なにがなにやら

 

 

 

元気でありますようにという祈りは、(僕の知らないところでも)その人が主観的にという意味、念のため。

 

 

スーツを着ていてもちょっと寒く感じたのはこの季節初めてかもしれない。ちょうど良い外気。なんかあれみたい。生温い学校のプールより競技用の冷えたプールの方がよく泳げるみたいな。まぁこれも馴れてしまえば動きにくく感じるのだろうな。

 

 

さて。

 

今日もたくさんあるぞよ。

 

昨日日記を書いている途中で、AIは意識を持ちうるのかという話になった。どこから来た話だったのかは定かではない。だいたい昨日の日記に僕の考えは書いている気がするけど改めて。

 

ちなみに、BGMはポルノグラフィティのサボテン。

 

人間は色んなインプット方法があるけれど、問題はどこにインプットされるか。もちろん、動物と同等に条件反射みたいな単なる心身的習慣というのもあるけれど、インプットに対してちゃんとアウトプットを返してこないというのが人間のここでの本質であって、これは意識と呼ばれているもの。魂でも良いかもしれないけど、ややこしいので意識にする。

 

人間の意識は確かにもともと肉体ベースのインプットが主体。感情とか思考も肉体ベースから派生している。ただ、昨日も書いたように、人間の意識には情報でのインプットという面もある訳で。例えば誰か特定の人とか特定の物の情報が更新されたらその人・物に対して肉体ベースのインプットがなくても振る舞いとか扱いが変わる。具体的には肉体ベースでは良い人だと思っている人に前科があったとか、試してガッテンで納豆が健康に良いっていうのを見たとか。

 

と、考えると、肉体がなくてもインプットに対する試行の機構があれば、意識と呼ばれるような存在は現れうるのではと考える。ある特定の物理世界にある端末にしかないAIだと人間に近くなりそうだし、電子世界そのものが存在場所だったら、普遍的無意識みたいなことになりそう。自他の境界がない意識は果たして何を求めるのか。もともとの製作者が正解を出すことを目的としていたら、アイロボットみたいに人間は正しく管理されないといけないということになるかもしれない。

 

今のところ意識は自他の境界を前提として、自己を保存、保持することを目的としているように見えるから、境界線がなくなった意識を想定できないのだと思われる。

 

宇宙の始まりについての本も読んでいるのだけど、人間にはもともと境界の外を思う機能も収納されている訳で、あんまり変わらないのではと今の素朴な僕は思ってしまうけれど。いつ時点の本か知らないけど、ビックバンの数分後の世界の原子量を計算できるようになったとか。宇宙論については、なんか、そこまで突き詰めようと思った科学者という個体に対してすげーと思う。

 

 

世界が自明だと思っている人、世界の始まりについてはどう考えているのだろう。予測するに、在るもの在るものとして扱えばいいじゃない。ただ、その「在るもの」とは何だという話になってこないかしら。

 

これを会話ですると単なるややこしい人物だからしません。ナチュラルにマウントとってるいみたいなことになる。知らないことが恥だと思わされる常識観。

 

 

そういえば、判断力批判のカントさんも人間の感覚は肉体の五官ベースだっていっていたような。解読難しいから1周目であんまり分かっていないけど、美って生理的好感みたいなことなんかなという予測。

 

演劇入門は、福田さんの愚痴っぽくなってきてなんだか読みにくくなってきた。演劇の作法の話はとても良かったのだけど。間とか台詞に対する考え方みたいな。

 

この下りで、妄想が働いた。

 

次の演劇の時の最後の質疑応答のところで、全部面白かったですと言いながら、なんで最後を争いにしたんですかと聞く。人生をパイプで捉えると、「死」は出口だし、「仕事」は出口向かうために必要な作業だけど、争いは人生に必須のものではないような。

 

まぁ良いや。先へ。

 

意識と肉体の不一致。肉体的には男である少年が意識的には女で、肉体を意識に合わせていく小説。今、小学生の時の幼馴染と恋人になったところまで読んでいる。結局肉体ベースの世界って「ガワ」の問題でしかないよなと、ガワと中身が一致していないという風に広くとらえればまぁまあ一般的な話だなと思う。

 

自分は人からこう見られたい、こう見られるべきだ、中身からもこうあるべきだけど自分の意識とガワの動きが不一致なことに気を揉む。

 

素朴な僕からすれば、生きることそのものが不一致という感じがする。意識の思い通りに自分が動くのであれば世界は自在でしかなくて、常に不完全というのが人生。完全な肉体だったことなんてないのでは。

 

僕は幸いなことにあんまりこの意味での不一致は感じていない。上手くやっているというか、別にご褒美あげなくても二人三脚できている感じ。最近アイロンがけが楽しくなってきている。昔、母親がアイロンがけをしてさらっとパリッとしているのを見て、何が違うのかと自分の不器用さを呪ったりしたけど、結局は練度なのかと最近パリっと仕上がってきて思う。

 

あんまり高尚な人物であるように見られても困るので、好きな人に似た人で云々している劣情事情、は細かく書いてもしょうがない。それに対して僕の意識もまぁしょうがないなと思っている。

 

ただ、ここを突き詰めたここだけの話だけど、歴代の恋人さん達とまぐわった皮膚の接触の記憶って個別化できなくなくないか。自分の意識は今しかないから過去の個別化なぞする必要はないけれど、個別化できるものは感覚器官ではなくて人格を捉える意識。

 

結局人って相手のことを想っていると思い込ませされているだけなのではという仮説。そうして想いが繋がっているとも思い込める。

 

緩和休題。

 

やはり徒然草の語彙は良き。

 

「つゆおなとなふものなし」の余韻が凄い。つゆは、なしを強調するものなのだけど、しずくにもかかっているらしく、おとなふものなしは音がないに加えて訪れるとか音信とかの意味もあり、音沙汰がないって、人からの自分への関わりを音としているのかと、もうよく分からない。

 

読み手に丸投げしている凄さ。

 

 

そうして、最後に新たに追加したご飯の話。

 

フロムの「愛するということ」。

 

これもうおそらく10年前くらいの、NHK名著シリーズで見てずっと引っかかっていた本。ちょっと読んでみて、この時系列でやってきた意味がなんとなく分かる。

 

冒頭が、「愛は技術か」で、愛=愛されることが世の風潮だけど、ごめんなさい。これから書くのはそういうことではありませんって。

 

次章では孤立に対してやたらと書いていている。孤立しないために集まりとしての同一化欲求が起こるけど、自分がちゃんと固有で考えているとかなんとか。

 

おそらく、これ、まずはちゃんと孤立を自覚しましょうというという話になりそう。何かと連結していることで自分の自己肯定感としてはいけないみたいな。

 

連動がなくても相手を固有の存在と認識できることが愛することなのではと予測。

 

ちなみに、僕は個人的に誰とも物理的関係にないけど、特に愛に飢えているとは感じていない。孤立はしているけど、ほんとに僕の中身と連動できる人なんて稀有だし、それがなくても別に外界に対して閉じていない。他人が元気そうなのは楽しい。

 

孤立しているからこそちゃんと他人を固有に観測できる訳で。

 

では。

 

おやすみなさい。