修行

 

 

心が静かだ。

 

 

本日の夢もよく分からなかった。どこか目的地に向かおうとしていて人のうちの庭を通ってショートカットしようとしている。これは田舎ではよくあること。そうして子ウサギを見つけて思わず抱きかかえる。小動物の命への近さがとても恐ろしい。そのあと家主に見つかって草ぼーぼーですねととか雑談をしつ、やはりこの命を抱えてはいられないと戻しに行く。

 

その時、マスクの女性がやってくる。どうやら元恋人さんのようだけど、僕には思い出すことができず、思い出せ! 決めつけるな! って詰められて目が覚める。

 

僕の恋愛遍歴、徳川歴代将軍ほど多くないから(当たり前)全員覚えているのだけど、誰だったのだろう。と思うと、集合した像だったのかも。恋人という関係性を成り立たせることができないことを思い出せということかと解釈してみる。確かにそうである。

 

さて。4連休だったけど通り過ぎれは一瞬で、残すは明日のみ。ヘッドスパは予約済み。ヘーゲルさんが「いま」の認識について語っている。これは普遍的観念だって。要は、移り変わっていく「いま」の瞬間の集合体。だから過去が早く過ぎるという認知は当たり前。「いま」の数ががどんどん増えるのだから。果たしてどの「いま」がほんとの自分のなのか。

 

 

本は全部届いた。本当に良いものしかない。不当利得の本は20年前くらいの本なのだけど、感動するくらい分かりやすい。不当利得の概念をここで端的に書くのはとても難しいのだけど、何か契約関係があって、財産が人から人へ移動した後に、その関係はなかったものだったと後から分かったとき、後始末をするルール。これは歴史に関わらずあるものなのだろうな。今回の改正でも全く変わらなかったし。これと最新の法改正した別分野の本の食べ合わせはとても良い。もっと積極的に書いても良いはずだけど、文字数が増すのがなぁ。

 

例えば、デートの約束が強制執行の対象にならないのは契約として国家が強制させるに値する拘束力がないからだとのこと。約束は義務ではない。でも、この素朴な約束的観念(お互いで決めたことにはお互いが拘束されるべき)から法律ルールが導出されたのかもしれないとも。

 

不当利得の本の人はこの分野の歴史を変えた人で、箱庭理論と呼ぶらしい。常時の法律のルールの全ての影にある法とのこと。

 

そういえば、どうでも良いことが思い出される。僕は大学時代の頃、人間関係一般を箱庭みたいなものと捉えていたなと。現実の交流ではなく精神の交流だと、それぞれの自己世界が在るけど、交流するためにはお互いに場を設けなければならない、それが箱庭、みたいな。物理関係は肉の近さだし物理世界という舞台があるから空間だけを気にしていればいいけど、精神が近くなるのは意味が違う。

 

この観念でなく別のことで、僕の中のことを開示したことがあるけど、そんなの当たり前じゃんって一蹴されたから、ここは語るべき対象ではないと学習して、現実的関係において語なくなった。別に語りたいということでもないけど、なんか現実的関係って、相手にどこまで話せるかをいちいちお伺いを立てている気がする。あくまで僕の話。

 

プルーストさん、何ページか読んだけど、全く話が進まない。よくもここまで登場人物の自意識を細分化して物語としてなりたたせなと。罪と罰の喧しい会話文の方が相対的に速い。まるで僕の日記のようだ。僕はそこまで中身を言語として書き綴ろうとは思わないけど、中身では考えている。実例としては、自分の体重い荷物を持って歩いているときどうやって重心を計算しているのだとか。平衡感覚の自動調整滅茶苦茶凄すぎる。

 

何故か泥酔時にローラースケートをやらされるという苦行の歴史があったのだけど、全然バランス取れなかった。あれなぜでそういう状況になったのだっけ。で、なんでそれを覚えているのか。

 

記憶と意識の継続性だけど、お酒で記憶が飛んだことをあえて取り上げる意味も分からんな。記憶が継続しているとして、例えば2週間前の夕食はって聞かれて正答できる人がどれだけいるか。僕にも無理です。だから、継続していたということが自己意識なのだろうな。

 

本気で辿ろうとすれば辿りつけそうだが(自己観)、そうやって常々失われていくものを自分とするのはどうなのだ。そういうものなのだ?

 

僕が自分のことは一生分からないというのはこういう意味。自分が現実的にどう振る舞うかとかは統計的にデータがあるけど、無意識は自分の意識で観測できる範疇を越えて収集しているし、自意識も更新されていく。確かに現実的にどうであるかに絞れば不動化できるのけど、それってほんと自分なんかと。

 

自分が自分であることと宗教観を考えると、ちょっと異説が起きた。

 

世界に対する認識の補助線。カミサマって世界の創造主だから、その世界に対して善い行いをしないといけないという道徳観を作った。僕は完璧な無神論者だから、こういう漠然とした信仰は、一体なんのために信じているのだと思う。

 

この宗教観として、フロムさん曰く、思考ではなく行いだとのこと。確かに行いで当然世界は変わるけど、思考でも当然認識は変わるだろうよと。

 

ここには時代的な不公正があって、フロムさんの時代は思考が現実化するという現実はなかったのかもしれない。(どの時代か調べてない)

 

行いは体が移動するものだけど、思考は移動を伴わないというのが歴々とあるのかもしれない。思考はあくまで内側のことを細分化することだって。

 

僕の説だと。中身を細分化できるからこそ外のこと細分化できるということになる。

自分のために思考を遣おうとするからそういうことになるのだろうな。

 

人が創ったシステムは当然目的があるけど、人自体は目的は全くなくて良い。宗教がまさに目的を作ってくれる観念だけど、そこに固執しなくも良い。

 

今日はここまで。

 

では、おやすみなさい。