自分とは

 

 

 

プルーストがまだやってこないため、読み返し本を発掘する。きつねばなという名前を取集したし、森見さんの「きつねのはなし」にした。軽い気持ちで選んだだけど、こういうシリアスな話の方が真骨頂なのかもしれない。とても気持ちがざわざわする。この影響値こそ読書の良さなのだけど。

 

別に書く気もなかったけど、今日見た夢のことをどうしても思い出してしまう。またお祖父ちゃんが出てきた。少しボケてきたお祖父ちゃん(現実ではそうなる前に亡くなった)が、高速道路を走っている時に、あそこに思い出があるから寄りたいって言う。つれて行こうと思うのだけど、もう時代が変わって道も変わっているし、そのうち雨も降ってくる。お祖父ちゃんの体調も悪くなり、どこかのベンチで休ませようとそこをどいてくださいって誰か知らない人に言うのだけど、人が退いてもベンチがない。うわ言のように何かを呟いているお祖父ちゃんを抱えて、自分の準備不足を嘆いて終わる。どこも誰も記憶の中にはない世界。

 

睡眠が脳の整理夢がその一部の可視化だとすれば、なかなか更新されている。

 

 

それにしても兼好さん好きだわ。季節の良さを書いていて、こんなの書き古されたことだ、でも思ったことを書かないのは腹がふくれるから書かずには居られなないけど、こんなの破り捨てるものだから、誰にも読まれないってとても分かりみが凄い。

 

腹がふくれるってどういう意味か分からないのはともかく、なんでこういう意識の人の文章が残ったのだろうなというのは気になる。これが本心だとしないならまぁ紙媒体で出版されて残ったということか。確かに純粋に読まれたくないという感じでもないな。解説では、枕草子とか源氏物語よりも後に生まれてしまった劣等感のようなものがあるとかなんとか。

 

世界を創ろうとする側の葛藤なのだろうな。僕としては今の時代に生まれて古典読み放題なのがとてもちょうど良い。ある意味アレキサンドリア図書館よな。

 

僕のも思ったことを書かずには居られないだし、書いた後には削除してしまっても良いと本気で思っている。

 

さておき。ご飯の話も書こうと思たのだけど、弁当という縛りを失くして凝ったご飯は作る時間はないのだと結論。お蕎麦美味しい。ただ、美味しいご飯を食べたところで何も慰撫されない。あくまでご飯はご飯。

 

で、いつものごとくしばらくフロムさん。宗教的愛の下りはほんと重たい。僕は宗教的家系に生まれなくてほんとによかった。素朴な仏教観くらいはあったし、神棚もあったけど、思想に影響を及ぼすまでにはいかない。判断能力がある(と思える)大人が自分でどの宗教を信仰するかを選択するのは自由だけど、その人の下に生まれた子供はとばっちりでしかない。

 

もちろん、親の思想の下で教育されるのは当たり前だけど、これが宗教になると親にも親が居るみたいなことで、無軌道に宗教的価値観を信じてそうで。ただこれって、宗教を信仰しているかどうかは関係ないよな。世の中に正しいことがあると思っているならなおさら。

 

自分が正しいと信じている人は他責的に正論を語る。その正論が変わったら何事もなかったように覆るからな。ちゃんと自分で決めたことないのか。

 

宗教的父性愛と母性愛の下りさっぱり納得できないのだけど、あくまでどちらも外からやってくるものという意味ならなんとなく分かる。歴史は素朴な人格の発達と連動していると思うし。

 

要は、自分の精神の内側の話として引き直してみれば良い。母性愛は自分が自分であることが大事だから自分を甘やかすけど、父性愛は自分がちゃんとしないと承認が得られない。確かに個人の精神に限定してみればとても分かりやすい思想の動き。

 

でも、もっと素朴に考えると、そもそも承認が必要な精神性自体が未熟ということにならないだろうか。成熟した人がほんとに居るとすれば、自分が承認する側に回るはずじゃない?

 

いや、褒めて伸びるとか嬉しいとかは分かるけど、褒められなくても自己肯定感を抱けるか。

 

人間はいつまでも未熟だから承認が必要なのだっていう本質が見えないようにするのが現代の宗教観なような。これが無知の知ということ。自分のことすら一生分からない。

 

僕の話だけど、自分のことを大事にできない人は人のことも大事にできないという言説に対して常々疑問に思っていた。自分を大事にするって意味が分からないけど人は普通に尊重できるけどなって。

 

これって、宗教観と繋げてみてなんとなく分かった。自分のことを大事にするって、自分を無条件で肯定できることなのだろうなと。それができない人は他人も大事にできないということかと。でも、ご褒美がないと稼働できない自分を肯定するってどうなんと思う。自分のことを独立的存在として全然尊重してなくないか。

 

なんというか、意識が自分の器を見下しているような。劣化させたのはあんたの意識でしょうって逆襲がありそう。

 

僕と僕の器の付き合い方はなかなかうまく行きつつあって、これをやったら何かご褒美があったりも褒めたりもしない。ただ、良きに計らう自分を観測しているだけみたいな。しつけなきゃいけないという常識に引っ張られ過ぎたな。

 

自分の心身が一致するなんて修行僧くらいしかいないから、そう思い込んでいる人からは離れた方が良い。そういう人は他人の精神も決める(自戒)。

 

 

自己観は世界観。

 

フロムさんが無条件の条件付けで、母親の子供だから愛されるということを書いていて、その類型的愛は無条件ではないのは確かだけど、完全な無条件で何故か好きな人が居る。これはきっと僕の歴史で言えば1回しかないと思う。

 

もう少し自分の世界に潜るけど、フロムさんが匂わしているように、世界への繋がりって、関心とか興味が根っこにある。自分すら関心対象にしてしまえば、世界観はたやすく変動する。変動して良いのかは知らないけど。

 

僕としては、そもそも自己肯定感なんて要らんよなって。自分が勝手に更新することを観測して文句を言わない。こういうのが愛の類なのかもなと思う。放っておいても大丈夫。

 

気になったのが、フロムさんの世界観だと人は他人に無関心が規定値ぽいところ。その無関心さは翻せば自分への無関心なのだけと、僕は自分にとって有用かどうかは無関係で等しく他人に関心はある。

 

ただ、人の世界に入り込んでその中でも自分で居られるかというのはかなり怪しい。越境しても良いと思えるほどの正当性がないから。

 

恋文書こう。

 

では、皆さんちゃんと寝ましょう。

 

おやすみなさい。