うろ

 

 

 

副菜のタンパク質、何かバリエーションあるかと検討していたら、かまぼこがあった。よく父親が板わさを食べていた。あと、シャンプーが切れたので見に行くと、メーカーも良く分からない、馬油と椿油とココナッツオイルの艶やかな柄のものがあった。保湿効果に優れているとのことでちょうど良かった。使い心地もまぁまぁ良い感じ。

 

かまぼこは味が濃いからどうやって調理しようかと冷蔵庫と調味料と相談しみて白菜とレンチンして昆布茶で味付けすることにした。結果、かまぼこなのに優しい味になった。なんというか、昆布茶漬け。

 

 

今日もいろいろある。順番が大変。

 

発端は昨日の恋文か。実際に読んでいるかも知らないのに、おやすみなさいと発信できることがとても嬉しいなと思ったら、顔が勝手に微笑んでいた。そうして、昼休憩の時に本屋に寄ったらまさかの黒猫シリーズの続編が出ていて、思わずにんまりした。あ、同じだって。

 

存在に接することができるという「喜」の感情。本は娯楽の消耗品であって存在ではないだろうという反論がありそうだけど、本だって書いた人がいる。自分が知覚できる人にも内心があるのと同じ。本も実物も自分に対する効用ではなく関係を食べるもの。

 

ついでに仕事でも笑っていることが増えたし、発話も若干増えたけど、これはまたちょっと方向が違う。なんというか世界に対する興味津々が解放されてきて、諸々の人や物事に気をかける。幼稚な精神性かとも思うのだけど、自分とは無関係の事象に自分事への関心より等価以上に心を傾けるってフロムさんの言う愛に近いような気がする。未成熟の時は自分に有用なものはなんだという自分の建築作業のための興味。

 

そんな奴居るのかという点で、毎日僕は前日の日記と恋文にツッコミを入れる為に点検する。

 

意図なく好意の表明をすることが本当に在りうるのかという命題。

 

好意の表明は歓心を買いたいという意図があるのが一般ではないか、そもそも、みたいに考えたのだけど、結論としては、僕がそれを表明することが嬉しいくらいの意図しかないなということになった。

 

これはこれとして、他人を気にかけるくらいには自分もちゃんとしようという方向にエネルギーが向かい、年末調整の書類がポストに入っていたからさっさと準備した。ちゃんとしてないと心に引っかかるよなって、宿題をさっさと済ますではなく、宿題が残っていることに心を傾けるのももったいない。この層にはまだいくつかあるからさっさと処理せねば。

 

面倒だからやっていないともちょっと違っていたのだろうな。と勝手に思っている(自分のことなのに)。

 

この日記の時系列の最初の方に、自分の精神の原型というか原風景みたいなことを考えたのだったのを忘れていた。スピリチュアルでも心理学でもなく、掘り下げていったらなんとなく分かるはず。僕は雲に憧れる樹木みたいな感じで、虚ろというとうか洞があるなぁって思っていたのだけど、空洞だから叩けば響くのだなと「喜」でかき鳴らされる自分を想ったのだった。

 

こういう今日考えたことを言語で再現できるのって、記憶力の領域ではなく「いまここ」だろうな。記憶だと今の自分とは関係ないことだけど、「いまここ」はあくまで自分の範疇であって、「ワーキングメモリ」がどこまであるか。一般的な語用だと外界の情報を処理するための刹那的な記憶領域だったはずだから若干ずれるけど、今の自分が記憶しなくても良い領域と考えるとまぁまぁ似ている。

 

さておき。

 

本の話。

 

徒然草はやはりどうしようもない。「風が吹かないのに落ちてしまう花びらのように人の心ははかない」というフレーズはとても切ない。この時代に死別よりも親密になった人が別の世界の存在になってしまうことのほうが寂しいという感覚。いや、今もそうなのかな。人は自分の世界から離れてしまった人に対しては生きていたとしても無慈悲だ。

 

僕も、累々の人達、関係と別枠にすれば定期的に気にかかるけど、また近くとかは思えないし。でも近かったからそういう感情になったであれば、それは近ければ誰でも良いということで、ノーサンキューで良いのかもしれない。

 

 

美学の本もなかなか響く。研究とは愛を持って対象にのめり込むことだとか。

 

あと、なかなかの爆弾発言。作中、ある作家が某犯罪で検挙されたことによって評価が下がるのだけど、表現物と作者は別だろうみたいな。たしかに、太宰さん時代とかの薬物関係は大丈夫なのに、現代アーティストだと不倫すらアウトなのはとても面白い。不倫すらというのは、これって別に犯罪じゃなくて、責められるのは婚姻関係にある配偶者だけということ。

 

なんだか、創作者に対して完全な人格であるという信仰がありそうな感じ。別にその信仰を守るために創作者さんは個人として生きていないし。

 

偶像崇拝というより、どこかに自分が求める完璧な人格があるみたいな、まさに宗教的な感覚のだろうか。

 

ほとんど受動的な情報収集していない自分にすら見えてくるのだから、よほど話題になったのかな。

 

情報過多に対して、ちらっと見たのだけど、自分の現実的利害とは全く関係ないことに感情的になるのは情報が多すぎて処理できてないのではないかとのこと。

 

まぁ、情報は話題のためではなく自分がちゃんと欲したものだけ取り入れるべきよな。あと、異常独身男性というのも見かけたけど、きっと僕の方が異常だからあんまり見ていない。

 

なんだろうな。まだいっぱいありそなのだけど、ここまでっぽい。

 

言語化のいまここもどれだけ客観性があることを主観的に提示できるかだけど、相手が主観的にしか言葉を扱えなかったら、単なる無駄な長文にしか見えない。

 

どう見えるかとどう見たいかの齟齬は一致させなきゃならんな。

 

おしまい。

 

ここでおやすみなさいと書くのがもったいなくなってきている。