既定と認識

 

 

ソフトボール大のどんぐりが出てくる対戦ゲームをしている夢を見た。どんぐりはこの前の散歩の光景で、対戦ゲームは昨日の日記に書いたゲームボーイから来ている模様。

 

コナラのどんぐりは細い弾丸状だが、この前の散歩ではクヌギの丸っこいミノムシのような殻が付いている。コナラどんぐりは通学路によく落ちていたが、クヌギどんぐりの方が印象深い。小学校の頃、1個1円みたいなイベントがあったため。今もあるのだろうか、いやなさそう。すぐ飽きてそんなに集めてはないが、軽トラで集めに回ったような記録がある。爪楊枝を刺して駒にするなど、使い道は様様。

 

対戦ゲームはそんなにするような環境ではなかった。田舎の近所はやたらと遠いし、我が家のスーパーファミコンのソフトの種類はなにか謎めいていて、ストⅡはあったが、あとは麻雀とか、パチンコみたいなのとか、シムシティ。麻雀は父親が、タンヤオ狙って居ればなんとかなるみたいな思想で、学生時に卓を囲んだ時この思想が染みついていた。シムシティはよく分からないなりに好きだった。ドンキーコングスーパーマリオは有名所。ドラクエ6はクリスマスプレゼントに貰ったため思い入れがあり、学校に行く前に早起きしてやっていた。けど、はて、1人部屋だったっけ。

 

対戦ゲームとしてかろうじて成り立ったのはセーラームーンのパズルゲーム。テトリスみたいなのだが、キャラそれぞれに特殊スキルがある。セーラームーンが何列か一気に消すとかマーズ、マーキュリー、あぁ仮面の男の人は相手のフィールドのブロックにバラを刺して消せないようにするのだったかな。漫画あんまり知らないがキャラはまぁまぁ残っているという、女社会。

 

という感じで、少年漫画と同じくらい少女漫画もアニメとして結構見ていた幼少期。魔法騎士レイアース(光、海、風だったか)、ひめちゃんのリボン(あんまり覚えてない)、カードキャプターさくら赤ずきんチャチャとか。「なかよし」も「リボン」もあったが、漫画として読んでいたのは、なんだっけ、マーガレット? NANAは映画に鳴る前に知っていたし、クローバーという漫画が何か好きだった。

 

振り返るとオタクの素養が強い。男用、女用みたいな漫画の括りに囚われないのはそういうことか。無料枠で読んでみて買いに行ったら女性棚だったということはままある。「三月のライオン」とか「僕らはみんな河合荘」は微妙なライン。僕はひらすら「読む人」のため、漫画も途方もなく読んでいる。

 

でも、こういうどんな物語に触れてきたかということは、人は環境によるという説からすると割と影響値高いよな。本を読まない人が周り多ければ読まないし、同性の兄弟しか居ない、あるいは一人っ子だと同性向けの漫画ばかり読むことになり、世界観が一方的になる。

 

こういう世界観は今後どういう世界を採り入れられるのかという意味では未来に影響する。小説の話だが、大学自体に知り合った、当時よく小説を読んでいた人は女性が書いた小説は読めないと言っていた。曰く、性描写が綺麗過ぎるだったかな。男性が書いている方がリアルで自然みたいな説。個人的に当時はそういうものかなぁと思っていたが、むしろ女性作家の方がシビアなような気がしないでもない。あんまりそういう小説を集中的に読んでいる訳でもないが、生々しく書かないというはあえてというだけで、性描写が多いとされる村上さんだって特に全部描写している訳でもなかろうし。

 

異性を都合良く捉えるという意味では、どっちもどっちだと思う。男性が生来持っているとされている男性像みたいなものがよく分からなかったのは環境要因なのか。まぁ、小説で言えば今や老若男女問わず、なんなら時代も越えて読んでいるためなんとも言えないが。

 

男性ホルモンが薄いのだろうな。知らんけど。

 

ともあれ。

 

環境のせいにすれば良いというテーマでなんとなく思索していた。もちろん、だから世界の外に攻撃して良いとか、甘えて良いではなく、自分が世界に対してどう感じるかという意味合い。悪意を感じたり何かをストレスに感じたりするのは、そういうことがそういうものだとする環境にさらされてきたから。

