幽霊から肉体へ

 

 

 

幽霊の存在について考えている。ゴーストの囁きは直感とは別のことなのか。

 

 

仕事の日より早起き。

 

最近暗めの物語が寄ってくる。「成れの果ての僕ら」という漫画の無料分を一気読み。バトルロワイヤルより湊かなえさんの「告白」にちょっと近い。起き抜けに読むには重い。人の善性とは何なのか。今ふと思ったのは、善とは何かを思索できること自体が善性と言っても良いのではというところ。僕は別に善悪を媒介して物事を思索しないため、善い人ではないということになる。

 

というか、善悪の観念ってある程度安全だからある訳で、極限状態において持ち込めるものだろうか。僕の人生上の極限状態ってなんだろうな、父親が倒れたとき第一発見者になったこととか、大学の時家で飲んだ次の日友人が倒れて救急車呼んだとき、長く過ごした恋人さんが自転車で事故をしたときに居合わせたとき、とか自分事でないことがまず思い浮かぶ。こんなとき、善悪は当然余計なもの。最後のは回避できたことだな、今想えば。

 

自分事で言うと、中学の部活時、熱中症で気絶したことくらいか。水分補給がまだそこまで浸透していなかった時代。視界がモザイク状になっていくのはその後飲み過ぎた後に経験し、これが貧血の感じなのかとなった。当然善悪は出てこない。食物連鎖の頂点に立った安全と、頭に余白があったからこそ出てきた道具的な観念で、若干手に余るものだとは思う。善=義務を課して良いとなってしまうとか。

 

 

順調に秋に移り変わっている。空調なしで机に向かってぽちぽちしていると手が悴んでくるが、歩くにはちょうど良い。昼過ぎにコートをクリーニングに出すついでに近所の緑地公園に散歩に行った。チェスターコートのポケットを点検していると内ポケットに失くしたと思っていた伊達メガネが入っていた。そういえば「GOOD WAR」の時が最後だったか。そのまま着用して出かけようと思ったが、視界が曇るからとりあえずやめた。たしかマスクを下げるかマスクを上げてメガネを下げて息が流れ込まないようにすれば良かったはずだが、眼鏡がある散歩を想定していなかった。

 

本屋さんに寄って物色していたら、辻村深月さんの「噛み合わない会話と、ある過去について」が目に入る。ビニールで完全包装されていて流し読むことはできなかったのだが、裏に臨床心理士が「幽霊を抱えて生きている人たちの苦しさや切なさが見事に描かれていることだ」との評文があり、なんとなく買ってしまった。この話は後で。

 

セブンイレブンで和風ツナマヨおにぎりと揚げ鶏と一番搾りの新商品を買い、公園に向かう。直近の元恋人さんと言った焼き物のお店が内装工事をしていた。このシーン、もう3年くらい前になるのだが、この後に自販機で変な名前の水を買ったことまで残っている。

 

乗馬クラブで馬を遠目に眺めつつ公園に着くと世界が戻ってきたのだという感じ。BBQが解禁になったらしく、集まりを至上とする人が集まれてよかったなぁと漂う肉の匂いとともに、良い感じの空気感を味わう。昨日の仕事帰りに電車が止まっていて駅ビルを降りたら人がギスギスと密集していた感じとは、同じく人が多くても随分違う。何か陸上大会も開催されていて、音楽会場ではブルースの何某というイベント事で、会場に入らなくても、BGMが流れていた。平和な世界。ハッピーな事だけしていれば人はハッピーなのだろうな。

 

ただ、ハッピーはアンハッピーなことが存在しているからその反動として起こるのだろうか、僕の人生の感じだと、そんなことはない。ハッピーはハッピーで独立している。

 

 

幽霊の話。

 

この単語に感化されて読書時間に途中までしか読んでいなかった「脳の中の幽霊」を追加した。これは脳科学者、いや、お医者さんかも、が書いた本で、事故等で四肢の一部を失った人が、もう三次元には存在しない腕や足の痛みを訴えるという臨床例が描写されている。ここでいう「幽霊」は、脳の認識は実際の三次元世界と一致していなくて、その誤差ないし差分だと思われる。プラトンさんのイデアを持ってくるのであれば、手足が失われる前の自分の体をイデアと捉えていて、現実に追いつかないものを痛みとして表出させているのかな。

 

こんなの無いと思えるのは失くしたことがないからであり、髪の毛をバッサリ切った後の違和感の延長でしかないのではという感じ。僕のふくらはぎがすーすーする違和感も。

 

物理的な体と自己観の差分への違和感は、今や別の方向性でも社会に顕在化している。性転換手術をしていない性自認が女性であって戸籍上は男性の国家公務員が女性トイレを使用することを許可するかどうかという裁判例を読んだ。なかなか難しい問題で、素朴な忌避感がある。いや、僕は仕事場のお手洗いで女性が掃除している中で排泄してもなんとも思わないし、排泄自体自然のことだから何か恥ずかしさを感じる必要もないと思っている立場だが、男女の2つだけで切り分けていた社会モデルをどういう風に転換すれば良いのかというのは政策的にも大変だと思う。夫婦別姓より優先順位は高そう。自認であれば済むのではく、社会に公認されないといけないとなるのは、親子関係だと分かる。なんだかややこしくなってくるため省略。

