遷移

 

 

あれだけ鮮やかだったきつね花。もう茎以外はほとんど残っていない。かつて花だったものは枯れ葉色の糸模様。かわって、かほりが咲き誇る。マスクをしていても、いや、マスクをしているからこそ、か。1年周期で鼻腔を刺激するそれは、金木犀という名前が付いている。秋が最も良い季節だとされているのは、過ごしやすさだけではないのかもしれない。

 

何の目的も執着もなく習慣にもならず続けていることについて、自身に何か裏があるのではないかと勘繰ろうとする精神性。まるでそんな継続はありえないと糾弾されているようだ。弁当を食べた後、歩いているとふと彼の人の顔が想い出される。おや、遂に記憶に収納するのか、それも良いだろうと思われたが、以降、鮮明に浮かべることができなかった。やはりまだいまにしておきたいのか、それも良いだろう。

 

 

さておき。

 

この文体で続けると日記ではなくなりそう。しかし、ほぼ毎日在り続けるって、ある意味命みたいだ。いったい何がこの生命力をもたらしているのかは知らないけど生きることを気にしないほうが明らかに生きている気はする。

 

「人はどこからきて、どこへ行くのか」という本を立ち読みした。文系のインタビュアー(びゅいー?)が理系の人達から色々人間について聞くというもので、好きな脳科学者さんが居たからそこだけ。

 

そこで語られたのは言語のトラップというもの。言語で考えるというのはループになるということらしい。曰く、自分とはなんだと問うたしてこうだと結論付けても、ではこれを決めたのは誰だという上位者が前提となっているみたいな、昨日の無意識の海の話が1つ。

 

もう1つは、言葉によって、自分の範囲が拡張し続けるという話。言葉によって指示される対象は自分の世界に含まれているとか。自分と世界の境界が曖昧になっていく。例えば月という言葉によって月を認知できるけど、その認知は客観性ではなく主観的なその人の世界、みたいな。

 

悩みはループするから意味がないみたいな言説ここからするととても分かるし、いかにも脳科学者的な視点だと思う。脳は無駄なことに疑問を持つようになっていて、それが人間を特長付けるとも言っていた。この無駄というのは、物理的肉体の維持とか種の存続なのだろなと推測する。

 

言葉は何か流動的な非言語を規定するものだということからすると、まぁまぁ分かるし、僕もそういう考えを持っている。ただ、そうでもないかもとふと今日思った。

 

この話の前に昨日の人格の階層の話。これを書こうとするのも、何の目的も…なく継続して読んでいる人を仮定していて面白いな。

 

ともかく。

 

法律学における人って、社会的人格だよなと。社会的に意味あるなしを判断して制御した行動ができる抽象的な人がモデルになっている。ただ、これってほとんどの人が意識せずに最大公約数的にはできているということで、近頃になってやっとこの括りが分かった僕はなかなかの欠落的人格。

 

行為論も意思論も社会的効果を目的としている。どこからがどこまでが社会的人格に値するかというのも法律によって違う。民法では胎児はいくつかの類型でしか人ではなく、刑法では、殺人罪の対象になるのは母体から一部露出した段階で、それまでは堕胎罪という特別な類型になる。堕胎罪の方が遥かに罰は軽い。人として生命が存続する肉体があって初めて人間になる。憲法がいう人格の尊重もこの社会的人格で、まぁ確かに法的ルール自体が社会の存続の為にあるし、そういう枠だ。

 

経済学は消費者としての人格が考察対象だから、もう少し素朴な人格に近いかもしれない。合理的な判断をしきれない人も想定されている。が、この雑多な個人の嗜好は捕捉できないから、経済学では経済は良くならないのだろうなとも思う。ゲーム理論は面白い。

 

心理学はあんまりよく分からないな。無意識の海の話はユングさん以降知らないし、フロイトは性衝動が全てだとしたらしい。唯物的な心理学は脳科学に吸収されそう。好きな学者さんの本が心理学的だった。こういう感情はこういう脳の機能からやってきているのだ、みたいな。

 

でも、性衝動が云々とういうのもフロムさんと合わせれば分からなくもない。素朴な孤立感を解消するためには、何か自分が他のものと同一であるという感覚が必要で、一体感を手っ取り早く得られるのはこういう肉体の繋がりだろうし。

 

ただ、この欲求って食欲と一緒だから、一瞬しか満福にならない。

どうでも良いけど、世界への興味関心もこの意味では一生満福にはならない飢餓なのではと危惧している。いや、満福は後がしんどいので必要ないけど。一生人のことなぞ分からないと規定したとき、何をもって満たされるのか。この文脈からすると、ひたすら本を読むことも理由をつけようとすれば、本から取り入れる何かとの融合化欲求とも考えられる。

 

僕はもう自分が1人しか居ないというのは自明だから、融合はないと決めつけている。尊重があればそれでいい。取り入れることを対象との一致とみなすかどうか。

 

というところで、フロムさん曰く。成熟した人格に必要なものはナルシシズムをなるべく排除することだとか。ナルシシズムって自意識過剰でいいのだっけ。要は世界を自分の主観で捉えるのではなく、客観的にはどうなのかという視点を持てること。自分の世界が他人の世界でもあるという人と接するのはとてもしんどい。

 

でも、ありのままで他人を捉えるようにすることって、どういう関係になるのだろうな。利益不利益で意味付けしないというのは分かる。あぁそうか、それでも関係するかどうかか。

 

僕の世界の自己観は社会とか物理に寄っていないけど、こういう自己観の意味付けによって人と関わるのは面白いことだなと感じている。相手から規定された人格を気にしてもしょうがない。

 

とにかく、まだまだ中途半端だからもっと突き抜けなきゃならんなと思う次第。

 

 

そうそう。言葉の箱の話。

 

フロムさんのいう客観性としての理性が言葉の箱だとして、その箱に自分を収めるという感覚はどうなのだろう。

 

何かを伝える、そう伝わるみたいな意味論で言えば、自分を世界にどう意味づけるかという文脈なのだろう。

 

僕がふと思ったのは、どう伝えるかを吟味したところでどう伝わるかは受け手次第だから、ここに手をかけても仕方がない。

 

これだけ毎日自動書記した収集として、想念は言葉に閉じ込められなくて、どの言葉というパッケージを宛てるかだけのような感じ。言い回しで本質が変わる訳ではない。

 

箱理論は、どう伝えるかというよりどう伝わるかに向いている。

 

少なくとも僕は僕を言葉で規定はしなくなりました。

 

人の本質と話がしたいな。

 

 

おしまい。

 

皆さんが笑っていますように。

 

おやすみなさい。