独立的世界

 

 

 

あと2日で、有給消化の4連休。予定はないが髪を切ったり雑務したりで終わりそう。素面で世に言葉を投じようかという気もする。なんだろうな、ちょっと決めかねている。決めてしまえば勝手にやるのだろうに。

 

昨日、恋文で、「同じ時系列で存在していてくれてありがとうございます」とほぼ自動書記で書いた。合わせる語彙も、どう綴れば嬉しいのかという情報もないから、ほぼ完全に素朴な語彙で書くしかない。だからとても心地よくて長居させてもらっている。何も返ってこないことがむしろ良き。

 

このフレーズについて通勤中に解析していた。昨日の日記の、「この世ならぬ人」と「エレガントな宇宙」とアプリと歴史と諸々の総合だなと。

 

宇宙が生まれて人間が生まれて、さらにこれからも生まれてくる人間の時空間を考えると、せいぜい100年程度しか存在できない特定の器を持った人が同じ時代でなおかつ同じ言語圏に生きているということは、とても近くて、物理的に、精神的に近しくなることなんて取るに足らないのではないかという思想。

 

こうやって、自分の中身を言語化できることも、のほほんと自己存在を発掘できることも時代的にはもしかしたらここだけかもしれない。これから先は電子世界でも匿名性みたいなのは薄れていきそうな気もする。別にそれはそれで良いけれど、ギャップがどうなるか。自分の世界の中で認識している外に相手が居るとなった時ってどっちが正解なのかみたいな。

 

どちらも正解だろうという矛盾。

 

フロムさんの「愛するということ」があまり馴染まなかったのは、あまりに本質を突いていたからなのかと思わなくもない。

 

凄く書きにくい感じがする。理由も分かる。

 

昨日書いていたプラトン氏の饗宴の話も出てきた。性愛的合一欲求は愛の一種だとしている。素朴な僕は、性愛において相手と合一したという実感を得たことがないから、まだ拙いのだろうなぁ。交合も互いに与え合うことだと書いていたけど、ほんとにそうなのかと。どちらかというと、食べ合っている感じがある。まぁ捉え方の問題なのだろうな。食べ合うということは、互いに提供しているということでもあるし。そういう人とまぐあったことがないだけかも、ではなくて、結局は僕の感覚の問題でしかなかろうな。次の機会があれば試してみたいところ。

 

 

ちょっと筆を濁したけれど、ここから。

 

まず、人を知りたいという欲求が前提とのこと。ただ、これって、いや、ほんと書きにくいな。要は、人は自分と独立した個別の存在だとした上で、その相手を知りたいということ。

 

フロムさん、真面目に僕の今の見識と近くてなんだかやめてくれと思う。

 

そうして、人を主体的に知ろうとしたとき、理解では足りないところに至る。同じ階層の情報量がいくら増えたところで先の深さに辿りつけないというのは、自分のことすら理解に至らないことを素朴な感覚として持っている人なら当然の帰結なのだけど、自分の一番の理解者は自分だとみなしている人にとっては理解が関係の上限だということも分かる。

 

だから不一致感があるのではとふと思った。自分も含めて存在は理解するものではないのに理解の範疇に収めようとするから反逆が起こる。

 

で、他人を想う観念として、気遣いで合一化するのは虚しいというフレーズがあった。

 

ちょうど小説で、結婚式のシーンがあって新郎が亡くなった父親は気遣いの人でしたとか、最後に新婦を幸せにしますって言っていたのだけど、この文脈でいうと、これらの語彙って、自発性がないのよね。

 

自発性というのは、あくまで他人は自分とは無関係に独立して存在していることで、気遣いというのは世界を狭めているし、幸せにしますって、新婦の存在は新郎に従属したものなのかいってこと。野暮なことじゃなくて、自分の存在の範疇を外の規範で決めているのがほんとに正しいのかという話。

 

幸せにしますじゃなくて、僕は幸せですで良いような。言葉尻ではなく素朴な語彙。

 

自分の語彙は世界の表現であって、鏡になる。

 

仕事で、とてもクレーマーちっくでややこしい人が居るのだけど、なんだか、凄く寂しいのだろうなって読める。ちゃんと人として扱って欲しいのに、自分が人を物扱いしているから自分も物扱いしかされなくて、いっぱいクレームをつけてくる。だからとて、僕はそこを慰撫できる訳でもないし、この人からの受電は苦手だけど、独立した存在として見れば不毛な生き方しているなぁとは読む。

 

おそらく従属化することで同一を図りたいサディスティック傾向なのだろうなと。紙一重で、従属したいということもあるのかもしれない。

 

普通は同一化のために自分の振る舞いを装えるのに、それができなかったのだろうなって。

 

僕は相手の世界の中の僕の存在と自分の現実の振る舞いを一致させることはまぁまぁできていた。気遣いという受動的な世界の話。しかし、いちいち疲れる。

 

その場に居られる自分で肯定感を得られるなんてことはない。

 

僕が欠陥品なのは、近しい関係において誰かが何かを僕にしてくれた時、それは相手が勝手にやろうと自発したことであって、何か対価を求められていることではないと思ってしまうこと。それとは無関連で僕も何かしようとは思うのだけど、対価として捉えられるのもなんだかなぁと思ってしまう。

 

むしろ人に会わなくなれた今の方がストレスフリー。別に誰かを自分の王様のロバ耳の穴にしたいとも思わないし、僕の存在と、他人から感得される自分を一致させようとも思わない。現実世界で誰かと話し合いたい欲求は全然ない。声を聞いてみたいなとか、僕に何を話すのかなという意味で気になるのは否めないけど。

 

まぁ、会わなくても逢っているという感覚で、自分に辿りついてもいない人より、突き詰めている世にいない人に親密性を感じるというのある。まず、自分が理解できない存在であるということを自覚するべき。いや、しない方が良いか。

 

という自己観からすると、他人のことを分かろうとすることすらまぁまぁおこがましく感じる。対応ができるという意味で知るのだとすれば、相手は物扱いよなと。

 

結局は、僕は僕のことすら知らないから人のことも知ることはできないけど、気にかけることはできる。というか、ここだけなのか。

 

おしまい。

おやすみなさい。