あることないこと

 

 

 

1984年」の終盤。拷問シーンでオブライエンが主人公に言う台詞の中に「現実は頭蓋の中に存在する」というものがある。さっき読んだほやほや。診察ベッドみたいなところに拘束されながら、ダイヤルで痛みの係数が自在になっている中、主人公はよくまともを保っている。痛みはどうしようもない現実。

 

とはいえ、痛さって当人にしか分からない。爪の間を紙で切ってしまう痛みみたいな概念上の痛みは共有できるけれど、あくまで痛さはそれぞれの頭蓋(脳)の中にある。という意味で、現実は頭蓋の中にしかないというオブライエンの主張はそれほど変なことを言っていない。

 

僕もずっと考えている項目の1つ。現実が何処にあるのか。別に哲学上のゾンビみたいな話ではない。現実ってかなり複合的な概念で、共通な確証がたくさんある社会とか文化みたいなものを現実と定義していることが多いと思う。これだと現実が客観的に存在しているということになる。

 

ただ、現実がどのように存在するのかという現実感は、かなり当人の頭蓋に依存している。どういう環境で育ってきたかという経験によって現実の領域はほとんど規定されるし、蓄積された知識もここを伸縮させる。例えば、昨日書いた弁当を分解して水につけた満月さんのことも、現実としてそうするのが当たり前だという現実感であればここに感動は起こらないし、そもそも現実として認識できないかもしれない、みたいな。

 

意識に疑問とか変わったこととして認識されないというのは現実の要素の1つになるのか。

 

さっき、一服のために窓を開けたらカエルの鳴き声がする。この周りって畑はあっても田んぼはないから何処からだろうと目で探していると、隣の家の年長者夫婦が庭に天体望遠鏡を持ってきて、星を眺めていた。いいこっちゃ。僕が現実に固執していたらこういう風景はきっと目に留まってもすぐに抜けてしまうだろうなとなりながら現実感を味わった。

 

 

本の話ばかり書いていると、形而上で考え事しているのが現実感なのかということになるから、実践型なところも書いておかないと。書かなくてもやっているから問題ないのだが、嘘は書いてはいけないというポリシー。

 

朝昼兼用でたくさん食べた満月さんを送り出し、ごろごろ漫画とか考察動画を見ながら家事をする。洗い物と洗濯。お互いあんまり気にしないが、必要な制服は洗っておいた方が良いなって。

 

就職の連絡は来なかった。来たらすぐ動くのだが、適性テストが駄目だからという理由で落ちる可能性はある。これが駄目だったら携帯ショップとかに応募してみるか(車の運転もなさそう)。社会人として適性外の7%(が落ちるらしい)に自分が含まれる可能性は十分にある。適性は我ながら無いと判定されても仕方がない。もともと不器用だし、コミュ障だし、僕が学生時代をあんまりはみ出さないで生きてこられたのは、学力があったから。学力と言っても、ぱらぱら見た未知のものをまるっと受け入れて吐き出せるみたいなことであって、考えるという水準ではない。

 

あと、容姿というのもあるが、これはあんまり書きたくない。ちやほやされるとかはあったが、そこから入った人は僕の内面に届く前に断念して踵を返したし。

 

まぁ、適性より可能性だと転換してから随分と気楽になったし、身動きが取れるようになってきたのだが。可能性に気付いたのは、やってみたらなんとかなった前職のテレコミュニケーター。話し下手であるというという自他からやってきたレッテルが剥がされた。

 

そうなってくると、日記を書いているのもある意味適性から脱却した節があるのか。小中高の中で、文章を書く適性を評価されたことが1度もない。読書感想文を評価されたこともない。必要がなかったというより頭の中を描写する語彙なり文体が備わっていなかったという説。創っているのではなく、写しているというイメージ。

 

どんな日記的文章もまるっと当人を表現できる訳でもないし、写し方でしかない。

これはどんな言葉にも言えるのかもしれないけども。

 

 

ちょっとメタ。

 

昨日の日記にスキをしてくれた人の日記を読んだ。僕はあえてここの文章を読んだ上でスキをしている変人性が気になるから返礼として文章を読む。凄くフォロワーも居てフォロー数も多い人。惚気の文体が共鳴したのだろうか。それより気になったのが、昨日の日記の文字数、ここ最近で一番多かったのによく読んだなというところ。

 

こうやって現実的に無関係な人についても現実感として人と捉えるのは悪い癖。

 

やれやれ。

 

そういえば、本日のご飯の話をしていなかった。

 

キムチ、豚肉、豆腐を食べたいというところから豚キムチ鍋を所望した満月さん。これはお母様からの圧力がある模様。夜遅い時間にご飯を食べると太るという通説。これだったらそんなにカロリーが高くないとか。僕はここから連想して、スンドゥブ?という言葉を発した。よくお母様が素を買ってきて作ってくれたとのこと。材料を見るとこの家にある食材で作れそうだが、とりあえず素を買ってきた。キムチと豚肉とネギを加えて煮込んで、あとは卵を落とすだけ。

 

まぁ、寝る直前に食べるのだからあんまり肉肉しいのは合わない。ついでに炭水化物も。麦とか米とかが定着したのって、生産性の高さより腹持ちの良さにあるような。という人類学的考察はともかく。

 

副菜をどうするか。

 

低カロリーでも食べ応えはないと。スーパーに寄って自分用のベビーリーフサラダを買ったあと、回っていたらロメインレタスを見つけた。これはさわやかハンバーグのお店でシーザーサラダになった美味しかった食材。オリーブオイルで炒めて、塩コショウと粉チーズを塗す。甘味が半端ない。レタスの王様認定。

