思考の類型

 

 

 

昨日の笑顔のデリバリーというのは僕の笑顔という意味ではない、念のため。僕は観測圏内の人が笑っていることに嬉しさを感じるけれど僕の笑顔と連動している訳ではないような気はする。別に僕が原因である必要はないというか。

 

さておき。

 

9月のシフトを見たら僕が出した休み希望の日が別の人の休みになっていた。どういった意図でその人が休みになったかは読めたし、別にこの日が休みになる意味はないからまぁ良い。けれど有休を消化しなきゃならない、免許も更新したいので、上司に休み希望却下でも良いけどどこかに休みをくれという交渉をしてみた。すると、完全に忘れられていただけで、結局週の真ん中が休みになった。

 

ここでの考察。上司の忙しさは目に見えるし忘れられてもしゃーないなとは思うし、問題ない。もちろん予定が入っていればごねることはできた。空想ではなくて実現体験がある。リーダーみたいなことをしているとき、飲み会のために皆が定時で上がれるようにごり押したことがある。僕が人に譲るのは、弱気とか自己主張が薄いとかではなく単に優先順位が低かったから。優先順位には操作性がある。ほんとに譲れないものはちゃんと選択してきた人生。

 

ただこの上司も、僕がもっとめんどくさい人であれば休み希望は忘れなかっただろうな。都合の良い人物は優先順位が低くなる。別に存在感は無い方が良いから望み通りと言えばそう。ただ、都合よく使われないようにしなくてはとも思う。

 

そういえば、笑顔の世界に存在している実感がありながら自分が主導権を握っていないという概念は思考にも通じる。ここオリジナルの概念だからもう少し説明が必要な気がするのだけど、どうかな。まぁええか。

 

ここでの考えで、自分は上司から全然見てもらってないっていう卑屈なところに向かうなら、これは思考ではなく悩みでしかない。人からの評価を気にしても正答なんて出ないし、事実が更新されれば悶々した時間なぞやすやすとひっくり返る。こういうのは恋している人だけに絞るのが吉。こういう内心の評価なんて通常は開示されないもので、自分に対する言動で推定するしかないのだけど、内心が反対でも同じ言動はできるし(これが大人かもしれない)、内心は好意でも何も言動されないということもある。

 

つまり、基本的には考えても無駄なこと。僕のここは内心の開示だから内心そう思われているということで正しいとしていい。外面仮面の言葉はないし、何か効能を求めた言葉でもない。だからとて、、

 

ところで、面白い本を見つけた。煽り文が、この事態を越えるための、、みたいなことで萎えそうになったけど、中身は総合的な人間の定義っぽい。そんなに新規の考え方は出てこないかもしれないけど、読み物としては面白そう。たぶん買うことになるだろうから、ちょっとしか立ち読みはしなかった。精神と物理みたいな単語は見えて、この作者さんはどう解釈しているのだろうとうきうきしている。

 

新刊枠の烏に単は似合わないだけど、ある意味面白い。読んでいてこれって誰が言っているだろうって視点がころころ目まぐるしくて、物語自体に入り込みにくいというか。ずっとジブリの「耳をすませば」の小説のイメージが並行している。物語の登場人物が語っているというより、語っている人を俯瞰している誰かの視点。この鳥瞰がわざとだったら凄いな。

 

 

あと、思考中毒がなんとやら見たいな本は、買わないだろうから結構立ち読みした。曰く、思考中毒になると、日常が楽しくなるとか。これは賛成。日常で見かける物は自分と同じ人の思考が現実化したものだからそこをいちいち考えだすと退屈している暇がないし、自然だってどうしてこうなっているのかを考えだすとキリがない。

 

思考をメモすることが潜在意識に影響するというのも分かる。僕はこの日記を書いていることで、世界と自分を切り離しつつ世界に想いを馳せることができているし。この文脈は自己観すら操作性があるということ。

 

どうでも良いことを思い出した。帰り道。右手にビジネスバッグ、左手にビニール袋で歩いていたら猫が触らせてくれそうな距離で通り過ぎても逃げなかった。もしかしたらどちらかの片手に荷物を持ち換えたら触れたのもかしれないという世界線と、たぶん持ち替えたら逃げられただろうなという世界線と。これをシュレーディンガーの猫という。(違う

 

触りたいときに触れる存在は、自己都合的なものよね。

 

脱線したけど戻ってきて。

 

思考にはきっと二つの方向がある。自分にとって世界はどうなのかという内側と、自分から離れて世界とはなんであるかという外側。思考に苦手意識がある人はきっと内側でしか考えていない。ちょっと流行ったロジカルシンキングみたいなことも、内側でより有用な選択をするための思考だし。

 

外側の思考の一例としては何故自分はこの人、あるいはこの風景にこの語彙をあてたのかみたいなこと。こういう言葉のあてかた自体が外向きな無意識の発言だと思うのだが。通常ではあてなさそうな言葉が出てきたのは何故かみたいな。

 

思考は言語しないと意味がないという言説もまぁまぁ分かる。言語化しないと単なる内的イメージの世界が肥大して自分しか見えなくなり、現実化も危うく。

 

現実的な行動の操作に有用なのはミクロ経済学機会費用だと思う。たしかに理にかなっていてすげーなと思う。何かを選択した時に選択しなかったものの中で一番価値が高いこと。経済学的な思考ではすべては何かで代替できるわけで。自分の選択したものは何かと交換可能であるという捉え方。

 

これってきっとパートナー選びにも適用できることだろうなと。自分にとっての有用性が全てとは言わないけど、人生を担うのだからそれなりのメリットは判断しないといけない。

 

僕としては人をメリットデメリットで見なきゃいけないこと自体がもうアレだと思う訳で。

 

で、優先順位で考えると、僕は好きな人を大事にしたいというものさしだけど、好きな人は、、いやここはあくまで観測圏内だから省略。まぁ現実的関係での天秤って難しい。

 

僕は自分の優先順位も自覚してきたから、日記を書く時間はあてても良いけど本を読む時間は確保してくれるようなパートナーであればという感じか。別にあえて求めている訳でもないから、そんな奇特な人が居れば。現実的な温もりなんてある方がイレギュラー。

 

ご飯は作るけど掃除はお願いしたい。

 

何かをすべきとは思わないけど、人は生きているだけで変化はするのだからせめて変化に自覚的ではあった方が良いと思う。社会的変化ではないところで。

 

なんだこれ、ペアーズかよ。

 

 

強制終了でおやすみなさい。

 

皆が笑っていますように。

 

ついでに良い夢を。