 

僕の環境は、人の波に応じて対応を変えるみたいな負の感じだった。

母親が不機嫌だったら一緒に不機嫌になるのではなく、殻に籠って流すとか、言動に反発されたら黙って静かにするとか。これは止められそう。いや、止めていいのかとブレーキはある。都合良く扱われないようにこれを貫徹するのはとても難しい。

 

試みとして、はてなの方のアクセス数を見て宵顔さんの肯定的波を測っていたのを止めたら、僕を読んでいるかどうかは無関係だったなとすっきりする。環境要因で、好意を持つということは何か理由とか自分にとって良いものがあるはずだと悶々していたのだが、そんなの関係ねぇなとできた。人が人に惹かれるのは条件でも因果でもない。

 

そんなことより、辻村さんの小説が盛り上がってきていてワクワクする。

 

おさらいすると、小学校時代の地味でイタイ霊感少女が学習塾のオーナーとして成功したことを、当時ヒエラルキーで上位だった主人公がインタビューすることになった。

 

このシーン、主人公は無意識で相手に対して優越感を抱いていて、相手が自分(主人公とイタイ霊感少女である当人という二重の意味)に劣等感を抱いているから私とは会いたくなかっただろうなという空気感が滲んでいる。この空気を成功者はさっぱり断ち切って、「あなたみたいな当時の上位者が下位者である自分によって傷つくなんてことはないでしょう」みたいなことを言う。

 

自然と自分が優位である感を纏っている人は確かに居たし、どの時代でも居る。僕は明るみでも暗がりでもない中間みたいなところに生息していたししているが、ヒエラルキーの上位で居る人って何も考えてない感があるから、特に羨ましくはなかったのだが、暗がりに居た人は淡々と復讐のために生きてきたのだなという怖さがある。自分が明るみに出たかったという意味では、ほぼ同じ世界観なのだが、同じ軸で仮想敵を創ると楽なんだよな。

 

で、このシーン、タイマンではなく他の人も何人か居て、主人公は口撃されている時に周りを伺って、表情が全然変わらないところを見てこの人達は成功者の味方なのだと捉える。自分にとって都合が良い人を基準とした素朴な内と外の切り分け。生々しい。

 

僕は小学校時ヒエラルキー上位だったらしいが、そんなことは気にせず遊んでいた。中学時は、上がってきた小学校での人数比と相対的可愛さで上位者が決まり、蚊帳の外グループでタラタラ生きていた。高校はもはやどのヒエラルキーだったか定かでない。でも、なんとなくこの順列設定は息苦しかった。設定するのもされるのも。

 

大学でも、順列をやたらと気にする1個上のバイト上の先輩が居て、バイトが終わった単なる関係になったあとも気安いのは赦さないという不思議さ。縁を切った。お嫁さんは割とフラットな人だったのだが。

 

この話は、結局のところ、人にとっての環境でもっとも影響値があるのは、周りの人だということ。個人的なものさしだと思い込んでいるものは、よほど強固な自我がない限り関係に均される。個人の自我なぞ集団においては勝ち目がない。

 

逆説的に、僕は自我がなかったからより自分になれたという説。

自分という認識は、世界を留める方向になる。

 

認識と知識の違いを考えたことがある人は居るだろうか。

知識は忘れたら自我に戻るが、認識は自我が更新されることだからもう戻れないという意味合いとしてみている。

 

僕がやたらと昔を書いているのは認識が更新されたからなのだろうなという感じ。

認識は解釈とも違う。解釈は認識を前提としているが、認識はこの数を増やすだけでどれを選択するかは任意。

 

言葉の切り分け楽しい。

 

やれやれ。

 

最終的に、今日の認識の更新。

 

僕が何かをしたことが相手にとって煩わしいという思うことは、相手の存在を蔑ろにしている訳で、もっと自由で良い。それによって何かが返ってくるべきというものさしで生きてないし。このものさしはかなりアプリオリ感がある。

 

で、だからこそ、僕の言葉如きで何か良い波を受けてくれる人を大事に想って良いとなる。ただ自分で生きているだけなのに、それを受けてくれる人はそうとうの変人。

 

この価値を認識してしまったら。

 

まだ自由の余地がある。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

みんな元気でありますように。