刷新

 

 

存在が混乱している。冷静に距離を取るのだ。他人を巻き込むのは禁止。あくまで要請は自分が気になっていることであって命令でも義務ではないから、放っておかれてもその人への評価が変わることはない。だからこそ巻き込んではいけないのだけども。

 

 

さておき。

 

ここ何日か自分の部屋に帰るとき、建物の入口に至るまでの塀の上に特定の猫さんが座っている。初日は触れるかと近づいてみたら逃げられた。その後はくつろぎタイムを邪魔するまいとスルーしようとしていたのだけど、僕の存在が邪魔をしてしまう。そうして今日クリーニングを回収するために夕日がきれいに見える時間帯に家を出たら、案の定いらっしゃる。少し考えた。下を向いて存在を認識していませんよとアピールしながら普通の速度で通り過ぎる。良かった、邪魔にならない。帰った時にも座っていて、同じ手法で大丈夫だった。視線を感じているのかもしれない。まぁ殺気とか感じられないと動物としてやっていけないのだろうけども。

 

今日は髪を切りに行った。店長さんに当たり、無難に漫画の話で盛り上がる。前髪をあまり切ってくれなかったから、次はもっと早いスパンで行かないといけないかも。これが仕事だ。心をかけないプロフェッショナル。帰りにコンビニに寄って一服していたらトンボが飛んでいて、巡っているなぁと思う。物理的時間。

 

そういえば、この前ちょっと高いマヨネーズを買ってみたのだけど一般的なやつと比べてマイルドな感じ。買ったとき僕がそれを買ったのを見たのかどうかは知らないけど、すぐ後に男性がこれを手に取っていて経済的誘引の力を知った。流れるねぇって。もちろんたまたまの可能性もある。僕は本を読んでいる人が居たら何読んでいるのだろうというのは気になるけど、自分もそれを食べようという動機からではない。隣に座っている人だったら中身まで読めるから、何フレーズか眺めてこれはあれだなとか把握する変態。

 

本日の副菜は、パプリカが安かったから、細切りにして小さなポリ袋に入れてちょっとだけレンチンして、ポッカレモンと塩コショウとオリーブオイルでマリネにした。ポッカレモンも最大サイズを追加したのだけど、450mlにもなると調味料というより飲み物感がある。クエン酸祭り。メインはささみと小松菜にしたのだけど、マヨネーズを炒め油代わりしようといつものように使ったら、滅茶苦茶焦げた。油分があまりなかったらしい。一回洗い流す羽目になった。炒め途中の肉をざるにあげて洗うとか初体験。最終的には鶏ガラ醤油とごま油の風味でラーメンっぽい炒め煮になりました。

 

 

ここからが本題。

 

時系列でいえば、髪を切りに行っている道中。ついでに母親に折り返しの電話。どんな話かと身構えていた。長引かないように理容院に着くまでってあえて時間を区切って。

 

何を言い出すかと思ったら、「私は暇だ」→「週に少なくも1度はメールか通話をよこしなさい」←「心配するでしょう」だった。右向き矢印はゆえに、左向き矢印は論拠。躾のできた良い息子だから特に論理の穴とか突かずにうんうん相槌打ったのだけど、この言説1から10までおかしい。義理がなければ完全スルーしても良い案件だと思われる。どこに僕が居るのだろう。

 

まず、僕は暇じゃない。週1義務化なんて時間にすれば1分もかからないことだけど、人間は機械じゃないから、そのための予備精神が要る訳。そんな精神に向かいたくないのに向かわせないといけない煩わしさ。むしろ、連絡がないことに対する自分の不備を顧みて欲しいのだけど、そんな観念はこの人の中には存在しない。確かに好きな人が定時でメッセージ送ってくれるなんて世界線は充たされるに違いないだろうよ(違

 

もちろん、まともな人間として人の言葉のテキストの外の思惑みたいなものを踏まえることはできる。要は、存在しているか心配だからあえて命令みたいな強い言葉を使用しているというツンデレ感。確かに、定時観測で言えば、母親よりここの読者さんの方が遥かに持続的に観測できるから、この言い分はちょっと分からなくもない。

