あるかいっく

 

 

穏やかさに生きるだけでなく、お裾分け、というか伝播できるようになりたいところ。どうだろう。

 

 

本日もたくさん夢を見た。特に覚えているのは2つ。

 

1つは、古い方の実家が解体工事される夢。詳細は朧気。実際には家自体が解体されるというより、解体の準備で回りを崩す工事。中学生の時に亡くなったおじいちゃんが出てきた。空っぽの部屋で独り空のお茶碗と箸を持って、食べるしぐさをしている。その時僕は何故か焼きそばパンを持っていたから、それをあげた。おじいちゃんはかたじけない、とどこの時代の返しみたいなことを返してくる。うん、この夢ストーリーになるように言語化できないな。書いていて思ったのが、おそらくおじいちゃんだからではなくて、フラットに人として好きだったのだろうなという読後感。立場上永遠に対等には接することができないというのもなかなかの因果だ。現実世界での人は立場が不可分にくっついている。

 

そういう意味では、父親とも同時代の人として話してみたかった感はある。そういえば。うーん、なんとも世界は容赦がない。同じ時代で生きていてさえフラットな関係はとても難しい。

 

あと、こちらは軽い。全く見たことがない抽象的な眼鏡の女の子とデートをする夢。別に何かをしたわけではなく、並んで歩くときにどちらがしっくり来ますかという話をしていた。僕は基本的に右側がしっくりくるのだけど、何故だろうな。手を繋いだときに利き手が自由な方が有事に対処しやすいとか、心理的に無警戒な部分に置くことで警戒していませんよってポーズを示しているのかもしれないし。貧弱だけど腕枕するのもできれば左腕でしたいところ。

 

皆さんはどうだろう。人との物理的定位置ってきっとあるはず。ただ、このレベルの当たり前だったらどっちでも良いと思う。というか、どうにでもなる。

 

さておき。

 

出勤中に見かけるしろきつねばな(ネーミングがお気に入り登録されている)はよく見ると完全に白ではない。紅が差しているような。同じ場所に標準の真っ赤な花も咲いていてコントラストがとても綺麗。

 

そのまま良い気分で歩けたら良かったのだけど、水を差される光景をみた。車から降りて草むらに向かってまさに水を差すというか。車だったらあと1分運転すれば公園のトイレあるのに、何故我慢ができないのだ。我慢した経験がないなんてことはなかろうに。でも世の中には怒りを抑えられない人も居るし、喫煙所まで待てない人も居るし、こういうのも当たり前が更新されていないということなのだろうな。なんというか、世界に他人が居ないという当たり前の世界に生きている人とは関わらないようにしようと思った次第。

 

仕事もまぁ普通に面白い。先生、マスクだからって髭剃りサボっているなとかが観測された。息苦しいからって鼻を出している人が多いのだけど、どうせマスクするならちゃんと意味ある付け方した方がいいような。僕がマスクをしていることで物理的な息苦しさを感じないは、マスク付けたらこれ当たり前だと思っているから。いや、と思われる。でも伊達眼鏡と併用すると曇るのが困る。無意識で息していたのに、息の仕方が自覚化されたってことなのだろうか。仕事で当たり前がそうなったのだから、それは受け入れるしかないことで、プライぺーとの乖離が気になる方が公私混同で楽しんでいる僕よりよほど未分離だと思われる。知らんけど。

 

あと、同期の仕事ぶりがまぁまぁ気になっている。大丈夫かという意味で。しんどくなければ良いけど。

 

ご飯タイム。母親からラインが入っていて、空いた時に電話くれとのことだったから、帰りに折り返した。身構えていたら、野菜とか送ったとか。どうもどうも。そうしておばあちゃん印の小梅の梅干しがやっとやってくる。うちにある大粒と併せて梅干し貴族だ。

 

今日のメインはルーティンだと鶏肉だったのだけど、あまり良さげなものがなかったから鯖缶にした。解放感に任せて前衛的というかオリジナルな炒め物になる。薄切り玉ねぎとしめじとミニトマトを具材にオリーブオイルで炒めて、味付けはポッカレモンと粉チーズと昆布茶。普通に美味しいけど、調味料の分量によっては破綻しそう。何より見栄えが良くなくて美味しそうじゃない。

 

自分の本心に従うことはとても簡単である。

 

 

もう1つのご飯タイム。

 

青空文庫では国木田独歩さんとか寺田寅彦さんをいただくなどした。短い文章でも重厚な味わい。言葉にちゃんとその人の文体がある。今日読んだのは超短編小説だけど、随筆文化みたいなものは僕が見ていないだけでずっと続いているのか思い至る。私的な領域はブログになって、公的な領域はエッセイになったのかなと。

 

ところで、中上さんはそろそろ終わりそうなのだけど、白痴という単語が出てきて、某誰かさんが安吾さんの白痴を想起したのはここかなと思った。僕の中ではこの2人の接続性を全く感じられないのだけど、中上さんが安吾さんのファンだったらしいし、まだわかっていないみたい。

 

中上さんと言えば、もう1人の某誰かさんのブログを別の意図で掘り返していたら、シンポジウムの記事があって、なるほど、中上健次が気になったのはここで無意識に刻印されていたのかもしれないとか。

 

こういうのを、僕の中では「穏やかな繋がり」と呼ぶことにした。

 

 

穏やかでは居られない自分の無知を挟む。試験の結果がかえってきたのだけどあと17点足りなかった。ほんと駄目だわ。というのは、知識だけいっぱいあるけどそれを思考で有機的に繋げてない。知識は頭を重くするのは確か。正解があるならそれだけ知っていれば良いというのが当たり前。1つ1つ再構築する。

 

まぁそこまで囚われてはいなくて、全部ひっくるめてそうでなければ今の自分は居ないから。よくもまぁここまで引き延ばしたものだ。好きな人への穏やかな好意のためか、なんて運命論みたいなことも関係ない。

 

ヘーゲルさんの言葉もだんだんと分かってきていて。人間の意識とは、対象に対する意識と、その意識自体で二重性があるのは分かる。何かに対して認識することは、その何かを認識できる意識があるからであって、対象だけが存在している訳ではない。

 

人間とは未知なるものもそろそろ終わる。唯物論から離れるべきだという意識はとても分かる。いや、現実世界は物理とか結果とかの物でできてるじゃんという反論もとても分かるのだけど、素朴な再反論。

 

そもそも貴方は自分を物理的な体としての存在だけで認識していますか、現実化しなかった感情とか精神は自分としないのですかと。

 

自分は現象としていないのに他人は現象にするっていう認識が歪なのではなかろうか。確かに現象としか人は見えないし、発言の方が非言語より重いというのも分からんでもないけど、じゃあ自分は発言の方が自分の存在より現実的としているかどうか。自分の存在を絞り出しながら雑談なんてできないでしょうよ。

 

僕は全然人を唯物的に見られなくなっているので、相手にとって自分がどうであるかについて悩むことはやめにした。日記を読んでいる方は僕のこれを読んでいたと思うけど、こんなの知ったことではないにしないと頭が爆発する。

 

僕にとってどう観測されるかが全て。

 

別に観測されたから即現実的な何かみたいなことではなく、穏やかに繋がっていられることがとても嬉しいなというだけ。

 

では、良い夢を。

 

おしまい。