うちはうち

 

 

 

最高の気分で目が覚めたのだけど胃はもたれていたため雑炊にした。昆布茶とほんだしで出汁を取って、具はキャベツとシイタケと溶き卵とちぎった梅干しと塩昆布。刻み海苔をかけていただいた。最高に美味しくて二日酔いの人に振る舞いたいくらいだったけど、いやこれってコンビニでおかゆ買って食べても効果としては同じくらいよなって思う。労力が徒歩3分くらいのコンビニに行くことと釣り合っている。どちらでも良いこと。

 

今日は家を出たタイミングが良くて、夕焼けの藍色っぽい空と月がセットだった。綺麗過ぎてある意味目に毒だ。気分は、あぁ起き抜けで好きだなぁと思ったことなのだけどなんだかこれも申し訳なくも思う。変な罪悪感。

 

どうでも良いけど、罪と罰を読んでいると連想される全然関係ないもの。小学生から中学生時分で定期的に流れていたアニメの名場面集。あだち充さんのタッチの、死んでいるんだぜというシーン。当時はあだちさんもタッチも知らなかったから最終回辺りなのだろうなと思っていたけど、割と序盤の出来事だった。他のアニメについては最終回が多かったという類推もある。めぞん一刻の私より長く生きてくださいとか、ラスカルを野生に返すとか。まぁクララが立ったについては違うのは雰囲気で分かったけど。ラスコーリニコフが老婆を殺すのも上巻の前半という繋がり。ほんとに、どうでも良いことが連想になる。

 

 

さておき。

 

ちょっと精神が良くなくなるとネットの闇に潜りたくなる。炎上とか見てしまうのはなんなのだろう。加担はしないし観察するだけだけど、人の闇を延々と読んでしまう。つぶやき界隈では僕は生きていけないけど、闇の中の光みたいな感じはある。

 

ではなくて、優生思想で野田さんが炎上しているみたい。まぁ原文見ると書きそうなことだとは思った。遺伝子と人格の相関をとても重視している歌もあるし。染色体とか。これに過剰に反応している人たちのエネルギーは良くわからないところ。優生的な観点って普通にあるということをないものとしたいのか、有名人だからか。そもそも言葉にかなり現実的力あることを前提としないと、言葉だけを刈ろうとする気概は起こらないような気がする。

 

あと面白いなって思ったのが、娘もこの歌手が好きじゃないと言っていて安心したというやつ。人格的に品行方正の人の表現しか好かないっていう基準はよく分かるけど、僕は美味しければ良いと思う方。もちろん社会規範に外れたことをすればそれは裁かれることになるけど、倫理的におかしくないと美味しくないという感もあるし、それとこれは別な気がする。外れているから、できないことが行われていることが好きという内心はあって良い。

 

創作にいちいち現実との一致を求める思想も分かるけど、観点が1つしかないのはとても生きづらそう。無形の表現が一番攻撃しやすいというのはまぁまぁ分かる。この感情論を国家が利用したら、、歴史が証明している。

 

あと、女も人間だっていうタグで腕毛の画像を載せるというも見た。これも表現の自由だけど、なんでわざわざとしか。曰く、社会がムダ毛の処理を押し付けてきたから、女性が人間であるために、処理しないことを社会的に認められるためにみたいな社会運動らしい。

 

たしかに、体毛って無駄なものだとは思う。僕はそんなに濃い方じゃないけど機能的はいらないものだからという意味で、脱毛しても良いかとは思っている。優先順位が遥かに低い機能性の観点。

 

で、女性の体毛処理だけど、視力1,5の世界だと、綺麗にやっている人の方が少ないような気がしないでもない。近くで見ている訳ではないしカウントしている訳でもないし、その人の評価は変わらないけど。それよりも、僕は自分の美意識のためにやっているものだと思っていたから、なかなかびっくりしたというだけ。そんなに女性って主体的じゃなかったのって。

 

たしかに、女性の受動性って、古事記イザナミという古来だから、そこに不具合を感じることは分かる。足りないところと余計なところという有名なやつ。

 

そういう文脈で見れば、この画像に対して不快だと思う人の気持ちも分かる。美意識のかけらもないものが被写体になっているから。別に処理なんてしたくなければしなくても良いだろうけど、それを他人がどう評価するかはコントロールできないよとは言ってみたいところ。主体的に生きるなら他人がどう評価するか関係ないはずなのに、仲間を求めるという矛盾。

 

つぶやき界隈で賢そうに語っている人の文章、全然読解できないのはなんでなんだろう。意図が1つで言葉がたくさんだからだろうか。

 

まぁこの話は前菜。

 

合理的人間観がいつできたのだろうという考察。

 

工学系の小説を読んでいて思ったのだけど、科学技術が発展しているから人間も発展しているというのは繋がっていないよなと。技術は人間が外のものとして更新していけるけど、人間自体は世代で交代されるものだから、更新することはできない。更新されるとすれば、個人個人が先人の膨大な知見をインプットしていることが前提になるけど、知識の偏りはどうあっても在るし、自分の知見を全部次世代に継承することなんてできない。人は学問じゃない感情もある1個の個人だから。

 

人間観は、かなり政治に依る。教育という名目で観念を植え付けることはとても簡単。偏らない知識なんて神様でもないと無理。

 

合理的人間観も、おそらく歴史の中で為政者が、宗教だとコントールしきれないなっていうタイミングがあったのだと思う。だから、人権とか権力分立の観念を創った。陰謀論とかではなくて、素朴な考え。

 

たとえば、合理的人間観は法律が最低限。人間は合理的に判断するものだという前提でルールが創られているから、素朴な人は法律のことが分からない。強姦(今は強制性交罪)は殺人と等しいとか平気で言える人とか。ただ最低限が素朴な人格に浸透する。経済学の希少性ってほんとは経済活動を活性化するための捏造なのではとか。

 

僕は、もともと普通に細かい規範に従うことに苦はないのだけど、その当たり前の枠組みってなんなんだって違和感があった。当時は違和感って言語化できるほどの語彙はなかったけども、なんでそこまで自分の主張を正当化できるのだって。

 

合理性を法律が遣うのは分かった。その社会の中の一般基準を追求しないといけないから。

 

ただ、個人の関係においてそうなると話は違ってくるなというだけ。結局自分の基準を一般化したいだけかいなって。

 

 

では、皆さん、良く寝れますように。