限定合理性

 

 

 

22:17から。

 

まだ、憤怒氏は燻っている感じだが、別にどうでも良い。

個人的には大事な部分だが、これを書いてもまだ面白くない。

 

 

本日は、夜ご飯に豆乳坦々うどんのリクエスト。冷蔵庫の中の食材をカウントしつつ、満月さんが作ろうとしていた、アボカドと生ハムのカルパッチョ風(わさび醤油味)と、大根とツナ缶のペッパー胡麻油マヨドレサラダを作った。

 

ついでに洗濯も。

 

 

お仕事。

 

割とどうでも良い感じになっている。

どうでも良いというのは、別に手を抜くとかではない。義務的に時間単位でする仕事のどうでも良さだと、周りの熱量に合わせて手を抜くという方向になりそうだが、楽しみながら思考錯誤して良いということ。

 

よく店長が言う言葉に「失敗しても(物理的)に退場はしない」というフレーズがある。たしかにこれは正論であって、恐れによって仕事をする場合にはこの方向が正しい。成果が出ないのであれば、今の自分ではふさわしくないということだから、恐れずに飛び越えていくしかない。

 

ところで、僕は仕事前、ふとしたときに退場したいという言葉が漏れることがある。厳密には死にたいなのだが、この「死」という言葉は強過ぎてあんまり書きたくはない言葉。自粛とかそういうことでもない。

 

で、死でも退場でも良いのだが、これは括ってしまえば変化となる。物理的な退場は活動から停止という意味で変化の極致だが、おそらく当人はその変化を認識できないから、一方通行の変化でしかない。不可逆的という。

 

で、僕が呟いている退場を分析すると、別に物理的な退場まで求めている訳でもない。だってそんなことをしたら、退場した自分が把握できなくてつまらないし。じゃあ何ぞやというと、変化することって、変化する前の自分から退場することであって、ある意味前の自分は死ぬことになるよなと。この場合前の自分に戻ることもあるから可逆的なのだが、どちらにせよ変化は把握できる。

 

慣用句に「清水の舞台から飛び降りる」みたいなのも、変化する後の自分を許容するというお話であって、退場したいという独り言って、今の自分が気に入らなくて変化したいという感覚である限り、かなり前向きな言葉だよなと思った。

 

もちろん、退場詐欺みたいな、退場したいと思っている自分の今のままが好きな人も居て、その層の人は変化しない自分が好きなだけだから、同じ言葉でも意味が違う。別にけしからんとは思わないけども、この世界観に巻き込まれるとマリオネットみたいに振る舞わないといけないから大変ではある。

 

行動する死にたがりが良き。

 

で、憤怒とか怒りも、結局は変化に対するもがきなのだと解釈すれば、それほど悪いものではない。変わってない自分を叱りにやってくるのが憤怒氏の役割。

 

この変化は、世界観の巻き込みも含まれる。

別に自身が他人に影響力がある人物だとは思わないのだが、そこを考え過ぎて影響力が無いように自分を制限するのは違うよねという話。

 

影響力と言えば、心理学の話。

 

店長は、営業の本を読むなら心理学の本を読めと言っている。

ラポールとかアイスブレイクとか、おそらく心理学の手法をめちゃくちゃ実践している人。

 

僕も無意識にやっている気がしてそういう心理学の本は読まなかったのだが、ちょっと知識的に整理しても良いのかと思っている。仕事で使える道具であってプライベートで使う気はない。これもなるべく他人の人生劇場を尊重する立場から。

 

ただ、合理的に生きようとする限り、情報に選択が操作される訳で、それが人為的が自然的なのは特に違いがないような。経済学の派生の行動経済学では人間は限定的に合理的判断しかできないというのが前提にあるし、人が何かを選択する時に完全に情報がある状態は机上の空論でしかない。

 

となると、情報云々よりも合理的判断の根拠になる情報が正しいという納得の方が大事。これが宗教でも良いし、大勢がそう判断しているでも良いし、具体的な相手がそう言っているからでも良い。

 

僕は特に合理的に物事を判断している訳ではないから、情報によって選択が変わるという感覚が無いもんで、皆がやっているからやりましょうという説明で納得はできない。理屈は合理性とは微妙に違って、辻褄が合っているかどうかは社会性のお話。

 

感情で判断するのは納得として最上級だと思う。

不合理の最上級でもあるのだが、これを合理性に含める人が多い。自分の感情が理屈と連動している人ってかなり無敵だから、変化させることができない。

 

感情は思考をジャックするというタイトルの本がkindle読み放題のラインナップにあって、中身を読むまでもなく納得してしまった。

 

感情は世界を見る眼鏡であって、感情がどう在るかによって世界観は変化している。

どの感情がフラットなのかによって顔付きが変って来るというのが持論だが、別に検証するつもりもない。

 

どうでも良いが、村上春樹さんの「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読み返しているのだが、「ノルウェイの森」より時系列的に前だというのがちょっと読める。やたらと説明口調というか、自動的に流れてくる副音声が、ナレーションになる。登場人物の思考とか発話に抑揚がないのが当たり前なのがこの人の作品だと思うが、まだまだ試行錯誤中だったのかなと。

 

なんだか上から目線と読まれそうだが、僕がこの物語を綴れる訳ではないし、読者目線でもっと良く書けるだろうみたいな他人事目線でもなく、村上さんの作家的可能性というだけ。この可能性は僕の読み味にだけ適用される。

 

個人的にもっとも美味しいのは、なんだろう。

案外「騎士団長殺し」とかかも。話の筋が残っていないのが逆に証左みたいな。

 

 

やれやれ。

 

満月さんは昨日、憤怒氏が憤っていたとき、ソファーで寝るとか言い出したもんで、神妙になった満月さんを無理矢理ベッドに連れ込んで添い寝した。

 

怒っている満月さんとは一緒に寝ない方が良いなと思う。この前、近くのイオンモールに行って怒ったとき、僕は置いていかれて徒歩で帰ることになるのではないかと思ったくらい。そうなったとしても硯は怒らない。

 

怒った硯は別に世界を拒否していない。

むしろ冷めた方がスルーする。

 

怒って良い人は初めてなのだろうな。

 

そんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。