 

「過去」という名の幽霊について。

 

「噛み合わない会話と、ある過去について」はそういうことが書かれていて、人は過去を今にとって都合良く改ざんするらしい。過去は今から見れば幽霊みたいなもの。

 

最新文庫だからネタバレになる。10行くらい改行します。

読んでいる、読みたい人はこの先は読まないように。Wordpressだったらカーソル合わさないよと読めないようにできるのかな。あれを採り入れたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい。

 

1章は、大学時代のコーラス部の友人が結婚する話。主人公は女性で、そのサークルに属していた大多数も女性で、結婚するのは3人しか居なかった男性の1人。で、その結婚相手というのがいわゆる「メンヘラ」で友人が居ないから、新婦側の友人として唄って欲しいと言う。

 

常識的にはおかしいのだが、主人公が言う、この友人はハッピーなのだというのも分かる。

この友人男性はいわゆる「優しい人」で、害がない人として女性部員の家に泊まったりしつつ、色々かいがいしくやっていたとのこと。使い勝手が良い友人という置き所より自分に執着してくれる人を救っているという英雄感に浸れる共依存関係は悪いとは思えないなと。

 

僕も実際、大学自体に高校時代の女性友人の一人暮らしの家に泊まったことがある。もちろん何事もなく。だから、といういうことでもないが、友人という免罪府を使って何も返さなかった女性陣と縁を切ったこの友人は、ハッピーなのかもしれない。もちろんこの返すはセックスをしてあげるみたいな下世話なレベルでもなく、人としてという文意。

 

友人は、過去たまたま同じ場に集合していたという括りで定義されるものではないと思う。

学校生活という時間縛りの中で相手のことを把握する時間は全然ないし、接し方もその枠の中でしかできないし。

 

2つ目は、もっと過去に寄る。

女性教師が主人公で、かつて担任をしていた子どもがアイドルになって小学校に戻ってくるという話。厳密にはアイドルになった男の子の弟の担任らしい。で、主人公はこのアイドルについて「ぱっとしない子だった」と吹聴していて、実際会ったときこのアイドルに、「貴方のことは大嫌いでした」と言われる。若い女性教師としてちやほやされていて、クラスで目立った人しか相手してなかったですよねとか、ねちねち言われる。

 

普通の読み方だと、この主人公が過去を自分にとって都合良く改ざんしていて、このアイドルの発言が正しいという読み方になるはずだが、僕の素朴はどっちもどっちとしてしまう。どちらが正しいかって印象の天秤でしかない。僕の中では嫌いとか憤怒が継続するためには自分の中にそれと同じような接ぎ木が必要で、ずっと嫌いな教師であったなんてアイドルとして成功した後でも継続するはずがない。

 

言われた方はずっと覚えている、それは分かる。

でも、どれくらいずっとなのだろう。このアイドルもややこしくて、自分の過去を正当化するために無駄に主人公を下げようとしている感がある。

 

僕も残す質だが、その発言で変化したとか、縛られたとか、それも自分だよなーというくらいしかない。

 

そうして3つ目。

親子関係の話。子育てに義務を持ってくると時間を経て子供に逆襲されるとのこと。まさにうちの母親がそうなのだが、自覚はない模様。

 

真面目な人は義務と仲良しというフレーズがあり、なかなかわかりみ。

懇親会みたいな場で、真面目なママが本気で語ってもなあなあなお母さんたちは萎える。真面目に生きるからこそズレる。

 

僕は子供を育てたことはないが、自分を育てているため、教育として大事なことは、ルールを義務化しないことだったり、選択を尊重したりすることだと思う。

 

この話は、自分が母親の支配から自由になったら母親が現実的にも変わるというホラーテイストで終わるのだが、これは普通に現実的にも在りうること。

 

僕も大学の進学の時、地元は選択肢になかったなーとか諸々。

絶対離れたかった。母親の支配の世界から。まぁどこに行ってもローカル世界を支配したい人は居たが、母親よりは緩い。

 

そうして、過去が幽霊になるのはどんな条件かという思索。

 

おそらく、今を正当化するために語られる過去はだいたい存在していない。

過去が希少なのは今の自分から離れているからであって、ある意味他人。僕も誰かに恨まれている可能性はある。そこまで僕に執着してくれている人が居ればむしろありがとうと言いたくなるが。笑

 

僕がいま気になったのは、宵顔さんを僕にとって都合の良い存在として改ざんしてないかということだった。が、僕は自分の存在のために他人を都合良く扱わない質だから、宵顔さんに好かれていようがいまいが、関係ない。僕が宵顔さんを好きになった素朴だけ良い。

 

発言を都合良く解釈するということもしていない。

 

要は、僕の過去は別に幽霊ではない恨みつらみもない事実。ただ、発言によって関係をどうするかは決めている気もしないでもない。僕は自分の発言がどういう効果をもたらすかには責任を持っているが、てきとーに僕のこと評されると、その人にとっての僕はそこまでか、じゃあ居なくても良いよなとなる。

 

うっかり言ってしまったなんてことはあり得なくて、全部言いたかったから言ったこと。

 

最終的にはこれがまかり通る世界で生きたいな。

どう換算したのか分からないが、あと35年もあると呟いているので、退場の心配はないですよ。

 

また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を見られますように。