投擲的表現

 

 

今日の月は雲でぼやぼやしていた。ふと思い出して、RUIの月のしずくを聞く。当時もっと荘厳な声のイメージだったけどそうでもなかった。まぁ女優さんだし。年齢がバレる。

 

 

 

人が現実的に観測されるときに醸し出す空気を感じる器官はどこなのか。1つ、思い込み経験則が考えられる。ただ、だとしてしもそう感じるものは仕方がない。なれば、自分が感じる世界を前提に判断すればよいのでは。あれ、これって、やっと普通の感覚か?

 

 

さておき。

 

今日の日記パートは手短に。時系列はばらばらなのだが。

 

何日か前、大粒のちゃんとした梅干しを見つけた。原料が梅干しと塩と紫蘇しかない。確かにちゃんとした味がする。もともとが保存食なのだからもっと出回っても良いはずだけど需要を考えるとそうでもないのは分かる。このちゃんとした梅干し、きっと塩分が半端ない。これくらいの塩分がないと保存できないのだろうな。塩分の過剰摂取は糖分と違って即、死に至るものだから、他で減塩されていない食生活だったら、減塩で代わりに保存料が入っている梅干しの方に軍配が上がる。

 

今日のご飯。

 

そろそろ厚揚げとちくわとキノコのレンチン煮物が悪くなりそうだから、残り半分で明日の弁当以降用に新しく作った。厚揚げを細かく切ると白和えみたいになったから、今回は厚揚げもちくわも大きめにきってチューブ生姜と醤油と砂糖で味付けしてレンチン後に鰹節をまぶして混ぜた。まだ食べてないけど臭いは良い感じ。メインは薄味にする。豚肉とキャベツの炒め物。塩コショウとちょっとだけほんだし

 

 

もう1つのご飯としての青空文庫。昨日食べたのに書き漏れていた。小泉八雲さんの「生霊」。なんだかこう、生霊が存在することが当たり前の世界観がとても良い。見えないものは存在しないというような現代観だけどそろそろ循環しているような気がする。人の感情は誰かに現実的に干渉しなくても影響しうる。スピリチュアルというよりもっと現実に近いところで。

 

この話の筋は、とても有能な奉公にやってきた青年が死にそうになって、なんだ恋の病かって叔父が聞くのだけど、実際は奉公先の50を超えた奥様が生霊として出てくるのですということだった。奥様曰く、自分の息子が無能だから、きっと息子の地位が奪われると思ってどうしようもなく憎んでしまったとのことだった。

 

この話を食べて思ったのは、どれだけ良い風に過ごしていても恨みはどこから買うか分からないということで、なれば自分が馴染むように世界と接するしかないなという、昨日の日記にループする。

 

あと、今日はまた田山花袋のエッセイとか太宰さんのエッセイをいくつかいただいた。こういうコラムが膨大にあるということは、言葉で自分のことを語るというのが流行った時期なのかなと思うと、やっぱり周期なのかと思う。文士でなくても言葉で自己表現できて、なおかつそれが公の目にさらせる。

 

田山さんが進んでいたのかは知らないけど、個人主義になると、社会の中に自分があるから自分の中に社会があるのだということになると書いていた。社会と個人は完全に切り離すことができないから、交渉の程度問題だとも。やっぱりこの時代の人と飲みながら話してみたいなと常々思っている。

 

大学時代に三島由紀夫さんの新恋愛講座を読んだ。高校の現代文の模試に一説出てきて面白そうだなと思ったら原典がたまたま見つかったのだけど、全然古くないという味わい。もしかしたら一般観念は戦後前後からあまり進歩していないのかもしれないなとか。

 

太宰さんは自分の顔が大きくなったことを真面目に語るコラムがなんとも。顔がでかくなったら美男子ではなく男前みたいなものを目指すべきだとか言っているけど、なんだか物理的な大きさじゃないようにも読めて。

 

新着に柳田邦男さんも居たりグリムさんも待って居たりするから、ほぼ無限のご飯処である。

 

どうでも良いけど、硬い文体ばかり食べているのに自分の文体はどんどん緩くなっているような気がしないでもない。気のせいでもそうじゃなくても全然問題はないのだけど、素朴な語彙に落ち着いているということかね。別にもっと固くも書けるし書かなくても良いみたいな。

 

ちょっと時事。

 

アメリカでは締め付けが凄いことになっていて、若者の4人に1人が現実世界から退場したいと思っているらしい。物理的接触文化だからというのもあるかもしれないし、何処調べで何人へのアンケートかも知らないけど、社会的繋がりが鬱を防ぐという効果もあることからすれば分からなくもない。

 

大学に行っても同級生とほとんど交流できないというのはまぁまぁ寂しいかなって素朴な僕も思うけど、もっと素朴に最近の日記と繋げて考えるとここで言う社会的結合が一体何を指しているのかという話。

 

日本でもニュースになった某女優さんは、旦那さんもお子様も居て女優として地位も確立しているし社会的繋がりという意味では申し分なかったはず。女優って公的には使っちゃいけない言葉になっているみたいだけど、他意はないから関係ない。

 

いったい何と繋がっているのか。

 

なんだか田山さんが言うところの社会の中に自分が在るに回帰しているような感じ。そこに参加していれば生きている実感があるなんてことはなかろうに。

 

あくまで僕の話だけど、大学時代には大学に行けば話し相手は居たけど、それが楽しかったかと言うと、そんなことはない。誘われたら行かなきゃいけないみたいな強迫観念があったし、別に自己開示していた訳でもないし。この自分が薄まったことを存在意義にすることからすれば、コロナ禍ってとても大変なことなのだろうなと思う。

 

誰かに読まれないと、誰かと居ないと自分が確立できないから、せっせと共感を得られるような自分を演出しないといけない。

 

変な話、名前がついている関係的役割もそうよな。その役割に収まっていること自体が社会的な存在意義で価値だから、そこに収まっている個人の中身は問われない。

 

これは逆に言えば、もっと昔の方が精神衛生上まともだったかもしれない。個人で在る必要がなかったから。抽象的な属性の中で揺蕩って人生を過ごせばいい。

 

でも、個人主義の観念が導入されたものだから、個人と社会の距離感を自分で決めないとけなくなって大変だ。例えば、自分の思想の正当性を誰かも言っていたとか賛同されたで済ますような人に個人主義はまだ早いような気がする。

 

ちゃんと個人である人というのは、自分の正しさを他に求めないし、他人を決めない。という意味で言えば、物理的接触機会が多かった時系列より遥かに濃厚な人間関係が構築されているような。

 

勝手に観測しているだけだけど、この勝手な自己観測に殉じるというのが個人の定義であるとしたい。もちろんそのために他人の時間をもらうのであればちゃんとお伺いはたてるべき。

 

文士のコラム臭。

 

 

自分らしさ。

 

確かに直近先輩に良い感じですねって言わなかったことはなんだかつっかえている。別に言っても言わなくても良いことだけど、言わなかった自分に対して自分らしくないなという罪悪感というか、捻じ曲げた感というか。

 

翻って恋文で自分が言いたいことを爆散したすっきり感もあるのだが、ほんとに言って良かったのかという腑に落ちない感もある。

 

思想的にどちらに殉ずるか。自分でももしかしたら他意があるのではないかという疑義もあるけど、この疑義こそ思い込み経験則だと思われる。人は自分への効果の為にしか人を肯定的に評さないというテーゼ。

 

この自分への効果は、自分が人を肯定的に評することができるできた人物だという自己満足も含む。

 

投げっぱなしにしたいなぁ。

 

 

おしまい。

 

では、皆さん良い夢を。

 

おやすみなさい。