お返し

 

 

よく読みよく歩きよく書いた1日でございました。

 

 

結局のところ帰宅してnoteのアカウントを情報量最低限で登録してそのまま予定通り書いた。ハッシュタグとか画像を貼るのもあんまり分からなくて文字だけの感想文。URL貼っても良いけれどまぁいっかとも思う。書きたい衝動で書いただけだからあとのことは知らない。タイトルで調べれば出てくるはず。ちゃんと素面で書きました。

 

どう使っていただいても問題ないです。断りも、ないだろうけどお礼も不要。最低限のマナーができていないというクレームなら修正しないといけないので言って欲しいところ。つぶやき場のアカウントに飛べるようにはしたけど、それだけで良かったかしら。

 

確認するためにさっき見たら知らない人がいいねをくれていた。メルカリの記事ばかり書いている人だったから、メルカリに出店された子牛に誘われてきたのだろう。

 

(まだいくつかあるらしいよ)

 

続きはまた後で、日記的日記から。

 

朝ごはん。わかめとミニトマトと梅干しのかちゅーゆと納豆ご飯。昼まで二度寝してから出発。小雨の中、駅に行く前に最寄りの古書店中上健次を探してみたけど見あたらなかった。残念。

 

そうしてソーシャルディスタンスちっくな平日の電車に乗り免許の更新に向かう。向かっている間に、読んでいた文庫本、辻村深月さんの「サクラチル」を読み終えてしまった。電車移動する度に本が1冊食べられる。いわゆる青春小説なのだけど、自分の青春と比べて読むことはないから、他人事で感動できるし甘酸っぱい。

 

冒頭のタイムスリップの章。未来の男の子が未来の医療でも治せない病気の治療のために現代にやってきていた。友達になった現代の男の子と離れるときに、現代の男の子が未来までに治療法を探すと誓っていたのが、最終章のなんでもなさげな中学生の日常譚のお父さんで、研究が間に合ったところにはぞくっときました。ごちそう様でした。

 

個人的には宝石職人の章も好き。というか宝石という単語が感想文を書いた作品にもあって、実はこれは作者が昔書いていたブログからの引用という、マニアにしかできない楽しみ方。

 

そうやって考え事をしていたら、目的の乗換駅から1つ過ぎていた。目的は特急が止まらない駅だから普通に乗り換えないといけなかったのに。まぁここから逆に普通に乗れば良いかと思い乗ったのは良いけれど、ご飯がない。緊急の食糧のための青空文庫アプリ。そういえばと、安吾さんの「僕はもう治っている」を読んでみた。やはりどこかの時系列で読んだことがあって、なんとも言えない食感がある。時代なのかもしれないけど、何か読み手との近さがあるなぁって。

 

免許の更新は流れ作業。せっかく平日で予約を取ったのに、人がやたらと多い。ただ、今までもこういう社会的な事務手続は流れ作業だったに違いなくて、人を詰め込めない、空間のコストが高まっただけだろうなと思った。職員さんも大変だわ。あと、講師の人はやはり話すのが上手くて、全然退屈しなかった。場数なのか僕が法律的話題に受容性があるのかは知らないけど、飲酒運転駄目だわとか、煽り運転は暴行罪だわ(厳密に言うと道交法違反になったらしい)とか感情的に思う。隣の席の人もいちいちうなずいていたし。

 

まぁこれを突き詰めて自動車が悪だわにならないところがご都合主義っぽいけど、社会生活上しょうがない。車の運転はルールをどれだけ守っても人を殺しうるのに。いや、これは思考実験であって、僕は車を運転している人に対して何か思っている訳ではない。これだったら電車も悪になって、徒歩圏内でしか人は生活できなくなるので。

 

そういえば、今日は涼しい。季節が巡っている。この涼しさでも30分歩けばきっちり汗をかくのが人間である。更新場所には1回行ったから大丈夫だろうと自信満々に歩いていたら普通に迷いました。偶発的迷子。

 

帰りはモノレールにしたのだけど、何も考えずに乗ったら逆方向だったと思って1駅で降りたら間違ってなかったという迷子。社会時間としては帰宅時間になっていて電車の中ではソーシャルディスタンスが保てない。なるべく場所を取らずにドア際に立っていたら女子高生二人組がドアの前にやってきて何やら推しがどうとかの話をしていた。興味がないし、あんまり寄ってくれるなと思っていたら、揺れた拍子に女子高生に足を踏まれた。痛くもなかったが、ご褒美でもない。お互い後ろ向きに向いていたから、ローファーの踵で僕の踵を踏まれるとう形。何か言葉があるかと思ったけど、何も聞き取れなかった。女子高生にとって僕は存在していない。まぁそんなもんだということで、つり革方面に移動した。

 

現実世界の方がよっぽどどうでも良い存在は透明になっているような。踵を踏んだ対象が僕みたいにいちゃもん付けない人物で良かったな女子高生よ。あんまり連呼すると変態みたいだけど、こんなの小学生と同じような記号的な呼称でしかない。記号的に人を見たとき、時系列で人が成熟しているかというとそんなことはないと観測する。例えば歩き方。幅があれば反対方向から誰かが通ることを想像せずに道いっぱいに広がる。自分の危険への感度は学習されているかもしれないけど、こういう習性の刻印を見るにつけ、人ってどこに在るのだろうと思う。

 

免許更新の講習で殺人罪になったあおり運転の事例があったのだけど、被告人は最終的にバイクに乗っていた22歳の大学生に高速道路上で自分の車をぶつけるのだけど、レコーダーの記録では、そのとき「はい、終わり」って言っていたらしい。こういうことをする人はほとんどいなくても、こういう風に考えている人はそれなり居るような気がしないでもない。

 

現実化されるかどうかは最終的な枠。最終的にこれを決めるのは外から設定された規範ではなくて内側から設定するもの。

 

ともあれ、モノレール駅の最終地点に大きめの書店があって、やっとこさの河出文庫中上健次千年の愉楽を採取できた。「半蔵の鳥」を読んでいるのだけど、文字数が多くて食べ応えがある。ただ、場面設定がよく分からないところ。生活空間として「路地」が出てくるのだけど、もしかしたら部落の隠語なのかなとか。面白いのだけど、なんだか地盤が定かでないから不安感がある。

 

 

帰宅と同時に冒頭に戻ってきて。

 

書き始めが一番大変だった。文字数的にはまぁ一般的な人が読める文字数に勝手に収まった。あれ以上書くと作品から離れる。とか言って、作品の感想文にかこつけた単なる僕の徒然草なような気がしないもない。僕は作者が自分の作品の解説をしているのはどう書いたかというだけであって、どう読まれるかまでは見ていない気がするから、あんまり鵜呑みにはできない人。

 

ただ、場を変えて書くのはとても面白い。いつも使っている脳とは違う部分が刺激される感じがアルコールより刺激的な感じ。

 

存在の話は特に僕の哲学になってしまった。僕は誰かに認知されることと関係なく思考の言語化としての自分の方が物理的に認知される自分よりより存在だと認知している。

 

というところで見れば、僕が波さんに惹かれたのもなんとなく分かる。自分の思考を誠実に言語化した正直者だったから。顕示欲もありそうだからなんとも言えないけど、仮想の世界で自分が善く見られたいという傾向はなさげ。

 

好きになってもしょうがない。

 

ただ、僕は作者と作品は分けているから、感想文は人格への好意とは別にある。

 

そもそも存在と、その人の現実的な場所取りは別物よね。

 

 

では、皆さんがちゃんと生活していますように。

 

 

おやすみなさい。