研鑽

 

 

二度寝はしなかった。

 

意図的に生活リズムを前倒ししたからお月様とは縁遠くなったけれど朝日には近くなった。朝焼けの中で散歩して頭のウォーミングアップをするのも良いかもしれない。6時前でも人が散歩しているのはうっすら憎い。誰も歩いていない街路を歩きたいのに。

 

うっすら憎い、を解放すると、なんとなく自分の欲が見えてくる。

 

人はお月様でも神社でもロバの穴でもない。というフレーズを昨日の日記に入れたかった。生身の領域に概念的視点を加えるとそりゃバグ。恥ずかしやで申し訳ない。続きはまた後で。

 

さておき。

 

新刊枠はまだ1人称単数ではないと思い本屋で物色した。なんでも良いが一番困る。カズオイシグロノーベル文学賞受賞作品を読もうと思ったけど、どの作品か分からない無知。興味がわいた本は小説ではなく哲学書で、固有名詞的な小説はどうもきつそう。ということでさんざん迷った挙句、負けた気分で1人称単数を買った。

 

村上さんが同じことばかり書いているという批判もなんとなく当たっている気がする。とても記号的というか、抽象的というか、暗示的というか。たぶん書きたいことは、最初から変わってないのだろうなぁという感じ。具体的なストーリーは1つのカタチでしかないという意味で言えば、洗練されている。記号と象徴の違いって、ノルウェイの森にちょろっと出てきたけど、ここなのだろうな。なんというか個人的には原点回帰っぽいなと思って読んでいる。

 

具体的ストーリーとしては1章で短歌を創っている人で、2章はピアニスト。主人公は「僕」という記号で、相手も「達する時に他の男の名前を呼ぶ人」みたいな記号で語られる。これって抽象名詞でも良いのか。

 

これで見ると、具体的な存在が記号になっていくことについてという共通テーマがあるのかも。ノルウェイの森では親友も好きな人も死という記号になる。記号とは=で結ばれる関係。もちろん一般的な意味ではなく、当人の具体的な言葉としての記号。元カレとしてのギタリストとか、何かが想い出になって消滅していくメカニズムみたいな。象徴は一方通行の矢印。鳩は平和の象徴だけど平和は鳩の象徴ではない。

 

記号で括ることは思考経済上の効率性なのだろうけど、その時にはきっと自分も記号になっている。もちろん、外に語るためには記号が必要だけど、それが自分の内にある時だけであれば外になれば結局全部記号だ。この話難しい。

 

どうでも良いけど、「ねっとり話す年上の後輩」も一種の記号だな。ねっとり話すのは僕に媚びている訳ではなくて、全世界対象の処世術。自分を守る力に長けている。この人が財布忘れたとしたら、うまく人に頼ることができるはず。僕はうまく人に頼れないというか、頼るくらいなら朽ちていこうと思ってしまう質。原動力は自尊心ではない。

 

ともあれ。

 

自分が自分の思い通りに動くことについて。

 

スポーツ漫画が好きなのってたぶんここにある。今日も体操漫画の「気持ちがあれば体は動く」というフレーズに感動していたし、ハイキュー!!とか、ベイビーステップとかが好きなのも、自分の体と意識と一致を追求しているから。ダンスとか演劇もこの系譜にあるのかも。これは目的を持った行為論。

 

中山さんの美学入門で、人はそういう体の動きに美を感じるのだというのもあった。将棋とか囲碁が好きなのもここにあるのかも、何万回どころではなく動作してきた駒音が好き。アニメの音源もきっと本職から取っているはず。

 

僕はそこまで効果を伴った動きを追求できないから。最低限自分が思うように自分が動けばいい。ただ、これはこれで大変。

 

そうして。

 

理性と本性の文章論。昨日のはなんだかんだ少なからず動揺していたから勢いで書いたけど、僕の中では同じことかも論。

 

たぶん、「文章が理性だ」という説には、思い通りに言葉を当てるというスポーツとか美学的な源泉がある。つまり、この文章によって、読み手に何が伝わるかということを重視する文脈。何を伝えたいかということでも良い。これだと、例えば恋文でハグしたいと書けば現実的にハグすることを求めていることを伝えたいことになって確かに気持ち悪い。会いたいっていう表現もそうなるか。

 

本性を言葉で糊塗するということなのかもしれん。この、言葉の意味も難しいところ。単語にはもちろん記号としての意味がある。もともとどういう風に創られた葉っぱなのか。言葉という組み合わせを開発した人はほんと凄い。

 

ただ、もともとの意味とは離れて使われることになるのが言葉でもあって。自分が遣っている言葉の語義を知りながら話す人は居ないはず。広辞苑も国語辞典も改訂しないといけなくなるのはそういうこと。あくまで最大公約数的な意味でしかない。

 

だからローカルでしか通じない言葉も開発される。恋人さんとしか通じない言葉とか。

 

で、理性と本性の言語化

 

理性を純粋理性にすれば、アプリオリな感覚というか直感になる訳で、理由も目的もないことを言語化している。本性は目的に関わるもので、具体的に何かをしたいだけど、もともと目的がないのであればここは一致する。

 

という風に言葉について考えている訳だけど、会話でそこまで相手の言葉の意味を気にしている訳でもなく。ここでの言葉は疎通しているという実感を伴えば良いだけだから、相手の語彙に合わせれば良い。というより言葉そのものではなく、言葉の裏にある本心に一致するかどうかだから、そんなに言葉も要らないのかもしれない。

 

元気ですかって聞かれたら元気ですって答えとけば良い、とかそんなもの。

会話には安心という効用がある。

 

僕はここでは自分の語彙で書いている。例えば、好きと人に評したところで、現実世界で何かの効用を求めることは含意していないとか。求める、したいと思うことと、現実的にそうなることはかなり深い谷間がある。本当にそうすることを目的とするならもっとやりようはあるし。

 

最後。

 

僕は、自分が気に入らないから読み続けているのかもしれない。けど、読んだものを自分に取り入れるとそれに紐づけられた自分が掘り出される訳で、どっちにしろ自分からは逃れられないことには諦めないといけない。法律は最新の理性だろうな。人をけだものとして一番やっちゃいけないことを規定するもの。

 

まぁ、僕が語義を表現しなかったことにも非はある。人って基本的に自分の語彙でしか文章読めないもの。僕も含め。

 

何があろうがなかろうが好きですよーとは言うべきだった、いや、これって現実世界において何の効用もないから、これで良い。

 

では、あんまりむしゃくしゃせずにいっぱい寝られますように。