 

あとは家にある食材を使う。100均で買ったレンチンもできる保存容器が大活躍している。 僕が仕事をし出したら、休みの日に副菜をいっぱい作っておく生活になりそう。満月さんはもったいないお化けを大事にしていても、食材の保存期間を全部管理できていない。僕も管理していないが、これはもったいないとかではなく、買った以上どう扱っても自由だろうという観念。食材ロスとか言い出したら桂剥きした大根の皮も活用する必要がある。

 

口に入ればロスにならないという観念って、小食の人に食べることを無理強いすることになるからあんまり好きではない。ややグロイ話、逆流しうるご飯については何も意識されてない。食べさせることで満足してその先のことは知ったこと(現実)ではないという現実感。

 

 

 

こんなことを書いたあとに料理の話をするのはどうなのだろう。いや、そんなメタ的なことを気にしていたら僕の文章体は存在しえないか。

 

ぶなしめじとえのきのレンチンマリネ。オリーブオイルと塩をまぶしてレンチンして、その後にお酢とハーブソルトを塗す。砂糖を使っていないのに結構甘い。個人的には美味しいが、満月さんの舌からしたら美味しいのかというのは不明。

 

僕は自分が作った料理を食べられなくてもあんまり気にしない。ここの感覚は、自分に出された料理は食べないといけないという作法に対するアンチなのかも。もったいないお化けの絵本からきた、無理矢理食べないといけないという観念。

 

もちろんその社会性があるから、前職で上司とご飯に行ったときに、部下に食べさせることが満足な人が無茶に注文した料理は全部食べた。いっぱい食べる人が健康で健全だという観念は、品種改良して栄養価がいっぱいになっている食材に囲まれている現在日本だと若干ずれているかもしれない。こんな世界で満腹を求めるのは暴食なのでは。

 

そうして3品目。

キャベツの備蓄は多すぎるからそろそろ消費せねばという感じで、ツナ缶を加えて無限キャベツ。レシピを調べていると鶏ガラスープの顆粒の登場回数が半端ない。かなり薄味に作ったから、これも満月さんにとって美味しいかは不明。

 

2人で過ごすって一般的には1人で生きている世界の近いところにもう1人の他人がやってくるというのが人生劇場なのだろう。ただ、この劇場感だと、相手が自分に合うかどうかしか問題にならない。相手に自分が合うかという観念がないのは、それで駄目なら次に行けるという可能性があるから。

 

この感覚って、もしかしたら資本主義がもたらしたものなのではという発想があるのだが、あんまり練っていないからまだそれほど書けない。所有権とか自己が固有であるという感覚は逆から見れば、世界は交換可能になるということになるのではって。

 

たしかに、世の中にとって自分という歯車は交換可能な存在という社会の構造は否めない。

だからこそ、どこかに存在場所を求めるようになって、その空虚さで運用させるのが現在社会のシステムかもしれない。

 

資本主義のシステムって、結構矛盾があるような。

でも、人類の歴史においてはまぁまぁ長く運用されているから、人間には合っているか?

 

 

 

満月さんが帰って来る前に書き終わらないと終わりが遅くなる。

 

 

ちゃんと今日も実生活の日記は書けているよな?

 

 

ここからは、ただの内面の世界。

 

 

村上さんがアンダーグラウンドのあとがきの対談で河合さんとお話している。境界例の本とのシンクロニシティ。惡とはなんぞやが書きたいと語る村上さん。惡は部分的には語れるけど、そのものについては書けないし全貌が見えないって。

 

某真理教がやった現実的行為はまごうことなき惡であって犯罪だけど、そこに至る背景の全貌が掴めないよなって。

 

個人的には、惡が掴めないのは自然にある現象ではなく人間が創った概念だからではないかという説。変な話、法律上、人を退場させることの中にも通常の殺人罪が適用されないことはある。神様の目から見て、悪いこととか善いこともなさげ。

 

こういう良し悪しはともかく、問題はそこに思い至れるかどうか。

 

例えば、僕の眼から見れば満月さんのシンク管理のズボラさは惡というか、洗い時間を増やす不合理性だから、あんまり宜しくはない。かといって、これによって関係を解消するという選択肢はない。僕が主観的な目しか持って居なかったら、人を条件(現実)でしか選ばない。

 

この世界観で、満月さんは自虐的に自分の条件を語るのだが、おそらく満月さんの世界の鏡だと思われる。自分が相手に取って利益でありうるから選ばれたという設定。

 

これを覆しているのが、僕の顔の変化。

自分の容姿の良さが面倒だという経験でぼんやりした顔付きで過ごしていたところが、いまや良い貌になってきたらしい。これは鏡を見て自分で分かる。

 

 

今日も多いな。

 

満月さんが帰って来て全品美味しそうに食べたのを眺めていた。満月さんも僕が楽しそうに生きているのを眺めるのが楽しいらしい。

 

刹那的でない平和な関係。

 

 

社会的にこう在り得るのかというのを、岡田さんとホリエモンの対談を見て考える。ホリエモンの方が結構理想主義。現実主義の岡田さん曰く、社会には生贄が必要だとのこと。これは分かる。いまも含めて蟠りの解消のために生贄が必要でなかった社会は無い。ホリエモンはもっとこの生贄性がライトにならないのかと言っていた。自分が生贄にされて刑務所に行ったのになかなか凄い。

 

この話書きだすと終われなくなるからこの辺にしておこう。

 

最終的には引用なしで1日1万文字ぐらいの到達点にしたいところ。これは物理的な速度ではなく写せる量の話な気がする。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。