージなのだが、現代的にはどうなるのだろう。

 

いやはや、どんな時代で生きているのだろう。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。