当たり前否定論

 

 

二度寝するときにちょっと眩しかったからタオルをアイマスクにすると、タオルを外しても全然目が覚めない無限ループみたいな夢を見た。んまぁ、世界とはこんなもんか。諦めるが結論だったけど、好きな人の最新noteを読んだからではない。その頃には書いている最中だったし。共時性、なのかどうなのだろう。昨日書き忘れたけど、もっと見たいなと思っていた。見ている人を見る人。

 

そういえば、2日前だったか、先生が、「今の日本は戦争なぞできない」と言っていた。情報の中枢を担うコンピュータのOSを外国産に頼っている現状で戦争が始まったら勝てる訳がないとか。確かにと思いつつ、ほんとに大事なところは国産でやっているのではとか考えた。僕宛の会話ではなかったからスルーしたけど、先生は会話好きだけど、雑談は仕事としてやっている感じがする。もちろんそんな意識はないだろうけど。

 

この戦争論は、某スマートフォンの会社の商売根性からの連想だったのだけど、ちょっと共時性がある。で、今日トイレに行っているときに思いついたのだけど、戦場での自分の役割の理想と現実について。理想って「戦争を止める人」では駄目なのかな。そもそも戦場は不可避で動かしがたいという前提があるのであれば空気読めない人でしかないけど、あくまで理想だし。相手国または自国の首脳陣を暗殺するとか、コンピュータをハッキングして情報統制を混乱させて継続できなくなるようにするとか、平和的な解決策で言えば争いのタネになっている資源の代替物を発見するとか。理想ではいくらでも場外戦線を張れるような。そう、舞台の外だから参考にはならない。

 

現実としては僕はたぶん誰かを守ってさっさと死ぬと思う。こんなの嘘みたいなことだけど、直近の元恋人さんが、地震が起こったときはすぐに諦めてるのではなく、生き延びることを考えろと言ってくれていた。この諦めは、他人より自分を優先しないという観念が含まれている。

 

そもそも、闘って当たり前という観念は当たり前なのだろうか。僕が女性の上司の方に聞くのが嫌のは、当たり前でないことを嘲笑する意識。今日ピンポイントでそういうことがあった。聞きに行くと、(なんでそんなことしようとするの、できる訳ないじゃん)という含意で応えられた。もちろん直接僕に対してではなく、僕に問い合わせたクライアントに対してだけど、隣に座っていた女性の先輩と一緒に会話のネタにする感じ。顧客は当たり前でないから聞いてきているのに。先生に聞きたかったが先生は聞かれることに忙しい。

 

社会は客観的なものとしているのかもしれないけど、社会は階層ごとの枠の集合意識でなりたっている。科学的事実と異なっていてもそれを正しいと意識している人が多数であればそれが正解で真実になる。例えば、天動説から地動説への転換とか部落差別とか、あくまで創られた当たり前ではないかという疑念。

 

闘わないといけない、争わないといけないというのも動物的自己保存の欲求の延長だというと、なんだか自然なことに思えるけど、それを自分に植え付けたのは周りの空気ではなかったか。戦争は政治の手段の1つであって、それをやることが有益だという上層部が存在しているだけ。原初は自分の内輪の利益の為に外に拡げるということだったかもしれないけど、あくまで当たり前なこととはならないような。だったら、今の日本は当たり前ではないのかとか。

 

別に啓発系の話ではなく、自分の意識が社会とは無関係というか、社会があるからしょうがないになる人が多数派であることが問題なのでは。いや、問題とまでは言えない。自然ではないだけで。自然であることが正しいともならない。僕は別に無抵抗主義者ではないから何かあれば抵抗するけど、闘うことが当たり前とはどうも思えないのだよなぁ。闘うってとても意志的。

 

過去に在って現実に在るのは確かだとしても、未来にもあるかどうかは分からなくないか。

理想と現実は違うという言は良く聞くけど、理想の為に何か現実で実際している人はいるのだろうか。こういう文脈だと、理想は空想の領域なような。

 

劇評にはこんなこと書かかない。舞台設定があるのだからそれを踏まえる。

 

どういう人であるというのも面白かったな。僕は「読む人」だと思われる。これは本の先生が評してくれたのだけど、当時は意味が分からなかった。もう関わりがなくなった今にしてなんとなく分かる。僕の人生の出逢いはだいたいこんな感じ。関わりがなくなってしばらく反芻してから言が正しかったことに気が付くラグ。

 

このタイムラグは本を読むときにも起こる。本の師匠と付き合っている時に買い込んだ諸々の古典が今やっとすらすら読めるようになった。「朗読者」の美味しさとか、エドガー・アラン・ポーをテーマにした美学小説はすらすら読めるのに原典は全然読めなかったけど、いま読んでいる黒猫はとても分かりやすくなった。

 

なんだか、自分より進んでいる人ばかりに出逢ってきたのだろうなという印象。(今もか?)

 

だから僕は人を見下すような自然がない。

 

 

どうでも良いけど、「したい」を解放したとき、好きな人と何をしたいかなと空想してみたとき、何かのついでは嫌だから、ご飯とか飲みとかは却下で、猫カフェ(アレルギーらしいから駄目だ、フクロウカフェなら良いか?)、ブックカフェ(これもついでになる)、とか諸々考え、ただ路地を歩くが良いなと思う。シャッター街の写真はとても楽しそうだった。これは記録と見ているの違いなのか。見ている方が当人に近そう。

 

 

そうして、読むという観念。

 

本の師匠は、筆舌に尽くしがたい虐待を受けてきた人で、詳細は知らないことにして、自分がズレた意味を探すために児童心理学とか発達心理学とかを読み漁っていたと言っていた。もじゃもじゃ頭の漫画の主人公も、そういう傾向があるように読める。自分の為の収集癖。だから、発話と連動している。本の師匠の文体七色感はなかなか凄かったな。

 

で、僕は別に僕を探すためとか楽しむためだけに物事を読まない。味は確かにあるけど、自分にとって美味しいのは何故かとなり、ここから、製作者の動機とか背景を読むことに繋がる。あえていえば、僕は「当たり前」の観念がとても嫌だったというのはある。説明がされないというのもあったけど、今思えば、それを語る人達がとても窮屈に感じていたからかもしれない。「よそはよそ、うちはうち」も、よそよりうちのルールが良いと確信していたら出てこない観念だし。

 

こうやって読み進めていくうち、当たり前は見つからなくて良いのだなと安心した。当たり前が実在したら、他人にもこれが正しいのだって強要できることになる。ここまで30余年か。自分ルールも決めなくていい。いや、決めてても良いけどいつでも覆していいが精確。

 

で、読むには当然書くことが連動している。「読み書き」。僕にとって書くことは、僕が読んできた存在としての自分の還元なのだろうな。いろんな作品で努力はショートカットされるけど、毎日続ける方法論こそが知りたいってもじゃもじゃ頭の主人公の整(ととのう、いい名前だ)君が言っていたけど、過程は一般化できないからですって回答したい。個人的には継続に価値を置かないようにものさしを調整するのが一番だと思うけど、まず自分の経年に価値を置くのが当たり前だしなかなか難しいと思う。

 

幼い自分の方が良かった部分もあるし、良かったと思っているから経年で自分にマウントを取らないといけないことになる。

 

おしまい。