 

というところで、母親にここを紹介すれば物理的に生きていることは把握されるって考えたけど、却下した。僕の言葉についていちいち文句つけてきそうだし。

 

ただ、いつも言っているように心配の主語はあくまで当人だから、心配したくないので連絡をくださいというお願いになるのが普通の筋だと思う。そうならないのは親子という距離が背景にあるから。心配が客観的な善性だと認識される世の中はどうなのだろう。

 

母親が認識している僕の存在とはなんなのだろうと考える。

 

人間とは未知なるもので、時間の分類が書かれていてだいたい僕が把握しているものと同じだった。物理的時間と生理的時間と精神的時間。僕はここに社会的時間を加えるのだけどともかくとして。

 

たぶん、母親が把握したい僕の存在は物理的時間性の軸になる。この軸って何かっていうと、季節の巡りとか、物事は常に変化するとかの、外の存在を観測する時間。確かに退場したら後処理を担わないといけないから大変よねって。いや愛があるだろうと反論があるかもしれないけど、おばあちゃんの死後の整理を気にする母親が同じ軸で僕を見ていない訳がないと読まざるを得ない。証拠に、自分が暇だから、心配だからでしか僕の存在は語られない。

 

暇つぶしの為に生きてはいませんが。

 

そういう語彙でしか考えらないという軸はあるけど、あくまで自分にとってどうかなんだよなぁ。これが普通の人と言われればまぁわかるのだけど、ほんとうに人間ってそうなのかという疑念もあって。

 

毒親の元で育った人が、母親は自分を標準の基準としてか世界を見ていなかったから、徐々にダメージが蓄積されたというのもなんとなく分かる。見ていると基準を再生産しているように見えなくもないのがなかなか痛々しい。自分を世界のスタンダードとできる精神性は凄いと思うけど、賛同者しかいない小さな社会ではそういうこともありうるか。

 

存在とは何か。

 

自分を基準に考えると自明だけど、自分が外を見たときに何を存在としているかを考えてみるとちょっと分かる。

 

試みで、認識できることと定義してみる。これで五官が捉えるものは捕捉できる。でも、人の存在はその範疇を越えているような気がしないでもない。精神的時間軸の人は時間とも空間とも関係ないところに在って、そこを認識できるのが人たる所以。

 

でないと、芸術を観測できない。

 

時間軸の話って、当然大人は把握しているけどあえて表現しないという説もある。でも、精神的時間軸の存在って言語にしないと他からは認識できないから、存在していないのと同義なのよね。自分の中では存在だろうけど。細かく言うと、そういう存在は、特定の人だけが認識できるという面もある。まぁこれをいちいち開示できるパートナーなんて望むべくもないけれど。

 

どうでも良いけど、何か言葉が在る訳ではないのに僕の存在を受け入れると言った波さんは、一貫している感じがする。解釈と妄想の違いは現実的論拠だろうけど、微妙なところ。考えうる最悪の解釈をしたいのに、何か邪魔をするものがある。僕の願望なのか。いや僕の願望はむしろ単なるファンと捉えてくれるところにあるのになぁ。

 

何が読めているかは言語にそぐわない。書こうとすれば書けるけど、書いたところで。個人的メッセージはやめると決めたのに、時々送ってしまう自分の意志の弱さよ。宣伝に使わないのは、使えないのか使いたくないのか。

 

逆に、僕の存在をどう読んでいるのかを聞いた方が良いのか。いや、そんなに暇ではなさそうだから却下。

 

という感じで、僕が想う勝手に皆幸せであれば良いっていう観念はオリジナルじゃなくて、母親からの反面教師というか逆張りなのかもしれない。けども、それで実際に嬉しくなれるのだからもはやオリジナルか。

 

 

では、皆さんが良く寝られていますように。

 

おやすみなさい。