爽快感

 

 

 

宇宙の進歩は生命が膠着状態、ついに火星に基地を作ったことで文明のエントロピーが上回る。新たな生物(始祖鳥か?)が生まれるまでにあと4回恐竜を滅亡させないといけない。僕にできることは基本的にタップか待つことしかない。

 

生命・文明のステージには流れ星をタップして広告を見たら15秒間タップで貯まるエントロピーが30倍になるというのがあって、タップが一箇所だけに反応しないというのを見つけて、5本指を使って150倍になるということが現実的な関与の限界。

 

長いことやっていたツムツムもそうだけど、現実的な技術とか知恵が問われるのは好き。ずっとマレフィセントを使っていたなぁ。ある時ふと思い至ってアンインストールしたけれど。

 

 

さておき。

 

そろそろ通勤路のきつねばなは来年に備えるらしい。色は悪いけど散り際の儚さも綺麗だと思えてきた。桜は散り際も色味が綺麗だからまぁまぁ得をしている。見栄えが良いものだけが世界において美しいものとは限らない。

 

仕事の話。僕が現実世界における場について特に気にならないのはここで働けていることも多分ある。上司は是非とも直にしたいから今度の稟議に上げると言っていた。こんな内側の話を派遣社員に言うものなのかというところだけど、それを言ったところで何かが変わることはないという評価もあるのか。

 

ただ、こういう評価が自己肯定感に繋がるかというと、やはりあまり関係ない。何故なら、社会評価って加点方式というより減点方式な気がするから。百点満点の30点上限の第一印象からどれだけ減点を減らせるかという印象。加点項目って言わずに減点項目を指摘するのが普通だと思われるし。褒められて伸びる人には厳しい社会だ。僕は勝手にシステムとか人間の性質とか観察して頼んですまんやでと思っているが。

 

ただ、誰かの拙いことをネタにした笑いはなんか嫌だなと思う。雰囲気で笑ってしまう自分にちょっと嫌悪感。自分だって拙い時期はあったし、拙い部分もあるじゃんって。自虐的に自分の拙さを語ってくる人も居るけど、僕はそんなことないよって想いながら話している。ただ、トーン的に伝わっているかどうかは不明。ほんとに拙さを恥じているのか、拙さを盾にして自分を守っているかは微妙な境界線だとは思う。

 

 

でも、そうやって一体感を作らないともたないという精神性もなんとなく分かる。フロムさんが書いていた。

 

その前に、お風呂読書で思わず笑ってしまったこと。兼好さんほんと好き。

 

「同じ心ならん人」の段で、同じような考え方の友人が居れば良いのに、そんな人居ないわーって書いていた次の段。「ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友にする」、僕がまさに兼好さんを友人と思っていることをこの人もやっている。そうだよなぁって笑ってしまって、こういう風に笑うのは潤う。誰かをネタにした笑いは乾く。

 

 

定期的に思うのだけど、自分が取り入れた世界の断片が、1つのカタチになっていく感じ。

 

小説の解説ってほとんど読まないのだけど、中上のさんの解説吉田隆明さんが書いていて、あぁ久しぶりって感じで読んだら分かり易かった。やっぱりオリュウノオバは時空を鳥瞰していたのかとか。

 

そろそろ本題か。

 

「愛するということ」

 

たぶん気になっていた当時に逢ってしまったら読んで通り過ぎるだけだったのだろうなと思う。満を持してと、かなり素朴な自分としてしっくりしてしまい、言語化が逆に難しい。

 

アダムとイブが知恵のりんごを食べてお互いが裸なのを恥じたということを性の非公然性と捉えるのは違うというところから始まる。別の個体であることに気付いてしまったとかなんとか。

 

で、人は素朴に孤立に不安を感じるからそうならないように、同調するらしい。同調の方法には色々あって、集団化とか祝祭的同一化とか諸々。この下りでいうと、誰かが拙いという共通認識を同調するのは自分の為なのだろうなと。この感覚がいじめの要因なのだろうな。

 

で、「愛」とは自他を融合化したいという衝動から生まれているらしい。なんだかプラトンさんの饗宴に出てきた、人はもともと半分で生まれてきたというちょっとグロテスクな話が想起される。男男と男女と女女がいて、それぞれ人は自分の半身を求めるのだみたいな。

 

融合の定義だけど、服従とか支配とか諸々出てくる。ここだと誰れかを含むこと、誰かに含まれることだから、まだ拙いらしい。

 

そうして、最終的に自分と他人は別の存在とした上で合一化されるという矛盾が起こるるとか。

 

この前提ってなんだろうと思うと、他人は自分の世界に含まれていないという認識だろうなということ。自分にとって相手が得なのか損なのかみたいな基準だったら、いつまでも関係市場からは離れらない。交換できる存在として過ごせない。

 

今のところ、愛とは与えることに喜びを感じることだとされている。与えることは自分が損をすることだと感じるものさしだったらここにはたどりつけないとのこと。ここで分かるのは、与えることが受動的だったら駄目だということ。駆られて与えるのではなく、自発的でなければいけない。

 

要は、自分が損して与えることで自分を保つようではここには届いていないということ。

 

自発的に活動するというのはとても分かりにくいと読んでいて思った。個人的な僕はとても分かるけど、ほんと自発に辿りつくのは情報化社会ではとても大変。自分で決めていると思わされる。

 

1つだけ例示するけど、自分が決めたことだったらそこに文句は出てこない。これは決定されているという受動性が内包されている。これを選ぶしかなかったのだって。

 

僕が通常の関係市場と離れたのは、市場価値においてまぁまぁ良い感じに見えても欠陥品で返品されてきたところと、あくまで人って自分の存在の中の僕しか見ていないよなと思ったところ。

 

この市場から離れても孤立感は全然ない。だから好きになったのかと納得している今日この頃。

 

では、皆さんが自発的でありますように。

 

おやすみなさい。