選好論

 

 

連休二日目にして既に引きこもり。外に出るのがとても億劫である。その分、自分の思考に潜ることができるのだけど、言語化はとても難しい。

 

とりあえず、noteが横書きしかないことに途方にくれている。横書きと縦書きはおそらく同じ文章でも味が違う。というか、今や縦書きが読めるのってざっくり文庫本くらいしかないのでは。専門書も横書きが主流。だから随分横の目の動きも馴れてきているけど、物語はやっぱり縦が良い。

 

夏が終わりそうなので、「7つの夏の終わりについて」を読み返している。思い出と生活がテーマなのだろうな。

 

さておき。

 

異性から「あなたモテないでしょう」という艶っぽい評価を頂いたので、モテ論から。

 

モテるのはやめましたって答えたけど、この発言は一般的にかなり有効な攻撃力がある。下手したら人格を封殺するくらいの。僕の中では死語にしてしまうくらいのまぁまぁ一義的な言葉。

 

個人的にはやはり面白いなという評価なのであえて取り上げているだけで、こんなこと言える人が人格的に欠けているとかでもない。文脈としては、僕がそこにガツガツしていると評価しているのも面白いし、ほんとはその前の僕の発現を受けたカウンターなことも分かる。そういうこと言っているとモテませんよという忠告的メッセージ。

 

うむ。確かに、モテないと思う。他の人には弁えているので大丈夫です。というと固有な評価になりそうだけど、強靭な自己観がありそうだから別にええかなという当たりをつけているだけ。

 

そもそも女性のモテと男性のモテは観念的に違うものかと思われる。女性の方は自分が何もしなくてもちやほやされるという定義っぽいけど、男性の方は選ばれるための努力を怠らないみたいな感じ。マメな男は確かにモテるし、交渉術にたけた男もそうで、色々と手段があるとは思う。ただ、このモテ思想はどちらにしろまぐわいに向いてそうだから離脱した。

 

学生時代はあくせくしてみた時期もあったし、そこそこの釣果はあったかもしれないけど、このモテ市場って、結局相手の人格の真理とかではなく、いかに自分にとって都合の良い物件かを選び選ばれる場でしかない。もちろん、物理的生活を共にすることを目的とするなら、正しい選好。

 

許される領域が広いという意味では、どの時系列でもあったかな。別に触ったりはしないけど、なんとなく遠巻きで良さげに評価されるとか。害がないからなのだろうけども。でも害がないことはモテの選好対象ではない。

 

 

なんで言ったのだろうというところで、ふと中学時代のことを思い出した。

 

女の子ヒエラルキーの頂点に立っていた三人組が居た。男の子ヒエラルキーではがさつで運動できるような層が頂点。僕は中間項というかどこにも位置してなさげな層で、同じくらいの層の女の子とも雑談はできていた。楽しかったなぁ。某宗教の家系だったのだっけ。元気でやっているかしらと思って稀に検索とかしてみるのだけど、もう交錯はないのかもしれない。

 

ではなくて、ヒエラルキー頂点の女の子の1人が何故かやたらと当たりが強かった。覚えているのは、冬の時のアウターをださいって言ってきたこと。いやださいかもしれんけど別に雑談もしたことないのに言われる筋はない。もう1つが、どの文脈かは忘れているけどあえて僕の顔より委員長の顔の方が好みだと言ってきたこと。今思えば出自が分からない理不尽な発言の面白さ、Mの芽生えかもしれないけど、なんであえて言ってきたかも今となってはなんとなく読める。当時、姉がこの人のお兄ちゃんと付き合っていたというところ。

 

大学の時の同窓会ではかなりしおらしいというか普通だったし、ブラコンだったというのが正常な解釈。この人も元気だったらいいな。

 

中高の後に、聞いたところによると、一定のファン層はあったらしいから、これを前提にすると、僕はモテていたのかもしれぬ。僕はこの時期家がしんどすぎて特に外に目を向けるなんてできなかったから、不良友人に流れた感はある。触れてもいない恋人さんも高2と高3で1人ずつ居たけれど。

 

どうでも良いけど、そういえば姉も妹もパートナーとっかえひっかえだし、母親も自分が選んだだろうパートナーである父親を罵倒するばかりだったから、女性は選んだ後でも選ぶ対象を探しているいうのは最初から分かっていたことだった。自分にとっていかにメリットがあるかどうか。男もあまり変わらないけど、男の場合は規範がちょっとだけ厳しい。

 

 

だから僕はモテたくなくなったというフレーズのために文字数がこんなに居るとは。僕は自分が選んだ人に選ばれるだけでええわ。そうして、これが一番大変。他の好意は一切要らない。

 

 

ここからが本題。

 

自覚的な思考と無意識的な思考の相関。プラトンさんのイデア論は、現代で言ったらAIの深層学習と似ている。形と色が違ってもなんとなく同じものだと感じられるのは、その対象に対して概念が獲得されているから。小さい頃は電車も車も動く機械として未分離だけど、名前が付く前に学習されて後から言葉にできる。

 

これが先験的な無意識。切り分けはもともと無意識がやっていて、言葉で表現できるかどうかは問題ではない。感情だってそうだと思う。それぞれの個人に喜怒哀楽のイデアがあって、それが現実的に通じることで社会化される。

 

これとは別に、後付けのイデアもある。僕で言えば、法学的とか経済学とか史学とか。この後付けの概念を放り込んでみたら無意識はどうなるのだろうという施行。もはや何にも依って立つ立場はなかろうなと諦めているからただただ概念を放り込んでみる。

 

ほんとに現代人が自由になっているのかという個人的な疑問に対して、演劇入門から回答があって楽しい。曰く、「個性は禁止と強制の中から生まれる」と。僕は禁止にも強制にも特に個性を見出せなかったのだけど、本当にしたいことは限定された時空でしか見つからないというのも分かる。

 

現代人は時系列で言ったら一番個人が自由だけど、そうなると自分が認められることが一番なのが主流っぽい。知らんけど。

 

好きな人もそういう人種なはずだけど、当たりが違うからなんかよくわからない。都合理論で言えば、僕の感想文は購買意欲を抱かせないという判断があるかもしれないし。の好きは所作とはあんまり関係ないから問題ないけれど。

 

といういうご都合的解釈で好いておく。双方向だったら鼻血がでそう。

 

ともあれ。

 

理屈とか論理で説明できると思い込めるのってとても幸せなことよな。説明の主体は自分じゃなくて相手でしかないし、それを分からず押し込めるという手腕も分かるけど、仕事でしかやっちゃいけないこと。まず自分が分かっていない人が多いのではないか予測するけど、分からない自分を肯定してくれる人が一番良いのも分かる。

 

 

理解は自分で対象を納得できることだけど、ではこれを言語化して説明できるのは。

 

素朴な疑問として、自分のことを言語化して説明できる人ってどれだけ居るだろう。何が好き嫌いとかではないところで。

 

はい、おしまい。

 

引き続き皆ちゃんと寝ていますように。