証明力

 

 

 

音楽界隈はきっと大変なのだろうな。通信技術の発達でカバーできる領域なのかどうなのか。連帯感の醸成という場はなくなっても作品自体は世界に届けることができる。20時以降は平日で一番忙しい時間帯だからほとんど見ていないのだけど。「宜しくお願いします」可愛すぎかよというとこまでは見た。ファンはファンだけど、全方向的ファンではなく、表現物の主体に関わっているものしか食指が向かないという偏ったファン。

 

さておき。

 

久々にスーパーで葉物の小松菜が安かったので即購入。ささみも安かくて買ったけど、何故3本なのだろうといつも思う。せめて偶数にするとかしてほしい。小松菜は下茹でしてバターで炒めてケチャップ炒めにした。バターという言葉に張り付く意味はチューブバターの誰かさんの日記。

 

人ってこういう言葉にこびりついた意味をどう扱っているのだろう。

取るに足らないなのかな。

 

出勤する時に空を見上げたらほぼ快晴で消し忘れみたいに残った雲がなんともいい味を出している。お弁当時間に公園を歩いているとき、あれ、雲に遮られていないのに影が濃くないなと感じた。夏に馴れたのかと解釈したけれど、帰ってきて他の人の日記を見て、なるほど、もう夏から秋へ移っているからか。

 

虫の声は日本人しか認識できないらしい。ほんとかどうかは知らないけど、こういうのを見ると日本人で良かった。世界がちょっと広い。

 

なんというか、とてもナチュラルな感じに近づいている。もともとここまで考えていたというわけではない。思考の言語化は慣れないと無理で、他人に認識される世界観まで引き上げたけど、そういう話でもなく。世界の認識の水準をちゃんと自分にすること。言語化が拙かっただけで、割と鮮明に世界は見えていたと思う。要は、そもそも世界を誰かと共有することなぞ求めていないということ。

 

認識について一般世界と齟齬があるなら何か時系列で致命的なことが起こっているはずだけど、そんなこともなかった。まぁ認識が一般的であることにどれだけ意味があるのかということにもなってくるけど。

内的に思考という所作は必要なかった。思考が必要となったのはなんだか人っていっぱい考えているのだろうなと認識されたから、いまやたぶんそんなこともないだろうなと観測している。必要なことを考えることは思考ではなかろうよと。

 

有名な人間は考える葦のパスカルさんも合理的に判断することを考えるとはしていないし。

 

ともあれ。

 

村上さんの話。

 

仮面と素顔というフレーズについて。誰しももちろん仮面は被らないといけないし、これが社会的な顔であるとする。言葉が理性だという説も言葉は仮面に含まれるのだろう。ただ、素顔って、本当に当人なのかと考えると微妙なところ。

 

匿名性は素顔なのか。ネットは確かに匿名性の世界で自分にはブーメランが返ってこない世界だから、攻撃的になれる人は果てしない。現実世界で言えば、自動車を運転する人って匿名的だと思った。大通りは赤信号なのに、路地の信号がない横断歩道で歩行者を通らせてくれる運転者って、社名のロゴが付いている人が多い。自動車は私的空間だと認識している人が多いのだろうな。だからいつまでも自動運転に移行できない。ある意味では完全な凶器なのだけど、凶器ではないという認識が一般的だからほとんど気付かない。自動車事故も他人事だし。

 

で、僕はどうかというと、たぶんどんなに近く関係した人であっても素顔を見せたことはない。というのは、完全なる素顔は人と関係できるようなものではないと思うから。関係って相互にそれぞれ敬ったり自制したりするものであって、完全な自分で在れるものではない。

 

この匿名的に書いている言葉も、全然完全な素顔にはなりえない。言葉自体が仮面みたいなところがある。理性とは別に。これは言葉と素顔の一致なのかもしれないけど、世界に投げた言葉はそもそも読み手が前提となっているし。

 

素顔であるとき言葉はないという説。

 

やれやれ。

 

そういえば幸せは相対的なものでしょうっていうフレーズもあったな。村上さん。だから幸せでありますようにとは祈れるけど、自分が幸せあるかどうかには無頓着。

 

自然というか平衡であることって、ただただ世界を考察できること。

 

社会の成り立ちだとどう言語化されるか。

 

社会には道徳規範という不文律と、法律という言語化されたルールがある。これが行われた最初はきっとローマとか諸々だけれど、日本ではそれほど明文化されたルールは気にされていないような気もする。

 

これは、不文律でだいたいなんとかなったというより、なんとかなる人だけで回していたのだろうな。座敷牢とかで精神障がいの人を隔離していたとかなんとか。

 

で、道徳ルールもそれほど正しいものではない。ほんとに正しかったらとっくに世界は平和になっている。で、このルールって何かをしてはいけないという禁止になる。道徳にはよりよく人のことを考えましょうというという項目はない。あくまで自分が他人の立場であれあばという相対的に考えましょうというだけ。

 

それは良いとして、法律は道徳ルールの中で最低限を国家が後ろ盾をしたものであって、別に社会のルールとも違う。だから、法律を根拠にした論はそれほど考えていない人だと思った方が良い。

 

さらにさかのぼったとき、そもそも道徳律とはということになるのだけど、これは政治学の領域。人は資源だから自殺は禁止するし、人同士が殺し合わないように道徳を設定するというような。

 

だから僕は正義とか倫理とか駄目なのです。

相対的にしか使えない言葉を遣う人は勘弁したい。

 

嬉しいは相対評価じゃないから、無駄に特別だと思って執着してしまったのか。

別に僕と同じようだから惹かれたわけでもないのだけど、表現で誤解があったのかもしれぬ。

 

刑事訴訟法の話と繋がるのだけど、人の言葉には圧倒的証明力があると思ってしまうのが人間よね。

 

おしまい。

 

皆さんが幸せでありますように。

 

おやすみなさい。