思考停止

 

 

深く眠ると現実に戻って来るのに時間がかかる。行動と思考が外からどうのということはないけれど、ちょっとだけ鈍い、けど心地良くもある。これも一種の消費なのだろうなと思うと後ろ暗くなくもないけど、邪魔にはなってない、なってないと念仏を唱える。

 

 

お風呂上りに洗い物が少ないなと思ったら、そうか、今日はフライパンを使わなかったのだと思い至る。メインはささみとキャベツのレンジ蒸しだったのだった。

 

洗い物から見る僕の普通の一日。

 

起きた時には洗い物はない。前日に予約したご飯をお弁当に使い、余ったご飯は冷蔵庫行き。炊飯器の釜は水につけておいて、冷蔵庫に常備している無糖コーヒーと牛乳のカフェオレと、水を飲んだコップも洗わずに出勤する。朝ごはんは基本食べない。

 

帰ってきて、お弁当を水に浸けつつカフェオレに使ったコップだけ洗ってもう一杯カフェオレを作り、1時間ほどのフリータイムののち、お風呂を溜めながら釜とお弁当の器を洗ってご飯を作る。お風呂から上がって、料理に使ったフライパンを洗いつつ手に付いた化粧水と乳液と美容液を落とし、次の日のためにお米を洗い、お弁当のおかずを詰めて冷蔵庫に入れる。

 

日記を書いたあと歯磨きをしながら夜ご飯と食器と飲んだビール缶を洗って寝る。だから朝には洗い物がない。

 

ほぼこれが持続しているのだけど、結果的に習慣だとしても主観的には習慣とはしていない。習慣のメリットって特に意識しなくても持続できることにあるはず。まぁこれはこれで良いのだろうけど義務の継続感が否めないので僕は却下している。というより、習慣としてしまうことによって、外れた時の気持ち悪さというデメリットが嫌だ。行動であれば自分が手を抜いてしまった罪悪感とかそんなの。だったら、持続させているのも意思で、それが途絶えも意思で良い。

 

たぶんあるだろうなと想像するメリットなのだけど、習慣が無意識されるから楽しみをより拠り所にできるみたいなこと。個人的には幻想だと思っている。確かに時間軸ではワープできる感覚はあるだろうけど、これで1年が早いって捉えるってなんというか本末転倒のような。時間はだれにとっても有限なのに。

 

習慣でもなんでも良いけど、時間を自分で遣っているときにしか人は自分を認識できないのかなと思ったり感じたりする。仕事の時はきっと遣われている感覚だし、無意識の時は時間は認識されない。

 

ここでいう時間は物理でも生理でもなく精神的なものであり、端的に言えば生きている実感でよさそう。時空と共に生きているときはじめて生生しさがある、みたいな。

 

 

本日はほんと何も考えていなかったら、思索の話題はないのだけどふと思ったこと。

 

僕には特に生活にも思考にも感情にも秘密はないから、変な話、直に知りたいという動機は芽生えないだろうなって。書ききれないことも書けないこともあるけど、これは個人的な生活圏の関係にならなければ見えない。でも、個人的な生活圏の関係でどれだけ近くなっても、僕がここの日記に書いている程の思索は開示されないと思う。僕は興味がある人が僕くらい開示していることはないから、もっと知りたい、むしろ直に話した方がより開示されるかもなという動機はある。存在の格差。

 

だからとて何かということもないのだけれど、生身の存在を取り去って単なる消費物にできるのも人間の能力よねというだけ。まぁ消費できるものならしてみてくだされという立ち位置だからどうでも良いが、鏡を合わせた時に写るくらいには人ってブレているなと現実世界でも見ている。

 

ブレが激しいのは分かりやすい。僕の為になんだかかんだかっていう表現は近い関係の人ほど言うけど、当人の為に等しい。僕のことを見ている訳ではなく、当人の中にある僕像の話。その像は虚像なのだけど、虚像をあえて覆すエネルギーもない。

 

だいたい3000文字超で推移していたのになんとも文字数が少ない。

これが鈍さか。

 

 

ちょっと現実を挟んで。

 

雑談のしんどさ。雑談って自分のことを語らないと成り立たない。自分がどう感じたかとかどう考えたとか自分がどうあるかみたいなことが前提にないと雑談の舞台には上れない。

 

これだけ自分語りしているやつが何を言うという感じだけど、僕はこういう意味で人に話せることが何1つないのである。聞かれたら応えるし、自分は在るけど、これをあえて発話で表現するのはなんだか無駄な気がして。

 

雑談が起こるとき、発話者はあくまで自分の世界のこととして話している訳で、そこに僕の自己主張は要るか要らないかで言ったら要らない。そこで椅子取りゲームをするのは早々に離脱した。

 

そもそも論だけど、言質を取ったところで何かの証左になる訳でもない。会話は流れていくもので、別に自分が何をその人に言ったとか言われたかなんて、ほとんど記憶されてないし。

 

でも、記憶されてない自分が誰かに在ったとして、それはどうなるだろう。その人の中のことだから虚構とするのか、そういった自分も在ったという残像にするのか。僕は割と人の中で無茶苦茶に在った人だから、記憶を失くしていてもそういうことは在りえるなとしている。

 

ともあれ、要は、読み物でしかないのに人として接されるのはなんかブレるなとかそんなところ。そういうおためごかしは要らんぞよというだけ。普通に考えて、この世界の関係が物理世界と類似しているはずがないから、疑似的に関係であることなんて僕は求めていない。

 

 

おしまい。

 

皆さんが良く寝られていますように。

 

おやすみなさい。