相対と絶対

 

 

本日はなかなかの盛況。忙しかったがまぁこの話は良い。田んぼでは網の微調整をしていた。そう、どんな営みも誰かがやっている。しかも同じ人間。そうして、帰りの月は白いは大きいは近いわで、やたらと綺麗だった。でも、何かが癒されたかというとまた別の話。あまり連動されていない。

 

前残業だけの時は、帰ってからご飯を作る前に30分時間がある。後残が入ってくれば0、何もない日は1時間。こんな猶予で何ができるのかという話だけど、継続を考えればかなりいろんなことはできる。平時5日で5時間も自由時間がある。正味、時間がどれだけあっても自由に使えなければ意味がないし。何かをする時間を確保するのは良いけど、その確保が惰性なのか意志なのかは吟味する必要がある。

 

僕が確保している夜ご飯作成時間は30分まで。作業をしない下拵え時間はなしでも良いけど、ともかく作業時間は収める。だからハンバーグとか作る暇がない。今日は前残業も後残業もあったから、帰ってきた汗だくのまま作り始める。このかつかつは自分に設定した義務ではなく、お風呂読書時間と日記を確保する意志のためだからそれでしんどいとはならない。毎日において意志で設定される時間はどこかという話。

 

ごはんの話。

 

最後の1本であるきゅうりは塩昆布味にしたかったから、粗塩、塩昆布、ちょっとだけ七味、馴染ませるために、ごま油を3たらしくらい。自分の目分量は信用に足る。メインは豚肉が安かったけど二日で遣い切るには多すぎて断念。こういう時には鯖缶。肉もジャガイモもないのに肉じゃが味が食べたくなった。人参は適当に切ってレンチン。その間に洗い物をしながら玉ねぎを切って、オリーブオイルで軽く炒める。肉じゃが味って醤油と砂糖だから、鯖缶の塩味を加味して味付け。ついでに生臭くならないようにしょうがチューブはやや多めに。完成品は肉じゃが味というほど濃くならずただの名もなきおかずになってしまったけど美味しくはあった。

 

そういえば、今日は仕事の最後辺りに、飲み込みが早いなとお褒めの言葉をいただいた。唯一雑談しているおそらく最古参の方。ちゃんと今の自分ではなく、勤続年数を合わせた自分と比較するところがほんと良いと思う。こういうてらいがなく褒められたときありがとうございますとも違う気がして返答に迷う。素晴らしい人格だ。

 

本音として、いや、僕自分の素朴な認識も流用しているからちょっとずるしているのですとか答えたくなるくらい。これだけやっているだけだったら確かに時間がいくらあっても難しい。システムが概念化しているし細分化しているし、全体が捉えきれないだろうなと。そうして、現代の法律システムがまさにそうだから、そこを知っている身としてはまぁまぁ腑に落とすとができるという、ずるっこ。

 

まぁいいや。

 

今日は仕事で負荷がかかったから素朴な自分に帰ってくるまでに時間がかかった。

 

人はシステムかという問いに対しては、だいたいそうだろうな。人の体は膨大なシステムが稼働していて、個人では把握できない。幸福ホルモンの分泌は促すことはできても、何もないところで幸福ホルモンを分泌することはできない。断言して良いのかは分からないけど。

 

精神に絞るっていうのも、人の適切な捉え方ではなかろうなとは思う。気分は体の影響下だし。肉体と離れたところに精神は在れない。だとすれば、認識はどうだろうというと、システムよりはプログラムに近い気がする。システムは循環というか完結的なものだけど、プログラムはあるインプットに対してこういう反応をするという設計図みたいなイメージ。

 

この連動性ってとても簡単というか合理的ではある。ある程度経験則が積み重なれば、試行する意味がなくなる。でも、本当に試行してきたのか自分と問うてみると、そこまでやれなかっただろうなという気もする。自分を試行するという余地は普通の関係にはないから。僕はもう降りたところだけど、関係の中の自分で、関係として規定された人格から外れる試行なぞできない。いや、やろうと思えばできるだろうけど、そこまでコストを払う価値がない。

 

でも、こういう関係というか代名詞を取っ払った個人であることに耐えられる人格である必要もない気がする。かの人を分析するのが好きだから1つの例として挙げてみるけど、自分で自分であることを語りつつ、割と相対的な感じがする。いつでも何かと自分を比べる強迫観念。

 

だから鑑賞物が芸術として成り立つのだろうな。変な話下心。僕は鑑賞物に対して自分にとってはこういう筋の方が良かったとか文句言える精神がどこにあるのだろうと常々思って居たのだけど、非現実ではせめて自分に都合良くあって欲しいっていう感覚なんだろうと思うと、いやいや、作者はそこまで考えられんぞよと。それで完成度が下がった時、責任も取れないだろうし。

 

表現物が批判によって発展するという言説は嘘だと思っている。批判は基本的に足を引っ張るもの。歴史が証明している。

 

演劇の後の意見交換みたいなものもどうなのだろう。僕が見た光景では評論家風な人がここがこうで、こうした方が良かったとか言っていたけど、それってただの感覚論よねって。

 

なんだか勘違いしている人が多い。

僕は別に作家さんと作品について交信したいとは思わないから、課金するだけで良い。

 

会話とか対話ができる場がありますよって言われても、遠慮する。夏目さんとか坂口安吾さんとかの交霊なら考えるけど。

 

かの人に関しては、日記とか小説の後ろにいる素朴なその人が気になってしまったというところ。色々と検証の余地はあるけど、基本的に他人のことはどうでも良いというものさしなのだろうなというのは読める。それを知りながら好意が芽生えたのだから僕がただの変態でしかない。

 

残念ながら、素朴な僕はちゃんと言葉を交換しないと辿りつけない。日記の人格で誰にでも接することは無理だし。

 

今日はここまで。

 

皆さんが暑さに負けていませんように。