見えないものの方が大事

 

 

 

昨日の日記の最後のところ、某アニメ映画の「ノブレスオブリージュ、○○な支配者たらんことを」と似ている。読み返しつつ編集しつつ思った。あの映画好き。あんまり固有名詞を限定して書くとワード検索で流入があるからあまりよろしくない。何がよろしくないかと言うと、単語での共通項なぞどこにもないから。その枠で書いているわけでもなし。

 

細かい日常の話から。必要なことは最小限でよかろうという行動規範があるのだろうなと。帰りのエレベータで10階から降りていく中、階数ごとに人が何人か乗ってきた。なんとなく開閉ボタンを操作できる位置にいたから目的階について開ボタンを押していたのだけど、何故か反対側に居た人も時間差で開のボタンを押してきた。1人が押しておけば十分だから最終的に先に出たけど、なんだか変な感じがする。

 

もしかしたら善意というか親切心なのかもしれない。人によっては優しさと認識するのかも。しかしながら僕はこういう過剰な善意を優しさとは認識できないところがある。というか親切で開を押している訳でもなく、誰かが押しとかないといけない必要性であって、そこに優しさという要素はない。

 

かなり細かいことだし、それをされたことにもそれをした人に対しても何か感情が芽生えるということでないから、無駄な思考ではある。親切という概念から書くと、僕は道徳規範を率先してする人は必ずしも優しくはないだろうなと認識するだけ。僕の中の優しさは一般論ではなくもっと個別具体的なところにあって、こういった状況においてこういう行動をすれば優しいという基準にはなりえないもの。結局のところ、こうあるべきという存在感と、こうしたいという意志の話か。いや、僕はあえて親切な人に評価されたいという下心は皆無だし。そういう評価をされたら、都合の良い人認定なのだろうなと思う。

 

必要と無駄の話を書きたいがためにつらつらとかいた。必要なことは最小限であるべきというのは、必要なことは特にしたいことでないという前提がある。義務と連動しそうだけど必ずしもそうではない。で、無駄なことは無駄なことだと認識してする。これは意志でしかできない。別に必要と無駄は排他的なものではないけれど。例えばご飯は生命維持という面では必要だけど、味とか食材にこだわっていくと無駄の領域になる。要は、ここには自覚的であった方が自身を分かりやすいというだけ。やらされているという義務の領域はどちらにも関わるものだけど、もしかしたら無駄の方が広いかもしれない。

 

別に人はこうあるべきという人間観はないし、他人のことはまぁまぁどうでも良い。このどうでも良さは下心がないというか、自分のために人と接している訳ではないとかそんなの。

 

烏に単は似合わないで、登場人物が発話したことに対して、自分は経験が肥えているのだってマウントを取りたいからこういうことを話したのだという評価の下りがあったけど、こんなの捉える人によって千差万別だからどうしようもないとは思いつつ、確かに、何を話したいかではなくどう評価されたいかが前面に出ているように聞こえる読める言葉はあるような気がするなと。

 

そうやって恣意的に世界を読み取ってしまうのが人である。

 

そういえば、人が悲しんでいる時に自分のことと思えるようにという歌詞を聞いたのだけど、これも優しさの範疇の話かもしてない。僕は自分が悲しんでいるときにはあっけらかんとしていてほしいかも。尊重と同情は全然違う。それよりも自分が喜んでいることを嬉しく思ってくれる方がいい。

 

ところで。

 

個人的にはやはり今日も面白かった。論文試験に向けてボールペンを購入。あるメーカーのある型番が手に馴染んでいて、馴染んでいる人が多いのかリブロで限定色があり、色味も良かった。たかだか150円でウキウキできる。何万文字と書くパートナーだし。PCに関してはそんなに愛着持てないのはまだそこまで一体化できていないのかも。どれも使い易いから比較する必要がないという説もある。今のパートナー中古だけど歴代の誰より早いし。

 

加えて、新刊見てたらこれは買うしかない本を見つけてしまう世の中の都合の良さよ。福田さんの「演劇入門」。演劇はちょっと縁があって(あった?)、興味津々だったから立ち読みするまでもなく購入。買った後に作者を確認したら大正元年生まれの人の増補版で、古典ブームがやってきているみたい。この時代に生まれて良かったなぁという実感。

 

中身はまだちょろっとしか読んでいないけど、演劇の起原から解きほぐしてくれそうで、まさにこういう本が読みたかったやつ。曰く、起原はソフォクレスアイスキュロスエウリピデス(世界史で見た)の悲劇よりもっと前にあって、お祭り騒ぎの為の演劇だったとか。

 

僕は表現物としての演劇は自己考察で色々考えているから、照合したら発展がありそうで楽しみ。悲劇しか残らなかったのも興味深い。楽しみは「今」であって悲しみは「過去ないし記録」なのかなとか。別に正解なんてないから、どこまで考えられるかに尽きる。こういう自分と無関係な無駄が思考の醍醐味だと思うのだけど、思考に現実時間を取られるのも良くない。思考は空き時間にするもの。

 

「未知なるもの人間」は、その時代にそこまで気付いていたのかという尊敬がある。洗練さているようだけど人の抵抗力は弱まっているということ。情報と快適が氾濫していて個体性が分からなくなっているのでは。

 

自覚的な自分であることはとても難しい。

 

というところで、カントさんが判断力批判で言いたいことがなんとなく分かった気がしないでもない。美的判断は経験より前にあるとは言うけれど、文化によるのではと思っていたら、やはり社会が前にあるらしいとのこと。おそらく、自分から離れていけば生きている社会における素朴な美というのが把握できることになるということか。

 

この文脈から突き詰めると、個人の認識の限界は社会にある。僕で言えば、どれだけ突き詰めても日本人だし日本の文化的価値観は前提になる。個性も社会の中に在るもの。

 

ただ、だからと言って、考えたり認識を更新したりしない理由にはならないとうこと。自分の不具合性に不満足なことで満足しているということであれば何も言うことはないけど、そもそも前提である社会についてそれほど知っていないでしょうに。

 

こまごま言い出すと、社会としての日本の中の○○県ないし○○府の○○市の○○家ということになり、どこを社会と設定するかということになる。

 

人が社会を語るとき、その社会は人それぞれである。

 

自分になるのは大変。

 

もはや何の話になっているのか分からないところだけど、僕は自分が素朴に接している人には自分が思ったことした発しないようにしたい。恋文枠は語彙がブレていた。

 

では、皆さんがあんまり自分に固執してしまいませんように。

 

おやすみなさい。